勇者姫アリーナ その5
暗闇は、もはや時間を奪うものではなくなっていた。
時間という概念そのものが、ここには存在しない。
眠っているのか、起きているのか。
考えているのか、ただ感じているだけなのか。
勇者姫アリーナは、いつからかそれを区別しなくなっていた。
鎖は、まだ重い。拘束も、屈辱も、終わってはいない。
それなのに――
恐怖だけは、少しずつ形を変えていた。
――足音。
闇の奥から、それが近づいてくる。
以前のように、心臓が跳ね上がることはない。
代わりに、胸の奥がひどくざわめく。
(……来た)
それを“事実”として受け取ってしまった自分に、
アリーナは一瞬、戸惑う。
魔王が近くに立つ気配がする。
「生きてるか?」
声は低く、落ち着いている。
責めるでも、嘲るでもない。
いつも変わらぬ言葉。ただの生存確認。
それでも……声が聞こえるだけで、胸の奥がざわめく
「挨拶の仕方も忘れたか?」
アリーナは唇を噛む。
反論しようとして、言葉が出てこない。
何を言えばいいのか、分からないのだ。
「お前は、強い。」
不意に、そんな言葉が落ちる。
強い。
かつて、何度も聞いた言葉。
だが人間たちのそれは、
強いんだから戦え、強いんだから耐えろ、という、なんとも自分勝手な言葉だったように思う。
「それでも、お前はここにいる」
魔王の声は、現実告げている。
「裏切られたと感じるのも、無理はない」
アリーナの指先が、わずかに震える。
(違う……裏切られてなんか……)
そう言い切るには、
あまりにも、誰も来なかった。
「誰も、ここへは来ない。知ってるか?お前を騙した村の連中は、すでにお前のことなんか忘れてるぞ?お前の国の者たちも、冒険者ギルドの連中も、みんな無関心だ。」
淡々と告げられる事実が、彼女の胸に、ゆっくり沈んでいく。
「だが、俺は来ている」
その言葉に、説明はなかった。理由も、強要もない。
それなのに、その“対比”だけが、はっきりと残る。
人間たち――来ない存在。
魔王――来る存在。
どちらが正しいかではない。
どちらが現実かという問題だった。
「……黙って」
かすれた声。
だが、以前のような怒りは込められていない。
アリーナ自身、もう何が何だか分からなくなっているのだ。
何が正しくて何が間違っているのか……
だけど魔王は、気にした様子もなく続ける。
「お前が、ここにいる理由を与えてやれるのは、俺だけだ」
理由。
その言葉が、アリーナの心に引っかかる。
意味のない苦しみほど、人を壊すものはない。
だが、意味があると信じられた瞬間、人はそれに耐えられてしまう。
(……やめて……聞きたくない……聞いてしまったら、もう……)
心の中で叫ぶ。
だが、否定の言葉は、もう刃にならない。
魔王が去ったあと、暗闇は相変わらずそこにある。
けれど、完全な無ではなかった。
さきほどの言葉が、余韻のように、彼女の中で残響している。
(理由……)
考えてしまうこと自体が、すでに変化だった。
アリーナはまだ、忠誠を誓っていない。
魔王を信じたわけでもない。
だが――
魔王の言葉だけが、この世界を説明できるものになりつつある。
それが、彼女自身にも分からないまま。
誇りはまだ砕けていない。
だが、その支え方は、静かに、確実に変わり始めていた。
・
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暗闇は、音を奪う。
声も、時間も、思考さえも。
アリーナは、どれくらいそうしていたのか分からなかった。
膝を抱えることもできない姿勢のまま、
ただ呼吸だけが、自分が生きている証だった。
(……静かすぎる)
最初は、耐えられた。
勇者として、孤独には慣れているつもりだった。
だが、これは孤独ではない。
無関心だ。
誰にも認識されていない。
世界から切り離されている。
(……私、ここにいるのに)
声を出しても、返ってこない。
祈っても、何も変わらない。
思考が、内側へ内側へと沈んでいく。
――足音。
それを感じ取った瞬間、
アリーナの胸が、はっきりと強く脈打つ。
(……誰か……)
違う。
誰でもいいわけじゃない。
それを理解してしまったことが、
彼女をひどく動揺させた。
魔王が近づく。
闇の中に、確かな「存在」が生まれる。
「……生きているか」
その一言だけで、
胸の奥に張り付いていた重たいものが、少し剥がれる。
「……うん」
短い返事。
勇者らしくも、姫らしくもない。
だが、返事ができる相手がいるという事実が、今の彼女には何より大きかった。
魔王は、それ以上何も言わない。
責めもしない。
慰めもしない。
ただ、そこにいる。
その沈黙が、先ほどまでの沈黙とは、まるで違って感じられる。
