私のおばあちゃん
病室へ戻ってきた私と祖母と、ついてきたホトケさん。
祖母は疲れたからと言って、車椅子に乗っていた。さっきまで激しく踊ってたからだろうか。
「おばあちゃん、足とか痛くないの?」
「大丈夫、大丈夫。もう治ったから、早く退院したいのよ! ここの看護師さんも、退院したほうがいいって言ってるからね。ホトケさん、その辺どうなの?」
「私も聞いてはいるんですけどね、退院には先生の許可が必要だから」
「ホトケさんからヤブ医者に言っといてちょうだいよ。そろそろ帰らないと、あたしゃ寝たきりでお陀仏しちまうって」
「ちょっとおばあちゃん」
相変わらず元気な祖母だった。
車椅子からベッドに移る時、ふうふうと息切れしてたけど。
「何か飲む?」
「サイダー持ってきたかい? つやちゃんに頼んどいたんだけどさ」
つやちゃんとは、母のことだ。面会に行く前に渡された紙袋を覗くと、タッパーの他にサイダーのペットボトルがあった。どうりで重いはずだ。
祖母はペットボトルを取り出すと、ふんっと気合を入れてキャップを回した。けど外れず苛立っている。ホトケさんが手を差し出して、にこにこ顔でペットボトルの蓋を外してくれた。
ぐびぐびと一気に飲むと、大きく息を吐いてこれじゃなきゃだめだと言っている。
「お茶なんてもの飲んでたら、気分が落ち込むわね。刺激がなくっちゃあね。ホトケさんも一本いるかね」
「ほほほ、大丈夫ですよぉ。私、ここ来る前に森家で唐揚げ炒飯食べてきたんで、お腹いっぱいです」
森家ってこの辺では有名な、デカ盛り料理を出す定食屋さんだけど。えっと、ホトケさん流の冗談だよね、きっと。
「豪快だねぇ! 私も若い頃は通ったもんだよ、森家さん」
この前は祖母が病室から追い出したって言ってたけど、ホトケさんとの仲は悪くなさそうだった。
「それでねぇ、るりさん。退院後のお話なんだけど」
「私は絶対にデイサービスには行かないからね! あんなとこ、年寄りが行くところなんだから!」
「もう十分に年取ってるよ?」
「何か言ったかい、ほのか! いいかい、ああいうところに行ったらね、ダメなんだよ。あんなとこ行って老人扱いなんてされてごらん。みるみる年老いて、動けなくなっちまうから」
祖母はサイダーを煽ると、肩を落として言った。
「……私はまだ、老人扱いされたくないねぇ」
「おばあちゃん」
落ち込む祖母を目の当たりにして、私は何も言えなかった。
サイダーを飲んだ祖母は、こほっと喉を鳴らして咳をした。何度か咳をした後で、これじゃ本当に死に損ないのばばあだと、自嘲気味に呟いた。
「昔は良かったよ。好きなものを食べてさ、行きたいところへ自由に行って。なんでもできるって思えたんだよ。……それなのに、全部億劫になっていくんだ」
私はずっと、祖母は元気にしているとばかり思っていたし。本人はポックリ死ぬと豪語していたから、そうなるとばかり。
「年なんてとりたくないねぇ、ろくなことがない」
ため息を吐く祖母に、ホトケさんがまだまだお若いのにと呑気な声で話しかけてきた。
「はあぁ!? だからそういうおべっかはいらないよ」
「あら、でもるりさん、まだ80代でしょう? 今のデイサービスで元気な方は、90代が多いんですよぉ。るりさんなんて、若輩者じゃないかしら」
「だったら、そんなジジイとババアいるところには、行かないからね!」
余計意固地にさせちゃったよ、ホトケさん。祖母はやっぱりデイサービスに通うのは無理だと思う。
母としては通ってほしいらしいけど、これ無理強いしたら家族仲が壊れちゃいそう。
「あら、それなら、リハちぃさんのとこへ通うのかいかがかしら」
「あの娘っ子のとこに? 病院から退院するなってことかい。それならお断り……」
「そうじゃなくってね、 薮病院のリハビリにご自宅から通うのはどうかしら?」
「病院にはできるだけ来たくないんだけどねぇ」
「ほほほ、そりゃそうですけどね。リハちぃさんが、るりさんの踊りが素晴らしいから、他の方にもお手本として見せたいからっておっしゃってねぇ」
「…………こんなばばあが踊ってたって、何も良いことないでしょうよ」
