本当に任せちゃっていいの?
ホトケさんが実家へ来た理由の一つは、契約書類への署名だった。
今は個人情報とか重要事項とか、全部同意が必要なのだとホトケさんが困り顔で言っていたけど。
「……さすがに量が多過ぎる」
最初は頑張って書いていた母が、途中で力尽きた。私が代筆するわけにもいかず、母を見守るしかなかったけれど。
「ほほほ、ご本人様用と私どもがお預かりするもので、二部ずつですからね。みなさん、これが一番大変だって言いますね」
ホトケさんは呑気に笑ってた。
本当なら祖母が契約しなきゃなんだけど、契約書を見た途端、施設に入れられると思い込んで大騒ぎして、病室を追い出されたんだって。
「本当におばあちゃんがすみません」
「いいえ、そういう方は割といらっしゃるから、あまり気になさらないでいきましょうね」
契約書類をバッグに入れながら、ホトケさんは巻き尺を片手に立ち上がる。
退院日が決まっているから、その前に家の中を見に来たのだと言った。
「これね、先輩が絶対に必要だから持って行けって言うんで、持ってきましたけど。使い方が難しくって、シュッと出たらパキッと折れて、シュッと入っちゃうじゃない?」
「普通のメジャー……」
何に使うのだろうと見ていると、ホトケさんが玄関の上り口の高さを測って、メモをとっていた。
「35センチ、なかなかの高さですね」
「高いんですか?」
「高いんじゃないでしょうかねぇ」
ホトケさんは相変わらずの笑顔だった。
バッグから分厚いカタログみたいなのを出してきて、ページを捲ってこちらへ見せてきた。
「ここに、こういう階段みたいなの置きませんか?」
小さな階段がついていて、手すりが片方だけついている。
母が手すりがあるのは便利だわと、嬉々として言った。
「私も最近、膝が痛くて、ここを上るの大変だから。あると便利だわ」
「ほほほ、その辺はまあ、壊さなければ、ね。ほほほ」
ホトケさんは朗らかに笑って言葉を濁していた。
「あのぅ、こういうのって買い置きですか?」
「いいえ、いいえ。業者にお願いしてレンタルするんですよ」
あれ、買取しなきゃいけないんじゃないのかと、私は疑問に思った。だって確か、手すりをつけるのに工事が必要だって、昔どこかで聞いた気がして。
「最終的に、この壁に手すりを工事でつけてもいいんですけどね。るりさんの場合、使わない可能性もありますしね。この先、車椅子を使うことになるかもしれないですし。レンタルで借りておいて、様子を見るっていうのも、ひとつの手だって先輩が言ってましてね」
また先輩が出てきた。ホトケさんは隠さず、私もそれが一番いい気がしますとキリッとした顔で言っている。
長期間レンタルするとなると、お金がいくらかかるか心配だと母が困った表情を浮かべている。それは確かに気になるかも。
私も子供が二人いるから、金銭的な援助は、すごく。ものすごく難しい。
「大丈夫ですって、これだと600円くらいだから」
「一日?」
「いいえ、一ヶ月」
「安っ!?」
母が介護保険ってお得なのねと感心していた。
ホトケさんは私も最初は知らなくてと、目を細めている。
「意外にお安くてねぇ、あれもこれもって欲しくなっちゃいますけど。るりさんの生活を考えると、とりあえず玄関にこれ、ひとつかしらねぇ」
「お風呂はどうしましょう、やっぱりデイサービスに……」
いざという時は私が手伝いに来るしかないのかな。でも祖母はいつも、お風呂は夕食の後でって決めてたから、夜に来るのは難しいし。すごく悩ましい。膝が痛いと言っている母に任せるわけにもいかないし、今現在仕事に行ってる父は戦力外だし。こういうの実子が介護するって世間では言ってるけど、やっぱり母の世代だと嫁がするものなのかな。私の時は本当に勘弁してほしい。
「ふふふ、一度自分で入ってみてもらうしかないんじゃないかしら」
そうすれば、何が不便かわかるかもしれないからと、ニコニコと笑っている。笑い事じゃないんだけど。家族が困ってるのに、そこは放置なのと思ってしまう。
「やっぱり人って、自分でやってみて、便利な道具を使ってわかるってこともおありですからね。まずは、生活をする環境を、るりさんが過ごしやすいように調整していきましょう」
というわけでと、ホトケさんがそろそろお暇しますと言って、あっという間に玄関先へと出ていた。のんびりした様子なのに、動きが早い。
「あら、お茶も出さないで、ごめんなさい」
「いいんですよぉ、お気になさらずにね。ほほほ、それじゃ明日はまた、るりさんの面会に行かせて意いただきますね」
「毎日のように会いにきてもらって、すみませんねぇ」
母が申し訳なさそうにいうと、ホトケさんは笑いながら言った。
「私、新人だから時間がね、かなり自由に使えるんですよぉ。って、こんなこと言ったら先輩に怒られちゃうかしら。るりさんとお話しするの楽しいから、ついね」
「嬉しいこと言ってくれて、おばあちゃんも喜ぶわぁ」
暇人って言ってるのに、母はご機嫌だ。いいの、本当にそれで。
ホトケさんが帰った後、母に聞いてみたところ、会いに来てくれるだけでありがたいと言われた。
「……何で?」
「忙しいあんたよりも、じっくりと話を聞いてくれるってだけで、ありがたいのよ。……この歳になるとね」
「まだ若いじゃん」
「……お母さんだってもう、60歳こえてんのよ」
そう言われて、私は母を見た。
見下ろす位置にある母の頭には白髪が多くて、こんなにも小さくて細かったっけと思ってしまった。