ホトケさんと私
PHSの呼び出しがあったリハちぃさんが、それじゃ行くしと言って慌てて立ち去っていく。
もらっちゃお茶をちびちび飲んでると、隣に座ったホトケさんは、病院は忙しいわねと呑気な声で言った。
「……そういえばホトケさんは、看護師もやってたんじゃ?」
「ほほほ、そうですよぉ。でもこんなおっきな病院じゃなくて、特養に併設してるクリニックの看護師ですよ。そこで三年。で、そのあとは訪問看護をやってました」
介護福祉士の資格も持ってたような。
どういう経緯でそうなったのか、すごく気になった。聞いてみても、良いのだろうか。
「あら、気になっちゃいます? ふふふ、私もともとねぇ、ずっと専業主婦やっててね。私の時代なんて、それが当たり前で、義父の介護も嫁の仕事でしたからねぇ。それで介護と育児をしていて、ようやく解放されたのが40歳だったんですよぉ。思いの外、義父が早く亡くなったんでねぇ。で、子供が大学に行くから、お金が足りなくなりそうだったんで、パートに出ました」
そのパートが、家の近くの特別養護老人ホームの介護職だったそう。決め手の理由は、未経験者OK、週2〜3でOK。歩いて5分の、ホトケさんにとって好条件だったからだって。
歩いて5分は魅力的すぎる。
「近いしいいやと思って申し込んだら、面接受かったんです。やってみたら仕事はキツいけど、利用者さんとお話ししたりするのは好きでねぇ。性に合っていたんだと思いますよ」
パートから正職員になるとき、介護福祉士の資格をとったと言った。でもそれがどうして、看護師になったんだろう。
「施設の看護師さんが、そりゃもう意地悪な人で。介護職を人間扱いしないんですよ。挨拶しても無視、施設長と併設クリニックの院長としか話さないっていうねぇ。でも人一倍介護職に文句は言ってくるっていう、なかなか性格の方で」
強烈な看護師さんもいたものだ。ホトケさんは強烈なキャラだったと笑ってるけど、笑い事じゃないと思う。
「看護のことがわかんないんだから、口を出さないでって言われたんですよぉ」
ホトケさんが、何かがおかしかったのと言った。
「利用者さんがね、なんだかおかしかったの。いつもと違ったんですよ。言葉にはできなかったけど、何かが変でねぇ。看護師さんに相談したの。でも熱もないし、血圧も正常だしねぇ。先生にみてもらった方がいいんじゃないのかって言ったら、怒られてしまったんです」
まあその通りだったのかもしれないけどと、ホトケさん。
「それにしたって言い方ってものがね。あるでしょうよねぇ。ほほほ、そういうわけで、じゃあ看護の資格取れば口を出してもいいのねって」
ホトケさんが仏のような笑顔なのに、轟々と炎が渦巻いているように見える。あ、これ、本気で人を怒らせた時のやつ。
「あ、あの、その利用者さんはどうなったんです?」
「二日後くらいに高熱を出しましたよ。感染症にかかってたそうです」
いつも見てる人の何か変って、無視しちゃいけない。
そうだよね、ただの勘違いだったとしても、なんでもなくて良かったで済ませなきゃ。
心配のし過ぎは、それはそれで問題があるとしても。でも。
「それから私、必死に勉強して、学校に通って正看の資格取ったんですよぉ。ほほほ、施設併設のクリニックで働いたあと、知り合いに誘われて訪問看護で働いててねぇ。そこで、ケアマネさんの仕事を知ったんです。介護職と看護職、両方で関わってみたけど、私にはこうやって色々な人と話してのんびりやってくのが、性に合ってるみたいです」
人の話を聞く仕事か。
以前、夫から言われた仕事みたい。
人の話を聞いて役立てる仕事。
「ほのかさん、あなたも向いてそうねぇ」
「えっ!?」
「だって、ほほほ。私もあなたと、気持ちよく長話しちゃったんですもの。あなた、人の話を聞く、才能あるわ」
「で、でも、その。私って要領悪くって、話を聞いても、まとめるの下手くそだから意味がないっていうか」
「ほほほ、人と話すのに大事なのは、話をしたいって思わせる空気ですよぉ。話してもらわないとね、何にも分かりませんから。話を聞いて、重要なところを見出すのはね。経験でいくらでも覚えられますよ」
話を聞くのも経験とテクニックだけどとホトケさん。
「少なくとも、話を聞いてもらいたいって初対面で無意識に思われるのは、羨ましい限りですねぇ。ふふふ」
さてととホトケさんが立ち上がった。
「さて、事務所に帰って、るりさんのケアプラン作らなくっちゃねぇ」
「ケアプラン?」
「ほほほ、るりさんの今後の楽しい未来への道筋ですよぉ」
パソコン作業が苦手だから時間がかかっちゃうと、ホトケさんは笑った。
出来上がったらまたご自宅に行きますねと言って。
***
「あ、あった。ケアプラン、居宅サービス計画書?」
家に帰った私は、ケアマネの仕事で検索してみる。
するとケアマネは居宅サービス計画書を作るのが仕事の一つだと書かれてあったけど。
なんのこっちゃ。わけがわからない。
また実家に行くって言ってたし、行ってみようかな。
「ねえ、おばあちゃんの様子見に、また行ってきてもいい?」
「いいよ。母さんに頼んどくから。母さんもさ、一応ほのかのこと心配してんだよ。自分の親とか、父さんの両親とか看取ってるから、介護の大変さ、知ってるから」
ほとんど母さん一人でみてたんじゃないかなと夫が言った。
