これは主従の契約ですっ!〜「待て」ができない狂犬騎士は、落ちこぼれ幼馴染み聖女の主従契約をプロポーズと言い切る〜
頭上のステンドグラス越しに差し込む初春の陽光が大聖堂内を明るく照らす。このガイスト王国を守護する女神・セラピアの微笑みとも称される陽の光は、この年に独り立ちする新たな聖女たちを祝福するように等しく平等に包み込んでいた。
そんな女神の加護にも似た柔らかな日差しを浴びながら、ロニアがもう何度目になるか分からない欠伸を噛み殺した頃、ようやく神官長のありがたくも長い祝辞が終わったのだった。
(噂には聞いていたけど、祝辞はいつもの比にならないくらい長いのね……)
眠気もさることながら、硬い長椅子に長時間も腰掛けていて下半身が痛い。
宝石のように輝く紫の瞳を天井に向けて寝入りかけていたロニアだったが、長い銀髪に挿したお気に入りの赤い花の髪飾りと聖女の証である真新しい白いローブを整えることで眠気を覚まそうとする。
この大神殿に所属する全ての神官と聖女を統括する神官長だから話が長いのか、それとも年老いた分だけ話したいことが多いのか。老齢の神官長の豊かな白髭を見ながらロニアは考える。
見た目はどこにでもいるような好々爺なのだが、やはり神官長として長くこの神殿を統治してきたからか、身に纏う空気はどこか背筋を伸ばさずにはいられない緊張感をはらんでいる。それでも年寄りらしく話は長いので、つい途中から緊張が緩んでだらけてしまうが……。
そんな神官長が若い神官の手を借りつつ壇上から姿を消したからか、大聖堂内の張り詰めた空気が一気に緩和されたようだった。
神官長の長話の間は、ロニアと同じように眠気を堪えているか天井を仰いでいるかのどちらかだった聖女たちも、待ちに待った本日のメインイベントに胸を弾ませているらしい。神官長の長い話の時とは打って変わって、誰もが明るい顔をしていた。
他の神官たちの目を盗みながら、ヒソヒソと声を潜めて話し出したので、ロニアも欠伸を噛み殺しながら聞き耳を立てたのだった。
「ねぇ、今年の騎士席を見た? ラシェル様がいるわよ!」
「これまで一度も守護騎士の任命の儀に出席されなかったのに、今年はどうしたのかしら?」
「とうとう誰かの守護騎士になられるのかしら? きゃー! 羨ましい!! ラシェル様を守護騎士に指名されるのはどの聖女かしら!?」
聖女たちが整列する大聖堂の壁際には、騎士団に所属する騎士たちがずらりと並ぶ騎士席が設けられている。年齢や出身、所属も点でバラバラの騎士たちではあるが、彼らもこれから行われるメインイベントに備えて参列しており、緊張の面持ちを浮かべる者から腕を組んで居眠りしている者まで三者三様の様子で儀式に挑んでいるようだった。
そんな騎士たちの中で、一際注目を集めている一人の騎士がいた。
煌めくような金色の髪と澄んだ青い瞳、白と青を基調にした仕立ての良い騎士服に包まれた長身痩躯の身体は、まるで御伽話に登場する騎士の絵姿そのもの。脳筋者が多い騎士団の中でも文武の両方を備え、更に眉目も秀麗な青年。ここまででも完璧だというのに、王家の血を引く侯爵家の出身にして、父親は現国王の右腕を務める宰相という全ての女性たちの憧れの存在。
それがこの騎士――ラシェルであった。
ロニアより少し歳上のラシェルは騎士席の最前列に腰掛ける騎士団長の隣に座って壇上を見つめていたが、急にくるりと振り返ったかと思うとロニアたちに向けて嫣然とした笑みを向けてくる。それだけでロニアの近くに居た聖女たちは黄色い悲鳴を上げて、中には失神しそうになる者まで現れてしまう。
ロニアはそんな聖女たちに失笑したが、ラシェルが浮かべた笑みの意味を悟って小さく頷き返すと赤い花の髪飾りに触れる。それだけでラシェルには通じたようで、笑みを深めて軽く片手を挙げると隣席の騎士団長と話し始めたのだった。
「やだやだっ! ラシェル様に微笑まれちゃったわ!!」
「きっとご自分を指名される聖女に向けて笑ったのよ。聖女たちの憧れの的であるラシェル様の主になれるなんて、いったいどんな聖女なのかしら?」
ロニアの肩がビクリと震える。辺りを見渡す聖女たちから目立たないように、掌で髪飾りを隠しながらそっと身を小さくする。
「まさか。私は別の騎士よ。お父様に紹介されたもの、我が家と釣り合う騎士だからって」
「わたしもよ。家格も良くて将来有望な騎士だから、守護騎士に任命して行く行くは婚姻を結びなさいって。信頼が置けるから二人で地方の神殿に送られても大丈夫とまで言われたわ」
「地方の神殿に行かされるなんて、余程の落ちこぼれか問題児だけでしょう。あとは身寄りがいないとか、身分が低いとか、その辺りの理由かしら……。貴族の娘は王都近辺の結界内に建つ安全な神殿にしか送られないから大丈夫よ」
そうやってクスクス笑い始めた聖女たちだったが、すぐに笑いを引っ込めてしまう。どうしたのかとロニアも顔を上げれば、騎士団長を挟んでラシェルの反対に控える黒衣の青年騎士が聖女たちを睨み付けていた。
その青年騎士は獲物探す狩人のように聖女たちが座る席を見回していたが、目敏くロニアを見つけるとその鋭い眼光で射抜くようにまじまじと見つめてきたのだった。
(ひ、ひぇ……)
恐れ慄いたロニアは反射的に目を逸らしてしまうが、それは他の聖女たちも同じであった。しかしロニアと違って聖女たちはめげずに幾分か声を潜めると、不服を漏らす。
「ちょっと、なんで今年は『騎士団の狂犬』までいるのよ! まさかあの騎士を守護騎士に指名した聖女がいるっていうの!?」
「今まで誰からも指名をされず、守護騎士任命の儀にも参加しなかったっていうのに……今年に限ってどういう風の吹き回しなのよ!」
「あんな問題児でも任務遂行に関しては優秀で、騎士団長の覚えもめでたいなんてね。でも他の騎士や聖女には厳しいのよね。あんな騎士と主従の契約を結ぶくらいなら、一人で神殿に行った方がマシよ」
