第6話 崩れた指揮者
朝の学園は、昨日までの静けさとは違う緊張を帯びていた。泉の水面に映る影は揺らぎ、そこに見慣れぬ人影が横たわっていた。
コンダクター――かつて次元を渡り、愛を翻訳する力を持っていたはずの存在。だが今は、問いに囚われて意識を失い、ただ弱々しく息をしている。
いずみは駆け寄り、水差しを抱えたまま膝をついた。
「大丈夫…? 聞こえる?」
返事はない。ただ、彼の瞳は閉じられ、額には見えない重力がのしかかっているようだった。
ちえは眼鏡を押し上げ、冷静にその状態を観察する。
「水槽の脳の問いに囚われているのね。…精神が、5次元の迷路に落ちている」
彼女の声は硬いが、震えを隠せてはいなかった。
いずみは水差しから一滴を落とし、彼の唇に触れさせた。
「わたし、愛って…まだよくわからない。でも、これだけはできる。与えることなら」
その一滴は小さな波紋となり、彼の胸の奥に届くように見えた。
ちえはノートを開き、詩式演算の一行を走り書きする。
「与える行為 × 受け取る構造 = 回復の可能性」
式は未完成だが、彼女の心は確かに動いていた。
その瞬間、コンダクターの指がわずかに震えた。
いずみとちえは顔を見合わせる。
「まだ…間に合う」ちえが呟く。
「うん、わたしたちで支えよう」いずみが答える。
泉の鐘が遠くで鳴り、学園の一日が新しい試練の始まりを告げていた。