「俺とか手伝うよって言っても、これは私の仕事だから大丈夫って言っててね。何かあれば手伝うよって言ったけど、何も言ってくれなかったんだよなぁ」
義母の語られない苦労に、夫は思いを馳せている。
だから義母は、おせっかいなほどに私を手伝おうとしてくれているのか。
義母の気遣いはわかった。でもしかしだ。
「じゃあ夫のあなたは、今現在、色々と困ってる妻を前に、何をするの?」
私の問いに、夫はうっと呻き声をあげた。
「つ、次の休みは、俺が子供の面倒を見ます」
「わあ、ありがとう。よろしくお願いします」
夫に約束を取り付けて。
私はホトケさんが来るという日に、実家に向かった。
祖母の退院日に来てくれるという。
玄関に入ると、立派な手すり付きの階段があった。
「これすっごく便利よ。おばあちゃんも気に入っててね、どうしてこういうのつけてくれなかったんだって、言ってたの」
母がにこにこ顔で言った。
老人扱いするなって言ってたくせにと、私は呆れる。
けどまあ、使ってみると態度が変わるって本当だったんだ。
前回、ホトケさんと話をした応接間には、祖母が座ってた。
ホトケさんに向かって、外玄関にも便利な手すりをつけてくれって詰め寄ってる。祖母よ、そんな、意見変わり過ぎじゃ。
「ほほほ、便利なのは良いことですからねぇ。じゃあ、お借りしましょう」
「あ、あの、大丈夫ですか?」
なんだかホトケさんが汗をかいてるように見えたから、つい声をかけてしまった。
ホトケさんがにこにこ顔で、ケアプラン作り直しなのよと笑いながらいう。
手に持っている書類には、細かい文字でびっちりと何かが書かれていた。
「介護保険って、公共のお金ですからね。何をどう使うのか、どういう理由でか、っていうのを、きちんと書かなきゃいけないんです。そしてそれをね、利用される方の同意を持って開始するっていう、ね。ほほほ」
ああ、そういうこと。祖母が意見を変えたから。
「えっと大変なら、変えなくても?」
「そういうわけにはいきません。これがケアマネの仕事ですから」
めちゃくちゃ祖母に振り回されてる気がする。大丈夫なんだろうか心配になってきた。
「これがねぇ、楽しいんですよ」
振り回されるのが楽しいって、どういうこと。
「ふふふ、こうやってるりさんが意見を言ってくるっていうのは、やる気が出た証拠ってことでしょう。ほほほほ」
楽しさの意味がわからない。私が呆れた表情をしていると、母が言った。
「おばあちゃん、随分と元気になってまぁ。入れ歯作り直してもらったからか、もりもりご飯も食べてるし。入院して太って帰ってくるなんてねぇ」
「今日は分厚い肉にしておくれよ」
「はいはい。おばあちゃんの好きな牛肉買っておきました。退院祝いね」
「当たり前だよ! 踊りに行くなら、肉を食わなきゃやってられないからね」
祖母が鼻息荒く語っている。
入れ歯を作り直してもらったって、それって。
ホトケさんとリハちぃさんの前で泣いた日のことを思い出す。
あの日、色々とホトケさんと話をした。
その時、私。
祖母の入れ歯のことも話したっけ。
あの時は、うんうんて頷いてるだけだったから、話を聞いてくれてるだけかと思ったのに。
ホトケさんをみると、相変わらずほほほっと笑っている。
「薮先生って優しいのでね。お話ししたら、すぐに歯科の先生に診てもらうよう言ってくださったんですよぉ」
「私の話、聞いててくれたんですか」
「それが私のお仕事ですからねぇ。話を聞いて、繋げるのがね」
にこにこ顔で細目だからよくわからなかったけど。
ホトケさんはウィンクをしたみたいだった。
「ほのかさんが教えてくれたおかげです。歯医者さんがなくなったこととか、入れ歯が合わなくなったこととかね。ふふふ、ほのかさん、いろいろな点に気付くっていう、良い目を持ってますねぇ」
褒められたことなんて、いつぶりだろう。
いつも不器用で、鈍臭いとしか言われなかったから。
「あ、ありがとうございます」
「ほほほ」
母はホトケさんに関心しきりで、感激した様子で話した。
「今は便利でねぇ、家まで来てくれるっていうの。今日も、歯医者の先生、診にきてくれるって言ってたわ」
「今日はちょうど、訪問診療の日だからって言ってましたよぉ。熱心な先生で」
ホトケさんがそう話している時、玄関から声が聞こえた。
「こんにちはぁ、るりさんの診療に来ましたぁ!」
めちゃくちゃ元気な声だ。
母がどうぞというと、失礼しますと大音量が返ってくる。
「チワッス! 薮病院歯科医の笠佐木ふめいっス! オレ、歯医者に命かけてるんで、どうぞよろしくぅ!!」
リーゼントにサングラスの、ヤンキーが来た。
白衣が特攻服にしか見えない。
ついてる看護師さんは、黒マスクにピンク髪の気怠い雰囲気のヤンキーだった。
あそこの病院は、普通な見た目のスタッフはいないんだろうか。
「俺、昔やんちゃしてた頃、前歯全部なくなったことあるっス。なんで、歯がない辛さ、超わかるっス! 直してくれた歯医者、超リスペクトしてるんでぇ、俺も歯医者になったんすよぉ」
肉食いたいですよねと笠佐木先生。
祖母がおうよと答えている。
祖母が嫌がってないのなら、ありなんだろうか。
「こうやってね、生活がちょっとだけ楽になったのを見るのが嬉しいんです。劇的に変わることはないけどね」
ホトケさんの言葉が不思議と耳に残った。