聖女たちが黒衣の青年騎士についてブツブツと文句を言う中、ロニアはそっと黒衣の騎士に目線を戻す。所属部隊の色で分けられているはずの騎士団の制服の中でも黒と赤の特注の騎士服を纏うことを許された人物。うなじまで伸びた猫のようなくせ毛の黒髪とガーネットのような赤い瞳が、より青年を強く恐ろしい存在に見せているようで、どこか近寄りがたい雰囲気を出している――ロニアが目を逸らしてからは、どことなく落ち込んでいるように目線を落としているようだが気のせいだろうか。
(でもどうして今年になって儀式に参列する気になったんだろう。今までずっとこういった行事には参加してこなかったのに……やっぱり今回の聖女の中にルディと契約を結ぶ聖女がいるのかな……)
そんなことを考えていたからか、また黒衣の青年騎士――ルディがロニアの方を向いたので、ロニアは慌てて下を向く。
(ううん。もうルディとは兄妹でも家族でもないもんね。私が気にする必要なんてない。誰かの守護騎士になったって、そんなの関係ないもの……)
胸の前でぐっと手を握りしめる。昔はこんな関係じゃなかったのに。自分が聖女になっただけで随分と距離が遠くなったように思う。
騎士団に所属するどの騎士よりも任務に忠実で、目的を達成するためならば手段を選ばず、仲間さえも任務を完遂するための道具として使い捨てるようになったルディことフェルディア。
迅速な対応と判断力の高さ、そして優秀な剣の腕前から、騎士団でも屈指の実力者として名声を得たものの、それと引き換えに周囲からは畏怖の念を抱かれた。騎士団の団長以外の命令に従わない姿から、やがて「騎士団の狂犬」と呼ばれるようになり、騎士と聖女たちから一目置かれる存在になってしまったのだった。
そんな良くない噂ばかりが囁かれるフェルディアだが、本当は誰よりも優して頼りがいのある兄貴肌の青年であることをロニアは知っている。
この大神殿に入る前、まだ幼いロニアが預けられた地方の小さな神殿で共に育った大切な兄。
面倒見が良くて、どこに行くにもロニアを連れ出してくれる大好きなフェルディアだったが、ある日急にロニアが聖女として大神殿入りすることになって、別れの挨拶をする間もなく別れてしまった。
それが原因なのかそれとも離れ離れになっている間に何かが起こったのかは分からないが、数年後に大神殿で再会した時のフェルディアは別人のように変わっていた。
温柔を忘れてしまったかのように他者に厳しく、勇猛果敢でありながらもどこか背筋が冷たくなるような恐ろしさを持ち、そして近寄る者を無遠慮に斬り捨てるような魔物よりも冷酷な人間へと――。
(今日までどうにかルディと会わずに済んだ。そして明日からは大神殿を出て、どこかの神殿で聖女として従事することになる。もうルディと会うことも無い。今度こそルディとは正真正銘の別れ。最後まで真実を話せなかったのはもどかしさがあるけれども……)
きっとフェルディアは何も言わずに出て行ったロニアを恨んでいる。勿論、ロニアとしてもフェルディアを捨てたつもりは無い。
あの時はロニアたちの保護者役を担っていた高齢の聖女の命令に従って、何も言わずにフェルディアから離れることしか出来なかった。幼いロニアはとにかく無力で、誰かに従うことでしか身を守れないひ弱な子供だった。高齢の聖女に指示された通り、自分を守るために名前や性別まで偽っていた。
大神殿に入って、聖女になればフェルディアと向き合える自信を得られると思っていたが、その前にフェルディアはロニアのすぐ側まで現れて、そして並々ならぬ憎悪を向けてきた。
和解の道はほど遠く、フェルディアに真実を話すことは到底出来そうに無い。
フェルディアは考えもしないだろう。フェルディアが探している弟というのが、身を守るために少年の振りをしていたロニアだということを――。
(聖女になった以上、ルディなんてもう何も関係ないはずないのに。それなのにどうしてこんなにモヤモヤするの……? きっとルディだってどこかの貴族から頼まれて、その家の令嬢と主従の契約を交わして守護騎士になる。この儀式に参列している騎士の大半はそうよ! ラシェル様だってそう。だってラシェル様がこれから主従の契約を結ぶ相手は……)
赤い花の髪飾りにそっと触れる。この髪飾りはこれからロニアが契約を結ぶ騎士――ラシェルから贈られた大切なプレゼント。
通常二年から三年の修業期間を得て聖女として独り立ちする中で、五年も大神殿で修行した落ちこぼれのロニア。
他の聖女より厳しい修行と繰り返される最終試験、そして「落ちこぼれ」という烙印と共に囁かれる陰口に落ち込んでいたロニアを慰め、そして主従の契約まで申し出てくれたのはラシェルただ一人だった。
侯爵家の出身で次期騎士団長とも噂される優秀なラシェルが平民出身の孤児で聖女の落ちこぼれであるロニアの騎士になってくれるはずがない。最初こそからかっているだけだと思って本気にしていなかったが、最初の最終試験の前に口約束では無いという証に、この髪飾りを贈ってくれた。それからは毎日身につけているロニアの宝物であった。
最初は主従として功績を上げていき、ラシェルの両親を含めて周囲にロニアの存在を認めさせる。その功績を元に貴族として爵位を得て、いずれは他の聖女と守護騎士のように婚姻も結びたい、と。守護騎士の申し出と共に愛の告白までしてくれたのだった。
それからのラシェルはロニアを聖女として一人の女性として丁重に扱ってくれた。限られた時間で内密に会い、他愛のない話をして仲を深めていき、何度も最終試験に落ちてしまうロニアの合格を根気強く待ち続けてくれた。今この場にいられるのは、他ならぬラシェルのおかげでもある。
きっとここにいる聖女たちは誰も思わないだろう。騎士団のエリート騎士が契約を結ぶ相手というのが、神殿一の落ちこぼれ聖女だということに――。
ロニアが思案している間に神官たちの用意が整ったのか、壇上に数名の神官といつの間に席を立っていたのか騎士団長が姿を現したので、再び大聖堂内に緊張感が戻ってくる。
