第3章 公開審議
前書き
詩立乗愛学園は、与えることと測ることが同じ庭に根を張る場所だ。ここでは行為が試験台に載せられ、数式が詩の余白を切り取る。読者はこの物語を通じて、日常の小さな与えがどのように制度と次元を揺らし、個人の選択が世界の秩序に波紋を投げるかを見届けることになる。
本書は詩と論理を並列に扱う。いずみの無償の所作と、ちえの冷静な式は対立ではなく対話だ。学園という舞台はその対話を可視化する装置であり、クロックアップや公開審議は登場人物たちの責任と選択を測るための計測器である。答えを与えるのではなく、問いの重さを感じてもらいたい。小さな一滴がやがて合奏となる瞬間を、静かに耳を澄ませて見届けてほしい。
朝の光はいつもより硬く、学園の石畳に直線を描いていた。公開審議の会場は講堂の円形ホール。座席は既に埋まり、学生、教員、外部からの観覧者、そして遠隔で接続された監査端末が静かに光を放っている。掲示板の紙芝居で見た法廷の光輪が、現実の空間に重なって見えるような錯覚があった。
ちえは壇上の端で黒板代わりのホログラムに向き合っていた。彼女の式は簡潔だが、仮定と境界条件を明示している。式の一行一行に、被救済者の尊厳を守るための注釈が添えられている。ちえは深呼吸をして、式の導出を短く説明する準備をした。数式は冷たいが、彼女の声は冷たくはない。そこには責任と慎重さが混じっていた。
いずみは壇上の反対側で、実演のための小さな台を整えていた。水差しはいつものものだが、今日はその口に小さな布を巻き、滴の落ち方を制御する工夫が施されている。彼女は所作を言葉にすることを好まないが、今日は観客が多い。いずみは目を閉じ、いつものように一滴一滴を意識した。与えることは彼女の身体の記憶であり、しかし今日はその記憶が「測られる」ことになる。
会場の中央には、オープンコアの遠隔端末が設置されていた。光輪のようなインターフェースが静かに回転し、解析の準備を示す青い波形が浮かんでいる。外部監査の存在は、学園の自律性に対する外部の視線を象徴する。ちえはその波形を一瞥し、パラメータが予定どおりに受け取られていることを確認した。オープンコアは介入を最小限に留めると告げられているが、その閾値の提示だけで場の空気は変わる。
審議はまずちえの理論説明から始まった。彼女は式を一行ずつ示し、仮定、測定方法、期待される誤差範囲を淡々と述べる。ホログラムには数値が流れ、観客の一部がメモを取る。ちえは被救済者のプライバシーを守るために匿名化の手順を説明し、測定がどのように尊厳を損なわないかを強調した。質問の時間が設けられると、教員や外部の研究者が手を挙げ、細かな点を突いてくる。ちえは一つ一つに答え、時に式の注釈を補足した。
次に、いずみの実演が始まる。彼女は台に立ち、静かに水差しを掲げる。観客の視線が一斉に集まる。いずみはまず一言も発さず、布で滴の落ち方を調整しながら、被救済者役の学生に向けて水を差し出した。水はゆっくりと、しかし確実に相手の手のひらに落ちる。会場には小さな息遣いが広がる。数値化される前の行為が、そこにある。
オープンコアの解析がリアルタイムで表示される。波形が一瞬だけ鋭く振れ、閾値の一部が黄色に変わる。遠隔の監査端末からは短いテキストが流れ、解析結果の要約が提示される。ちえはその表示を見て、式のパラメータを微調整するように指示を出す。数式と所作が同じ場で呼吸を合わせる瞬間だ。
だが、事態は予想外の方向へ動き始める。被救済者役の学生の表情が、実演の途中で微妙に変わった。目の奥に浮かんだ記憶の断片が、彼の身体反応を引き起こす。いずみはそれを感じ取り、手を止めるべきか続けるべきかの瞬間に立たされる。ちえはホログラムの数値を見つめ、理論上は安全域にあると判断するが、被救済者の微細な反応は式の仮定外のノイズを示していた。
会場の空気が張り詰める。外部からの質問が飛ぶ。オープンコアは追加の解析を要求し、閾値の一部が赤く点滅する。教員の一人がマイクを取り、手続きを一時停止する提案をする。ちえは一瞬、言葉を失いかけるが、すぐに冷静さを取り戻す。彼女は被救済者の尊厳を最優先にするという注釈を思い出し、式の一部を即座に修正する提案を行う。数式はその場で書き換えられ、ホログラムが更新される。
いずみは深く息を吐き、被救済者の手から水差しを引いた。彼女の所作は中断されたが、その目は揺れていなかった。壇上の静寂の中で、いずみは小さく囁くように言った。「ごめんね。大丈夫?」被救済者は戸惑いながらも頷き、肩の力が少し戻る。観客の中からは安堵のため息が漏れ、同時に議論の火種が残る。
オープンコアは解析ログを再送し、赤い点滅は消えたが、注記として「非定常反応の記録」が残された。外部監査は介入を控えたが、学園側には追加の手続きと被救済者のフォローアップが求められる。ちえはノートに新たな注釈を書き込み、いずみは水差しを抱きしめるようにして壇を降りた。二人は互いに短く目を合わせ、言葉は交わさなかったが、共有された緊張と責任がそこにあった。
審議は続行されたが、場のトーンは変わっていた。数式はより慎重に扱われ、所作はより細やかに配慮される。公開審議は学園の制度を試す場であると同時に、個々の人間性を露わにする場でもあることが、誰の目にも明らかになった。外部監査のログは後日公開されることになり、学園はその結果を踏まえて手続きを見直すだろう。
会場を出ると、夕暮れが講堂の窓を赤く染めていた。ちえはノートを閉じ、いずみは水差しを拭く。二人は言葉少なに歩きながら、今日の出来事を反芻する。ちえは式の精度をさらに高める必要を感じ、いずみは所作の持つ影響の重さを改めて噛みしめる。学園の波紋は広がり、次の波がどこで砕けるかはまだ見えない。
その夜、掲示板の紙芝居に新たな一枚が加えられた。小さな文字で「追加手続きと被救済者フォローアップ」と書かれている。学園の鐘が一度だけ鳴り、波紋は静かに、しかし確実に広がっていった。
第弐楽章 強くてニューゲーム「ブラックホールの救済」
(すみません不手際がありました。訂正いたします)
主題歌 動画配信中 https://www.youtube.com/watch?v=SfqQaXrT6Dc