「るりさんのリハビリする姿見て、頑張ろうっておっしゃってる方も多いそうですよぉ。今度、何をしたらそんなに骨が丈夫なのか、教えてほしいって」
祖母は眉間に皺を寄せたまま、どこの誰がとホトケさんに尋ねた。
ホトケさんは困り顔で、私もお名前まではと首を傾げている。
「そうねぇ、確かこの前お会いしたのは水曜日だったかしら。そうそう、さっき先生が、るりさんは退院は来週だっておっしゃってたからね。再来週にでも、来てみませんか?」
「……でもねえ、そうそう来てたら、送り迎えしてくれるつやちゃんが大変じゃないか」
「送迎つきますよ。それにお昼ご飯も出ます。そうねぇ、朝送ってきてもらって、お身体の調子を見てもらって、ちょっとゆっくりしてお昼ご飯食べてから、リハビリをするんです。それでまた、病院のバスで家まで送ってもらうんですよ」
「病院のご飯はうまくないけど。つやちゃんにもそれなら迷惑かけないか。……ふん、なら行ってやってもいいよ」
「じゃあリハちぃさんに言っておきますね」
ホトケさんは笑いながら去っていく。
なんだかあっさりと決まったというか、乗せられたように見えたけど。
「おばあちゃん、リハビリなら行くの?」
「歩けなくなっちゃったら嫌だからね。ヤブ医者は杖とか歩行器とかいうの、使えっていうけど。あんなのに頼って楽することを覚えたら、歩けなくなるってもんだよ」
でも車椅子には乗ってくれるんだよね。
リハビリ室から歩いて行こうとしたのを、病棟の看護師さんが全力で飛んできて止めてたもの。
祖母の容体はもしかして、あんまり良くないのかな。
「あら、つやちゃん。ちゃんと用意してくれたようだわ」
紙袋からタッパーを取り出して、蓋を開けた祖母が嬉しそうな声をあげた。
何かおやつでも入ってたのだろうか。
「……って、豚の角煮!?」
「やっぱりねぇ、こういうところの食事って味が薄くて。これくらいガツンとしたもん食べなきゃ、病人になっちまうよ」
母よ、入院患者になんてもの差し入れしてるんだ。
祖母は私の目の前で、嬉々として角煮を頬張っている。本当にこれで良いのだろうか。
「おばあちゃん、入れ歯は?」
「そこのタンスの中」
「つけないの?」
「合わなくてつけてると痛いんだよ。大丈夫、つやちゃんの角煮は、歯なんていらないくらい柔らかいからねぇ」
そういう問題じゃないと思うけど。
祖母は美味しいと笑顔だった。一口食べた後、残りは夕飯の時に食べると言って、冷蔵庫に入れてきてと頼まれてしまう。
「もう食べないの?」
「お腹いっぱいでね。歯肉で噛むのは大変なんだよ」
歯医者に行ったらと提案してみたら、歯医者は死んだと返された。
ちょっと、何それ。
「歳三先生が死んじまったから、歯医者行ってないんだよ」
「えっ、あのおじいちゃん先生、死んじゃったの?」
「そうだよぉ。あのじじい、去年の夏にぽっくり行っちまって。息子は無愛想だし、あそこの玄関は階段が高くて入りづらいし、インターネッツっていうので予約しろだのうるさくって。あたしゃもう行かないよ!」
歳三先生は私の実家から徒歩で3分くらいのところにある歯医者さんだ。
私も子供の頃から通ってたけど。
あのおじいちゃん先生、私が子供の頃から歯医者だったからな。
むしろ去年まで診察してたのが驚きだけど。
一体いくつまでやってたんだろう。
「ほのか、あんたも子供いるんだから。こんなババアに構わなくたっていいんだよ」
「……おばあちゃん」
「あんた、昔っから、要領悪いからねぇ。人の話ばっか聞いて、何時間もにこにこ。昔はそれで、トイレ我慢して漏らしたこともあったねぇ」
「おばあちゃん!」
余計なことを思い出さなくていいから。それは小学校一年生の頃の話だし。
「ともかく、これは冷蔵庫に入れてきておくれ」
祖母は疲れたからと言って、ベッドに横になってしまった。
困っている私に、隣のベッドの人が教えてくれた。
「ここって個人の冷蔵庫ないから、看護師さんに言って、デイルームにある冷蔵庫に入れといてもらうんです。名前書いておけば大丈夫」
なるほど。でも祖母に角煮を差し入れなんて、看護師さんに見つかって怒られたりしないかな。
少し考えて私は、ナースステーションでちょっと聞いてみようと病室を出た。