粛々と次の儀式の準備が進められていく中、大神殿に務める聖女の一人が筒状の羊皮紙を大量に載せた銀製のトレーを神官に渡したのだった。
「あれが契約魔法の魔法陣……」
誰かの呟きがはっきりとロニアの耳に届く。実物を見るのはロニアも初めてであった。
神官が受け取ったトレー上に置かれている羊皮紙には、聖女と守護騎士を結ぶ魔法の源――主従の契約に必要な魔法陣が描かれていると聞いている。
今日の儀式のために、国の魔導士たちが夜通し手書きしてくれたものだ。
「これより聖女による守護騎士任命の儀を執り行う。名前を呼ばれた聖女から前に出て、魔法陣を受け取りなさい」
ロニアはすばやく呼吸すると唇を噛む。ようやく本日のメインイベントが始まるのだ。
(聖女と騎士の契約の儀式……。この儀式でどの騎士を守護騎士に選んだかで、この先の聖女の未来まで決まってしまうのね……)
新米聖女が独り立ちするにあたって、自らの護衛と運命を共にする騎士を指名する儀式――通称・守護騎士任命の儀。
ここで選ばれた騎士は指名した聖女の専属騎士たる「守護騎士」となり、聖女が任を終える時まで生涯を共にするパートナーとなる。
それ故にこの守護騎士任命の儀は、聖女と騎士、双方の将来を決める大切な儀式でもあり、全ての聖女たちにとっての通過儀礼でもあった。
(この儀式が聖女として最初の仕事でもあるんだよね。この契約が成功することで、ようやく一人前の聖女になれる。ここまで本当に長かった……)
ロニアの身体が喜びで打ち震える。熱くなった目頭をグッと瞑り、そして溢れる涙を誤魔化そうと何度も瞬きを繰り返す。
大神殿の最終試験に挑むこと四回。落第ギリギリの最下位ながらもようやく合格ラインを越えられた。
途中、生き別れたフェルディアがロニアを探して騎士団に入団するというアクシデントはあったものの、明日から晴れて一人前の聖女を名乗れるかと思うと清々する。もうフェルディアに怯えることも、「落ちこぼれ聖女」と蔑まれる日々も終わるのだと……。
今日の聖女祝福の儀をもって、大神殿で修行に励んでいた聖女候補たちは一人前の聖女として国に認められる。
その後、国内に点在する神殿に派遣されて、国の繁栄に力を尽くすことになるが、その際に聖女と契約を交わした守護騎士も共に派遣される。
代々聖女に指名された騎士たちは自らを指名した聖女を主人として仕え、互いに全幅の信頼を寄せ合い、やがて情意投合の関係となるとされていた。
ここで指名されて契約を結んだ守護騎士は、契約を交わした聖女を主として、聖女がその地位を引退する時まで忠義を尽くさなければならない。
裏切ることは許されず、聖女と固い絆で結ばれた相棒として苦楽を共にして、もし聖女の意志に反するような行為を行えば、契約によって断罪が与えられる。
契約自体も余程のことがない限り破棄されず、また女神の名に置いて結ばれた主従契約は強固なため、聖女からも反故にすることはできない。
そして一人の聖女が守護騎士に任命できる人数はたった一人。この儀式で指名した守護騎士が、聖女の今後を左右すると言っても過言では無い。
そんな重要な儀式を成功させてラシェルを守護騎士に任命する。主従の契約を交わした後は、他の聖女と同じように国の防衛や医療に貢献する。
平民出身の聖女の中には功績を認められて貴族に取り立てられた者も少なからずいる。ラシェルが言っていたようにロニアも聖女として活躍して爵位を得て、そしてラシェルと婚姻を結ぶ。これまで平民出身の落ちこぼれ聖女であるロニアを馬鹿にしてきた貴族出身の聖女たちを見返すと、心に決めたのだった。
「女神・セラピアの名の元、其方らに相応しき騎士と縁によって結ばれるであろう。それでは今代の主席聖女――カリーン・フォン・ヒュープナーは前へ」
最前列に並んでいたカリーンと呼ばれた背の低い聖女が壇上に上がる。
儀式の順番も座席順も最終試験の成績順なので、最終試験で最下位だったロニアの順番はまだまだ先。失敗して最後まで赤っ恥をかかないように、成績優秀者のカリーンを参考にしようとまじまじと観察する。
壇上では鼻筋にそばかすが残る白皙の肌とバランスの取れた金髪の巻き毛が特徴的なカリーンが、緊張の面持ちで神官から羊皮紙を受け取ったところであった。
羊皮紙に巻かれた紐を引くと、どこか禍々しく光り輝く赤色のインクで描かれた魔法陣が姿を現す。
「羊皮紙を掲げて呪文を唱えよ。さすれば魔法陣は聖女と騎士を結ぶ楔となる。さあ、守護騎士となりし騎士を我らが女神に問うのだ」
カリーンはすうっと大きく息を吸うと、頭の上まで掲げた羊皮紙に向かって呪文を唱える。
「我らの母たる女神・セラピアに、聖女・カリーンは問う。我に忠義を誓い、永久に仕えし守護騎士を教えたまえっ!」
まだ幼さの残る少女特有の高い声で発せられた呪文に呼応して、魔法陣が力強く明滅し始める。
「おおっ!」
聖女だけではなく、騎士席からもどよめきが起こる。今年は儀式に初めて参列する騎士が多いのだろう。
羊皮紙ごと赤い魔法陣が浮かび上がったかと思うと複雑な紋様が解けて一本の紐になる。うねうねと蠢く姿がまるで蛇のようで、一部の新米聖女たちからは悲鳴が上がってしまったのだった。
紐状になった魔法陣がカリーンの右手の甲に吸い込まれると、やがて手の甲には赤い光と共に先程の魔法陣が現れる。それと同時に騎士席の一角からも魔法陣と同じ赤い光が輝き出したので、その場にいた全員が光源を探して騎士席を振り向く。
「聖女・カリーンの問いかけにより、女神に選ばれし騎士よ。ここへ参れ!」
神官の声が厳かな大聖堂内に響き、そして騎士席からおずおずと一人の少年騎士が進み出る。
全員の視線の先にいたのは、左手の甲にカリーンと同じ魔法陣が刻まれた赤茶髪に丸眼鏡の少年だった。
「其方の名は?」
「ミヒャエル・フォン・リンク、です……」
「うむ。リンク子爵の末息子か……」
