運命の定期券売り場
西元山駅、1月10日。午後4時10分。
冬の夕方のホームは、吐く息が白く濃く、帰宅の人波でざわめいている。
下りの急行がホームに滑り込み、ブレーキの軋む音とともに停まった。
ドアが開き、乗客が吐き出されるように外へ。
その中に、ゆうの姿があった。
川上高校の授業を終え、少し疲れた表情のまま足を進める。
――今日は3学期の初日。
気持ちを切り替えなきゃいけないはずなのに、どこかまだ心は休み気分のまま。
階段を上がるゆうの頭の中には、ひとつの用事があった。
「……そろそろ定期の更新、しとかないとな」
切れかけの定期券をポケットから確かめながら、窓口へと足を向ける。
列に並んだその瞬間、心臓が凍りつくように跳ねた。
――のぞみだ。
すぐ目の前、数十センチ先の列に立っているのは、朝の電車でいつも目にしていた彼女。
光沢を帯びた黒髪が肩に落ち、制服の襟からのぞくマフラーの端が小さく揺れる。
ゆう心の声
(う、うそだろ……のぞみさん!? なんで、こんなところで……)
普段は遠くから視線を交わすだけの存在。
それが今、手を伸ばせば触れられる距離にいる。
千載一遇のチャンスだと頭では理解していた。
だが――彼女は窓口の係員と話していた。
「難法駅まで3ヶ月でお願いします」
初めて聞くのぞみの澄んだ声。
ゆうの耳には、周囲の雑踏がすべて消えたように響いた。
とても、割り込める雰囲気ではない。
ただ後ろで呼吸を止め、鼓動の暴れを抑えようと必死になるしかなかった。
窓口の係員が釣り銭と新しい定期券を渡す。
「はい、ありがとうございました」
終わったのだ。
のぞみがふっと体を引き、帰ろうと振り向く。
その瞬間――
視線がぶつかった。
真後ろにいたゆうと、目が合った。
のぞみの瞳が驚きに揺れ、大きく見開かれる。
その一瞬は、ほんの刹那にすぎない。
だがゆうにとっては、永遠にも感じられた。
(の、のぞみさん……!)
身体は固まり、声が喉に詰まる。
どうしていいかわからない。
しかし次の瞬間。
のぞみは柔らかく微笑んだ。
そして、小さく――会釈をした。
ゆうの心臓が爆発しそうになる。
(え、ウソ?会釈してくれた……!)
一瞬遅れて、ゆうもぎこちない笑顔を浮かべ、頭を下げる。
その動きは不器用だったが、確かに返すことができた。
二人が正面から向かい合ったのは、これが初めて。
空気が止まる。
互いの存在だけが世界を満たしていた。
――今だ。話すなら、今しかない。
心の声が必死に叫ぶ。
だが唇は震えるだけで、言葉は出ない。
のぞみはじっと、ゆうを見つめていた。
まるで「何も言ってくれないの?」と言っているかのように。
だがその時、
「次の方、どうぞ」
窓口の係員の声が飛んだ。
ゆうは一瞬気づかず立ち尽くす。
「……次の方」
もう一度呼ばれた。
「は、はいっ!」
ハッとして返事をし、慌てて窓口へ進む。
視線をのぞみに戻す余裕もないまま。
(は、早く……早く終われ! のぞみさん、帰っちゃう!)
数分の更新手続きが、何時間にも感じられた。
冷や汗が背中を伝い、心臓はまだ暴れている。
「はい、どうぞ」
釣り銭と新しい定期券が差し出される。
受け取ると同時に、振り向いた。
――もう、彼女の姿はなかった。
肩が落ち、思わずため息をこぼす。
だが胸の奥には、不思議な熱が残っていた。
のぞみが自分に微笑んで、会釈をしてくれた。
それは今までにない、確かな手応えだった。
ただの偶然の視線の交わりではない。
はっきりとしたコミュニケーション。
(やっぱり僕のこと……認識してくれてるんだ)
その事実に、胸は歓喜で震えた。
――明日の朝、どうしよう。
挨拶すれば……返してくれるかな?
期待と不安が波のように押し寄せる。
その夜、ゆうの心拍数は下がることを知らなかった。