(……一人じゃない)
そう思った瞬間、アリーナは、はっとする。
違う。
そう思ってはいけない。
(私は……捕らわれている……)
だが、その思考は、胸の奥まで届かない。
魔王が去る気配を見せると、アリーナの喉が、ひくりと鳴る。
「……待って」
声は、思ったよりも弱かった。
自分で言っておきながら、彼女は信じられない思いで、口を閉ざす。
魔王は、足を止める。
「何だ」
問い返されただけ。
だが、その一言で、彼女の存在が、再び世界に繋ぎ止められる。
「……何でもない」
すぐに取り消す。
勇者として、情けなさを認めたくなかった。
魔王は、何も言わずに、もう少しだけ、その場に留まる。
その時間が、アリーナの呼吸を、少しずつ整えていく。
(……この人がいる間は……)
考えないようにしても、心は正直だった。
恐怖が薄れる。
思考が、止まる。
「……行かないで……そばにいてよぉ……」
今度は、もっと小さな声。
命令ではない。
願いですらない。
ただの、恐怖の吐露。
魔王は、否定しない。
「少ししたら戻る」
その言葉を聞いた瞬間、アリーナの胸に、はっきりと安堵が広がる。
「……うん」
返事は、迷いなく出た。
このとき、彼女はまだ魔王を信頼していない。
忠誠も、誓っていない。
ただ――
孤独から救ってくれる存在として、魔王を必要としてしまった。
それだけだった。
だが、それで十分だった。
この暗闇で、「一人ではない」と感じさせてくれる存在は、もう他に、どこにもなかったのだから。
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・
・
・
・
暗闇は、一定ではなかった。
魔王が去った直後と、しばらく経った後とでは、同じ闇でも、重さが違う。
最初のうちは、まだ耐えられた。
彼は「戻る」と言った。
その言葉が、時間の代わりになる。
(……まだ、大丈夫)
そう思いながら、呼吸を数える。
一つ、二つ。
だが、いつからか、その数が曖昧になる。
戻る――
それは、いつ?
考え始めた瞬間、胸の奥が、ひどく冷えた。
(……もし……来なかったら)
その想像が、頭から離れない。
誰も来ない暗闇。
声も、足音も、意味もない世界。
アリーナは、思わず息を詰める。
「……っ……いや……怖いよ……」
声を出したくなる。
だが、呼べる名は一つしかない。
それを口にしてしまえば、何かが壊れる気がして、唇を噛む。
(私は……勇者……)
何度も繰り返した言葉。
だが今は、心を支えてくれない。
勇者という言葉は、誰かに見られてこそ意味を持つものだった。
――足音。
それを感じ取った瞬間、アリーナの思考が、一気に止まる。
(……来た……来てくれた。)
胸の奥に溜まっていた不安が、音を立てて崩れる。
俺が近づく気配。
それだけで、呼吸が楽になる。
「……遅かった。」
口をついて出た言葉に、アリーナ自身が驚く。
責めたかったわけじゃない。
ただ――
来ない時間が、怖かった。
「待っていたのか」
問いかけは、淡々としている。
否定しようとして、言葉が出てこない。
沈黙が、答えになる。
「……一人は……怖いの……」
ようやく絞り出した声は、もう、弱さを隠していない。
魔王は、すぐには返事をしない。
その間が、彼女を不安にさせる。
(……怒った……?)
だが次の瞬間、低い声が落ちる。
「俺が来れば、怖くないのか?」
その言葉に、アリーナは小さく、しかし確かに頷く。
「……うん」
それは、恥ずかしい告白だった。
だが、否定できなかった。
「お前を捕らえて、こうさせている原因だぞ? 」
「うん……もうどうでもいい……ただ、一人はいや……一人は怖いの……。」
「なら、一人でいるときは俺のことだけ考えていろ。俺の名前はカズトだ。アリーナが欲しいと思っている。俺がいる限り、お前は一人じゃない。」
カズトの言葉で、胸の奥に張り付いていた緊張が、ゆっくりほどける。
(……いいんだ)
一人で強くなくてもいい。
耐え続けなくてもいい。
その許可を与えてくれたのが、この暗闇で唯一の存在だという事実が、彼女の心を、静かに縛っていく。
俺が立ち去る気配を見せると、
アリーナは反射的に声を出す。
「……次は……いつ?」
問いというより、確認だった。
「すぐだ」
短い答え。
それだけで、十分だった。
「……待てる」
その言葉は、強がりではない。
来ると分かっている孤独は、もはや恐怖ではなかった。
魔王が……カズトが来る。
それが、この世界のリズムになる。
アリーナはまだ、自分が依存しているとは思っていない。
ただ――
一人でいる時間より、魔王がいる時間の方が「現実」だと感じ始めていた。
それが、後戻りできない境界だった。