緊張しているのか消え入りそうな声で答えるミヒャエルを一瞥した神官は、騎士団長から渡された別の羊皮紙と照らし合わせる。おそらくその羊皮紙には騎士団に所属する騎士が、この中のどの聖女と主従の契約を交わすのか書かれているのだろう。
騎士側からしたら急に指名されたように思えるが、実はどの聖女がどの騎士を指名するのかといった話はあらかじめ騎士団には伝えてある。
表向きは女神が聖女に相応しい騎士を選んだということになっているが、それは形だけの話。実際は聖女が自分の守護騎士になって欲しい騎士を騎士団に所属する騎士の中から選ぶ、いわゆる騎士のスカウトによって決めていた。
大昔はこの儀式の場で初めて従者となる騎士を聖女が指名していたが、契約を拒否する騎士や望まれぬ主従契約で仲違いする者たちが後を絶たなかったため、今ではあらかじめ大神殿を通して騎士に打診を行うようになっていた。契約を承諾されれば良し、その時点で騎士が断れば、騎士団から別の騎士まで紹介してもらえる。その後、騎士にはこの守護騎士任命の儀に参加してもらい、聖女の求めに従って契約を結んで完了となるのだった。
それを良いことに貴族の中には良い家柄の騎士と契約を結ばせて、いずれは婚姻を結ばせようとする政略結婚として利用する者も増えてきたが、近年聖女や神官の不足が懸念されていることから、大神殿は黙認を貫いていた。
この国では聖職者の結婚は禁止されておらず、むしろ聖職者の子供が聖女や神官に必要な能力――神聖力を有していることが多いため、結婚を後押ししている風潮がある。
表立っては言っていないものの、主従として長い時間を過ごす聖女と騎士たちが男女の仲になることを歓迎しており、両者の間で産まれた子供が聖職者になることを密かに望んでいるようにも感じられる。
騎士団としても仕事に没頭するあまり、婚期を逃してしまうような若い騎士の将来を心配しなくても良くなった分、その代わりにこちらも人材不足に悩まされるようになった。それもあって、たとえフェルディアのように入団理由が疑わしげなものであっても、良識と実力さえあるのなら身分に関係なく、入団を許されるようになったのだった。
「騎士・ミヒャエル、汝はその命果てるまで、聖女・カリーンに忠義を尽くすと誓うか?」
「ちっ、誓いますっ!」
「聖女・カリーン、汝はその命の限り、聖女としての役目を全うし、騎士・ミヒャエルと共に国に尽くすと誓えるか?」
「誓いますっ!」
ミヒャエルのか細い声に対してカリーンの声は大聖堂に響き渡るほど大きいが、声が裏返っていた。最終試験を首席で合格したカリーンでさえも、この守護騎士任命の儀には緊張を隠しきれないらしい。
「その誓いの元、騎士は聖女に守護騎士の誓いを立てよ。さすれば女神・セラピアは其方らの契りを祝福するであろう」
「ぼ……私、ミヒャエル・フォン・リンクは聖女・カリーンを主人とし、これから守護騎士としてお仕えすることを、女神・セラピアに誓います」
「聖女・カリーンは騎士・ミヒャエルを守護騎士として認めます。我が守護騎士に祝福を……」
片膝をついて誓いを立てるミヒャエルの頭にカリーンが触れる。その瞬間、カリーンの掌から溢れた祝福の白い光――神聖力がミヒャエルを包み込む。二人の手の甲で禍々しく光っていた赤い魔法陣は聖なる純白へと色を変えて、やがてすうっと手の甲から消えたのだった。
二人の契約が締結されたのを確認すると、神官がまた話し出す。
「新たな聖女と守護騎士に祝福を。次の契約に移る。次席聖女はこちらに参れ……」
ミヒャエルの手を借りて仲睦まじい様子で――この二人も男女の仲なのかもしれない、席に戻っていくカリーンと引き換えに次の聖女が壇上を上がっていき、ロニアの周りではカリーンの相手がミヒャエルであることを噂するような小声まで聞こえ出す。
自分以外の聖女がどの騎士と主従の契約を結ぶのか知れるのがこの儀式であり、それまでトラブルを避けて自分がどの騎士と契約を結ぶのか言ってはいけない決まりになっている。稀に同じ騎士に主従契約を申し出てしまう聖女がおり、その場合はどちらの聖女と契約を結ぶかは騎士の判断に委ねられていた。
この時も主従契約を断られた聖女には騎士団から別の騎士を紹介することになるが、過去に自分の契約を断った騎士がどの聖女と主従契約を結ぶか話してしまったことで、聖女間で生家も巻き込んだ大きな問題に発展したことがあった。そういった経緯もあったことから、聖女たちはどの騎士に主従契約を申し込みするのか神官長以外には誰にも話してはならないことが定められ、同じく騎士たちも自分がどの聖女から主従契約の申し出をされたのか騎士団長以外には言わないようになったのだった。
それからというもの聖女が騎士団の中からどの騎士と主従契約を結ぶのか、最初に知れるのがこの守護騎士任命の儀となってしまった。
「あら、クレアの守護騎士はマイセン伯の嫡男なのね。知らなかったわ……」
「クレアとマイセン伯の嫡男は幼馴染みらしいわよ……リリスの守護騎士はナーヴィス様ね。そういえば噂で聞いたかも。神殿の裏庭でキスしてたらしいわ……」
「やだっ! 大胆っ!」
聖女といえども噂話が大好きなのは年頃の娘と変わらず、それが婚姻にまで発展するかもしれないと思うと、殊更に興味を持つ。同じ貴族なら今後聖女仲間以外にも貴族としての友好関係を築く可能性があり、また平民出身の聖女でも騎士団からの紹介で貴族出身の騎士と契約を結んで貴族の仲間入りをすることや功績を称えられて爵位を得ることもある。
聖女として独り立ちした後――貴族の女性としても独り立ちすることも考えると、この儀式は聖女の成人の儀以外に家同士の繋がりを見極める場とも言えるだろう。
貴族の令嬢として、そして恋愛やゴシップに興味を持つ年頃の娘として、聖女たちは主従契約に興味津々であり、この儀式がメインイベントと言われているのもその辺りに由来しているのだった。
(ルディ……全然呼ばれない……。まさか守護騎士に指名された訳じゃないのに儀式に参加してるの?)
そうしている間にも守護騎士任命の儀は進んでいくが、フェルディアが選ばれる気配は全くなかった。他の騎士や聖女たちと違って無表情で壇上を眺めているので、何を考えているのかは分からない。それでもどことなく退屈そうにも馬鹿馬鹿しいように呆れているようにも見えたのだった。
「最後――ロニア・グラナートは前に!」
「はいっ!」
神官に名前を呼ばれると、すくっと立ち上がって壇上へと向かう。ロニアが名前を呼ばれる頃には騎士席に残っている騎士はラシェルとフェルディアを含めて数人しか残っていなかった。その中にはすでに守護騎士の契約を結んでいる騎士もいるので、残っているのはラシェルかフェルディアぐらいだろう。ラシェルが誰と契約を交わすかそわそわしながら見守っていた聖女たちだったが、やがていつまでも選ばれないラシェルの様子に「まさか」と顔を青くしていく。
これまで散々ロニアを小馬鹿にしてきた聖女たちの狼狽える様子に鼻を高くしながら、ロニアは騎士席の前を通り過ぎて壇上へと足を踏み出す。
「聖女・ロニア。とうとう旅立つのだな」
「はい。これからは他の聖女と同じように、国に尽くしていきます」
長らく神殿に居残っていたロニアの独り立ちが眩しいのだろうか。神官は目を細めると、残った羊皮紙を直接手渡してくる。
「よろしい。魔法陣を受け取りなさい。そうして其方の守護騎士に相応しい騎士を女神に問うのだ」
渡された羊皮紙の紐を解いて描かれた魔法陣を目にしたロニアだったが、描かれた魔法陣を一目見て瞬きを繰り返す。
(他の聖女たちは赤い魔法陣だったのに、これだけ白の魔法陣だ……)
偶然なのかそれとも落ちこぼれのロニアだけ魔法陣が別物なのか。考えたいところではあるが、周囲の注目を浴びている最中に考えている暇は無かった。
ロニアは羊皮紙を頭上に掲げると、他の聖女たちと同じように詠唱する。
「我らの母たる女神・セラピアに、聖女・ロニアが問う。我に忠義を誓い、信愛に値する守護騎士を教えたまえ!」
白い魔法陣は羊皮紙ごと浮かび上がると、そのまま大聖堂の天井近くまで昇っていく。
「なっ、なにっ……!?」
他の聖女たちとは違って、白い魔法陣はステンドグラスの前で弾けると大聖堂内に白い粒子を撒き散らす。女神の加護にも見た清らかな光の欠片に誰もが魅入っていると、ロニアの右手の甲にピリッとした小さな痛みが走る。顔の前まで持ち上げれば、そこに他の聖女たちと同じ白い魔法陣が浮かび上がっていたのだった。
(良かった……他の聖女たちとは違ったけど、契約は成功したのかな……)
ほっとしたのも束の間、今度は騎士席からガタッと椅子が倒れる音が聞こえてくる。その音に反応してロニアを含めた全員が視線を移した先には、左手の甲を押さえて驚愕の表情で立ち尽くすフェルディアの姿があった。
「ブロスサード、神聖な儀式の最中だ。何があった?」
壇上から騎士団長が問えば、フェルディアはハッとしたように手の甲を押さえていた手を離す。隠されていたフェルディアの左手の甲には、ロニアの手の甲に刻まれたのと同じ白い魔法陣が光り輝いていたのだった。
誰もが言葉を失い、そして固まってしまう。やがて水を打ったように静まり返った大聖堂内に響いたのは、ロニアの「へっ……?」という間の抜けた声であった。
「どうして、契約魔法の陣がル……フェルディア……さんの手に……?」
つい癖で「ルディ」と幼少期の愛称で呼びそうになったのを誤魔化しつつ、おっかなびっくりロニアが問えば、フェルディアも戸惑ったように口を開く。
「それは俺にも……」
「神官殿、契約魔法のやり直しを所望します!」
そんなフェルディアを遮るように間髪入れずに不服を申し立てたのは、フェルディアの二つ隣の席で立ち上がったラシェルだった。
白い顔を烈火のごとく赤く染め、怒りで目を吊り上げたラシェルが乱暴にフェルディアを指さす。
「この契約は無効です。聖女・ロニアの儀式の仕切り直しを求めます!」
これまで見たことがないラシェルの激しい怒気にロニアだけではなく、その場にいた誰もが度肝を抜かれてしまう。
ラシェルと言えば、温厚な性格と物腰柔らかな姿から騎士や聖女、神官だけではなく、国中の人たちからも慕われている偶像的な存在でもある。そんなラシェルが取り乱した姿を見せたことは一度だって無かった。
遠征先で魔物に囲まれた時も、パニックに陥った騎士たちを落ち着かせて冷静にまとめ上げたという逸話さえある。どんな状況に陥ってもラシェルだけは平静さを保ち、卓越した手腕で人々を導く。それもまた泰然自若たるラシェルが慕われている所以でもあった。
「其方の気持ちは分かる。しかしこれは女神が選定された結果であるが故に……」
「ですが、聖女・ロニアと契約を結ぶ騎士はこの私です! そのように大神殿にもお伝えしているはず。この契約は何かの間違いです。今一度、聖女・ロニアに主従の契約を……」
ハイトーンとロートーンの中間といったラシェルの声が大聖堂内に響き渡り、そしてロニアを見守っていた聖女たちの間で衝撃が走る。その勢いは騎士席まで波及すると、やがて誰もが口々に話し出しのだった。
「歴代の主席聖女や侯爵令嬢たちでさえ断られたラシェル様と契約を結ぼうなんて……落ちこぼれのくせして図々しいわ……」
「貴族でも無ければ、後ろ盾がある訳でも無い。そんな聖女が騎士団のエリート騎士を指名するとは身の程知らずだな……」
「でもやっぱり落ちこぼれはどこまでいっても落ちこぼれ。ラシェル様じゃなくて『騎士団の狂犬』に主従契約をかけてしまうなんて、なんてざま。でも落ちこぼれと問題児で良い組み合わせね……」
絶えず聞こえてくる嘲笑にロニアの顔がかあと熱くなる。落ちこぼれである自分の契約魔法が失敗したこともそうだが、場違いにも自分が誰もが羨む騎士団のエリート騎士であるラシェルと契約を結ぼうとしていたことを改めて突き付けられる。
いくらラシェルから守護騎士の契約を申し込まれたとはいえ、聖女の出来損ないである自分がその申し出を受け入れるのは間違っていたのだ。
落ちこぼれの自分は騎士団から勧められる騎士を守護騎士に指名すれば良かった。それこそフェルディアのようにロニアと同じく問題児や落第生扱いを受けている騎士と――。
「見苦しいぞ、ラウレール」
カンッと鞘に入った剣先が床の石畳を打つ音が耳に入る。無意識のうちに目を瞑っていたロニアが顔を上げると、フェルディアが愛用の剣先で床を叩いたようであった。
「なに……?」
「神官殿の言った通りだ。この契約はこの国を守護する女神が定める。聖女・ロニアの守護騎士に相応しいのはお前ではなく、俺だということだ。お前は女神の判断に異論を唱えるつもりか?」
「……っ! お前に何が分かる! 私がこの日を何年待ち望んだと思う!? 五年だぞ! ロニアが聖女として一人前になるのを待っていた! 途中から入団して、他人の功績だけではなく聖女まで攫ったお前に何が分かる!? この『狂犬』が!!」
「聖女さまが成人する日を待ち望んでいたのは俺だって同じだ。たとえその聖女さまの守護騎士に任命されなくても、これから聖女として活躍する姿を見られるのならそれで良かった。けれども、そんな聖女さまの守護騎士に任命されたのなら話は別だ。聖女・ロニアは俺が守る! まずは聖女さまの儀式を邪魔するラウレール……お前から消してやる……っ!」
舌鋒から一転、フェルディアだけではなくラシェルまで剣の柄に手を掛けたところで、「そこまでっ!」と騎士団長の怒号が飛んだ。
「ブロスサード、ラウレール、剣を収めろ。聖女の旅立ちを祝う儀式の邪魔をするのなら二人揃って退席を命じる。たとえ聖女・ロニアの守護騎士であってもだ!」
さすがに騎士団の長たる騎士団長には逆らえないのか、フェルディアは舌打ちをすると剣を下ろし、ラシェルも不承不承といった様子で柄から手を離す。ようやく治まった一触即発の空気にロニアは安堵の息と共にそっと肩の力を抜く。それは他の聖女や騎士たちも同じようで、大聖堂内に神官がわざとらしい咳払いをしたのだった。
「儀式を続ける。聖女・ロニアによって、女神に選ばれし騎士よ。ここへ参れ」
「はい」
フェルディアは騎士席から出ると靴音高くロニアへと近付いてくる。それでも変わらず聖女たちからはひそひそとロニアを揶揄する声が囁かれ、途中で足を止めたフェルディアが睨み付けたことでようやく元の静寂を取り戻す。
久方ぶりに近くで見たフェルディアは身長が伸びて、ほどよく筋肉のついた体型もしっかり整っていた。黒色のくせ毛と宝石のような赤い瞳は、何も変わらない。先程聞いた声は最後に話した時より幾分か低くなっており、有無を言わせぬ鋭ささえあったものの、ロニアを庇った時の話し方は年相応の男性そのものであった。
自分に向けられた悪口なんてもう慣れたつもりでいた。それでもフェルディアに護られて――心が震えそうになった。
(でも、ルディは私のことを……)
いや、フェルディアはロニアがかつて共に育った家族だと知らない。フェルディアだけではなく、別れた後のロニアも随分と変わった。
少年のように短く刈っていた銀髪は女性らしい手入れの行き届いた艶のある長い髪に、膝小僧が剥き出しのスラックスは止めて足首まで長さのあるローブに。顔つきや身体は女性らしい丸みを帯びて、甲高い声も鈴のような声に落ち着いた。
そして幼少期に名乗っていた「タスロ」という少年の名前は捨てて、少女に――「ロニア」に戻っていた。
今日までロニアがフェルディアから逃げ続けてきた理由。それは別人のように変わってしまったフェルディアだけが原因ではない。
入団の際にフェルディアが答えたと噂される、騎士団を志した理由によるものだった。
ロニアは面接を担当した騎士たちが語っていたのを聞いただけだが、フェルディアは他の騎士たちとは違って、武勲や栄誉を求めて志願したわけでも、生活のために誰かの勧めで騎士団を希望したわけでも無かった。他に類を見ない一風変わった動機から、騎士団の門戸を叩いていたとされていた。
その理由というのが、「大神殿に入った弟と会うために、騎士団を志願した」というものであった。
大神殿に入った家族を追い掛けるだけなら騎士団に入らずとも、希望すれば面会はいつでも叶う。実際に貴族出身の聖女や神官たちには毎日のように家族や使いの者が会いに来ている。
ロニアは数年前に唯一の家族だった母親を亡くし、大神殿に入るまで世話になった高齢者の聖女と騎士も田舎に隠居してしまったので、面会で誰かが来たということは一度も無いが、大抵の者は定期的に家族や友人が面会に訪れている。むしろ誰も来ないロニアが珍しいと言えるだろう。
面接を担当した騎士はフェルディアの志願理由に絶句したものの、どうにか平常心を取り戻して騎士団に入らずとも家族に会えると諭したらしいが、フェルディアは「それでは意味が無い」と一蹴した。そして赤い両目をぎらつかせながら、こう答えたとされていた。
――自分を置いて勝手に大神殿に入った意図を問い質し、そしてこの手で全てを終わらせたいのだ、と……。
そんなことを考えている間に、フェルディアはロニアの前で片膝をつくと跪いていた。神官に促されたロニアは慌てて儀式に集中する。
「騎士・フェルディア、汝はその命果てるまで、聖女・ロニアに忠義を尽くすと……」
「誓います」
誓いの言葉を遮ったフェルディアに神官は不機嫌そうな顔になるが、気を取り直して儀式を続ける。
「続いて、聖女・ロニアはその命の限り、聖女としての役目を全うし、騎士・フェルディアと共に国に尽くすと誓えるか?」
「誓います!」
他の聖女たちと同じならここで神官から促されて、フェルディアが女神に誓いを立て、ロニアがフェルディアに祝福を与えることになる。
しかし神官が話すより先にフェルディアはすっと頭を上げてしまう。ガーネットのような赤い瞳に真っ直ぐに見つめられてロニアが内心でどぎまぎしていると、フェルディアはロニアの左手を掬うように手に取ったのだった。
「私、フェルディア・ブロスサードは、聖女・ロニアを主人とし、これから永久にお仕えすることを、女神・セラピアに宣誓する。この剣は聖女・ロニアに、この心はロニアさま個人に捧げる。変わらない愛を永遠に誓おう。病める時も、健やかなる時も。死が二人を分つまで……」
そう誓約を述べると、フェルディアはロニアの手の甲に口付けを落とす。
唇が触れた瞬間、ロニアは手の甲から電流が走ったように感じられて、身体が大きく跳ねたのだった。
「ちょっ……フェ、フェルディアさん!?」
これでは騎士の宣誓というより、婚姻の誓いの言葉ではないか。
ロニアは助けを求めて周囲を見回すが、神官や騎士団長は口をあんぐりと開けたまま固まっており、壇上のロニアたちを見守る他の聖女たちはほうっと感嘆の息を吐いていた。
ラシェルにいたっては、憎悪を込めた表情でフェルディアを睨み付けている始末。ここはロニアが一人でどうにかするしかなかった。
そうしている間にフェルディアが唇から手を離してくれたので、ロニアは気を取り直すと儀式を続けたのだった。
「せっ、聖女・ロニアは、騎士・フェルディアを守護騎士として認めます。我が守護騎士に、しゅっ、祝福……を……」
そうしてロニアが首を垂れるフェルディアの黒い頭を触れれば、掌から白い光が溢れる。やはり力が弱いのか、他の聖女たちに比べたら幾分か弱々しい明かりではあったが、他の聖女たちと同じように光は吸い込まれるようにロニアの守護騎士であるフェルディアの中に消えて、二人の手の甲からは魔法陣が消えたのだった。
白い光が消えてフェルディアが立ち上がっても、神官は固まったままであった。予想外の出来事に未だ頭が追い付いていないらしい。
フェルディアが「終わりでいいのか?」と尋ねたことで、ようやく我に返ったくらいであった。
「ああ。新たな聖女と守護騎士に祝福を……」
ほとんど流れで言ったともいうべき祝福の心がこもっていない神官の言葉にフェルディアはさっさと背を向けて壇上を後にしてしまう。ロニアもその後に続こうとするが、いつもの癖で足を大きく開いてしまったからかローブの裾を踏んでしまった。
(あっ……)
身体が傾いて、誰もが壇上から転倒するだろうと思った時、すかさず先に壇上を降りていたフェルディアが戻ってきてロニアの身体を支えてくれたのだった。
「きゃっ!」
「大丈夫ですか!? お怪我は……!?」
ロニアがゆるゆると顔を上げると、目と鼻の先にはフェルディアの顔があった。どうやらフェルディアの腕の中に倒れたらしい。
吐息がかかる距離で心配そうにロニアを覗き込むフェルディアに向けて、ロニアは「大丈夫ですっ!」と顔を真っ赤に染めながら答えたのだった。
「助けていただきありがとうございます……」
「これくらいは守護騎士として当然のことです。俺が席まで運びます。聖女さまはこのまま俺に全てを預けてください」
近くで見られてしまった以上、タスロだとバレてしまっただろうかと危惧したが、どうやら今のフェルディアはそれどころでは無いらしい。転びかけたロニアに怪我が無いか頭から爪先までまじまじと見ていたフェルディアだったが、不意にロニアの背中と膝裏に腕を回すとその場で抱き上げたのだった。
「きゃあ!?」
小さな悲鳴を上げたロニアをものともせずに、フェルディアは音もなく抱えると、先程ロニアが座っていた聖女席の最後尾へと連れて行く。
子供か怪我人のように横抱きにされて運ばれながら、ロニアはフェルディアに訴えたのだった。
「自分の足で歩けます! 下ろしてください!!」
「いいえ。また転んでしまったら大変です。ここは俺に任せてください。貴女はとても軽い。まるで羽毛のようです」
そんなフェルディアはさすが騎士といえばいいのか、ロニアを軽々と抱える腕はたくましく安定していた。別れた時はここまで男性らしい身体をしていなかったので、きっと騎士として身体を鍛えてきたのだろう。自分の知らないフェルディアの姿にどこか寂しさを覚える。
「違います! そんなわけがありませんっ!! お世辞はいいので早く下ろしてください……っ!!」
「聖女・ロニア、神聖な儀式の最中です。静かになさい! 騎士・フェルディアも聖女さまを運ぶのなら、速やかにお連れしなさい!!」
「了解した」
ここに来てようやく神官から注意が飛んでくる。フェルディアが原因で騒いでいるのに、自分が叱られるのは納得いかないが、神官の言葉でフェルディアの歩くスピードが速くなったのは嬉しかった。早く席まで運んで、この衆人環視の状態から解放してほしい。
ようやく自分の座席に辿り着いて下ろされるかと思っていると何故かフェルディアが長椅子に座り、その膝の上にロニアを乗せる。幼子のように座らされたロニアは小声で訴えたのだった。
「フェルディアさん!? 何をしているのですか?」
「こんな固い椅子に聖女さまを座らせられません。俺をクッションだと思って寄り掛かって下さい」
「大丈夫です。普通に座るので下ろしてください!」
「先程、神官長の話の時は長時間の着座がとても辛そうに見えました。他の聖女もそうでしたが、貴方の姿が一番目に入ったので……」
「あれは神官長の話が長くて飽きてしまっただけで、椅子が原因なだけでは……」
心配そうに見つめてくるフェルディアから目を逸らす。ラシェルと一触即発の空気になった時にも言っていたが、やはりフェルディアが儀式に参加したのは他ならぬロニアが理由だった。ロニアが探している家族だと気付いていないようだが、それなのにどうしてロニアを気に掛けるのか。聞いてみたいが、それだとロニアが探している家族だと――「タスロ」だと名乗りでなければならない。もしフェルディアが「タスロ」を探している理由が自分を捨てたことへの復讐だとしたら……。
そんなことを考えていると、不意に視界の隅にラシェルが大聖堂を出て行く姿が入る。
(そうだ。ラシェルさまの誤解を解かないと……)
この契約はロニアの意志によるものでは無いと言わなければならない。ロニアが聖女になれると信じ、待ち続けていたラシェルのためにも……。
「フェルディアさん、すみません。すぐに戻ります」
フェルディアの膝の上から降りるとロニアはラシェルを追いかける。後ろから「ロニアさん!?」と慌てるフェルディアや「聖女・ロニア、儀式の途中ですぞ」という神官からの叱責が飛んできたが構っている余裕は無かった。今はラシェルの誤解を解くことで頭がいっぱいだった。
「待ってください! ラシェル様!! これは何かの間違いなんです! 私は決してフェルディアさんに契約魔法を掛けたつもりはなかったんです……!」
ローブの裾をたくし上げて追いかけたロニアの声が聞こえたのか、大聖堂を出たところでラシェルが待っていた。ようやく追いついたことに安堵して息を整えるロニアに向かって、ラシェルは侮蔑の色を示す。
「間違いじゃない……? それならいったいこれはどういうことだ。どうして、君の契約魔法が『騎士団の狂犬』にかかる?」
「それは……私が落ちこぼれだから魔法を失敗しただけで……」
「落ちこぼれだから失敗した? そんな理由だけで許されると思っているのか!? 私は恥をかかされたのだぞ! 『狂犬』と一緒に貶めた裏切り者め!!」
「きゃあ!」
ラシェルに突き飛ばされて、ロニアの背中が壁にぶつかる。その弾みでロニアの髪から赤い花の髪飾りがするりと落ちると、床に当たって軽い音を立てた。髪飾りを踏みながら、ラシェルは近づくとロニアの両肩を掴む。
「君と『狂犬』はいつから謀っていた? 私を貶めて満足か? 君も『狂犬』も爪弾き者同士、ここにいる聖女や騎士たちの鼻を明かせてさぞかし愉快だっただろうな!」
「話しを聞いてください! 私とフェルディアさんはそんな関係では無いんです。これは誤解なんですっ! 神官長に言って、すぐに儀式のやり直しを……」
両肩を掴むラシェルの手に力が込められる。ロニアは「いたっ」と声を漏らすが、解放する気は無いらしい。
「あのように仲睦まじい関係まで見せて、言い訳をするのか!?」
「あれはフェルディアさんが勝手に……!」
それにまさかルディが契約を受け入れるとは思わなかった。こういうことは嫌がるか面倒くさがって不服を唱えて、神官に契約の破棄を申し出ると思っていた。契約を受け入れて、しかもどの騎士よりもドラマチックに宣誓するとは想像もしなかった。フェルディアが騎士団に入った目的は家族を探すため。聖女と契約して守護騎士になってしまえば、騎士団から離れて聖女と共に国内の神殿に遣わされてしまう。
大神殿を尋ねて家族を探すどころではなくなってしまうが、フェルディアはそれでいいのだろうか。だからといって、騎士団に残ってロニアが探していた家族だと知って追いかけてこられても困るが……。
「ラウレール、聖女さまを離せっ!」
その時、大聖堂からフェルディアが姿を現わしたかと思うと、すぐにロニアたちに気付いて引き離してくれる。ロニアを背に庇いながら、フェルディアがきっと睨み付ける。
「女神に選ばれなかった報復か? それで聖女さまに当たるなど、見当違いも甚だしい!」
「黙れっ! お前に何が分かる! そもそも契約の時にお前が破棄しなかったから、こんなことになっているんだ!」
「この国の女神も聖女さまに相応しいのはお前じゃないと気付いたから俺を選んだのだろう。自分の思い通りにいかなかったからといって、聖女さまに当たり散らすような奴が守護騎士になんて相応しくないからな」
「なんだとっ……!?」
またしても不穏な空気を感じ取ったロニアは「あの、フェルディアさん……」とおそるおそる声を掛ける。
「一応、表向きは女神によって騎士が選ばれることになっていますが、実は事前に聖女側から騎士に守護騎士の意思確認をしていまして……」
「そうなのですか……?」
「やっぱり知らなかったんですね……」
赤い目を見開いたフェルディアにロニアは小さく溜め息をつく。守護騎士に選ばれたことでどことなく気持ちが舞い上がっているように見えたが、やはりドンピシャだったらしい。
「し、しかしこの契約が偶然だったとしても、これはきっと運命です。俺の気持ちを汲んでくれた女神による意向だと信じております」
「フェルディアさんの気持ちですか?」
「俺はずっと前から貴方を想っていました。そんな貴方が晴れて一人前の聖女になると聞いて居ても立っても居られず、儀式への参加を騎士団長に許可を申し出ました。それだけでも幸福だというのに守護騎士に選ばれて、しかも将来の夫になれるなんて……」
「将来の夫……?」
フェルディアはロニアに向き直ると、ロニアの両手を掴む。温かい大きな手にロニアの心臓がどきまぎする。いつの間にフェルディアに好意を抱かれていたのだろうか。それも家族だった「タスロ」ではなく、一人の女性である「ロニア」に。
「他の騎士に聞きました。守護騎士は聖女と結婚するって。つまり俺が聖女さまの将来の夫に選ばれた……つまり婚約関係になったと言っても同然ですよね」
「確かにそういった話もありますが、だからといって必ずしも聖女と守護騎士が結婚するとは限らなくて……」
「俺には剣の腕しか取り柄がありません。家事は少々できますが、何分、不器用なもので弟には敵わず……。騎士団で貯めた貯金はありますが、貴族では無いので贅沢はさせられないかもしれません。それでも聖女さまの願いは出来うる限り叶えます。欲しいものも遠慮なく申し付けください。天上で輝く月でさえ、貴方が望むのなら必ず手に入れてみせます」
「フェルディアさん……? 何か誤解していませんか。主従契約と婚約は別のものですよ……? まさか主従契約を婚約の申し出だと思って受け入れてくださったのですか?」
ここに至って、ロニアは思い出す。守護騎士契約の儀式にあたってロニアたち新米聖女の教育係だった先輩聖女から説明を受けた時に言われていた。
守護騎士の契約について、騎士の中には稀に勘違いする者がいる。聖女と守護騎士の主従関係から恋愛関係に発展することが多いことから、守護騎士に選ばれただけで聖女に結婚相手を申し込まれたと――プロポーズされたと思い込む者がいると。
まさかフェルディアも守護騎士の契約を婚約の申し出と勘違いするような部類だったとは思わなかったが。
「これから貴方を害するものは全て切り捨てます。魔物でも人間でも。目の前で貴方を困らせるラウレールでさえも……」
そうしてフェルディアはまたロニアの手の甲に軽く唇を落とすと、怒りに燃えるラシェルに向き直る。ラシェルは「この『狂犬』がっ……!」と吐き捨てるとロニアたちに背を向けてしまう。ロニアはまた追いかけようとしたが、フェルディアに片手を掴まれて阻まれてしまった。
「ラシェル様……!」
「やはり君には見損なったよ。私との契約の話は無かったことにしてくれ」
「待って下さい。主従の関係になれなくても、婚約はできます! せめて婚約者としてラシェル様を支えさせてください!」
「それも無かったことにしてくれ! やはり君と私では不釣り合いだったのだ。聖女一の落ちこぼれの君と次期騎士団長である私とでは!」
ラシェルの足元でパキッと何かが割れる音が聞こえてくる。目線を移せば、ラシェルの足が赤い花の髪飾りを踏みつけて粉々に壊したところだった。
「私には相応しくなかったということだ。劣等生は劣等生らしく、自分の実力に見合った者と契約を結ぶと良い。たとえば、そこの騎士団の『問題児』とかね!」
「貴様、聖女さまに何てことを……!」
フェルディアが奥歯をギリッと噛んで柄に手を掛けるが、ラシェルは相手にするどころか醜いものを見たというように顔を歪めたまま足早に去ってしまう。ラシェルの靴音が離れていく中、ロニアは呆然としてその場にくずおれてしまったのだった。
(ラシェル様に嫌われてしまった……私が契約魔法を失敗してルディにかけてしまったから……。五年前からずっと待っていてくれたラシェル様の期待を裏切ってしまったから……)
ロニアの心の支えでもあったラシェルを失って、絶望に支配される。誇らしい気持ちで聖女として成人するはずが、傷心での旅立ちとなってしまった。
これまでの能無しを挽回するべく、ラシェルと共に聖女として尽力すると誓っていたのに……。
見かねたフェルディアが片膝をついて、「聖女さま」と声を掛けてくれる。
「聖女さまはあいつと……ラウレールと契約を交わすつもりだったのですか?」
ロニアがゆるゆると頷くと、何故かフェルディアはほっとしたように表情を緩めた。
「……契約を結ばなくて正解でした。相応しくありません。聖女さまの守護騎士には到底……」
「貴方も私には相応しくないって言うの!?」
涙交じりにずっと堪えていた言葉をフェルディアにぶつけてしまう。口にしてからロニアはハッとしたように我に返ったが、フェルディアはバツが悪そうに目を逸らしながら、「すみません」と謝罪を口にしたのだった。
「そういうつもりで言った訳では無かったのです。そもそもここに来たのだって、神官から聖女さまを連れ戻すように言われたからで……」
「それならそうと言ってください! すぐに戻らないと……」
ローブの袖で目元を拭う。手を貸してくれようとしたフェルディアを無視して、ロニアは大聖堂に足を向ける。大聖堂では儀式が終了したのか、聖女の何人かがこちらを伺っていた。今の話を聞いていたのだろう。誰もが窺うようにロニアと後ろをついてくるフェルディアに目を向けてくる。
(分かっていた。自分のような落ちこぼれにラシェル様のようなエリート騎士は分不相応だって……)
契約の時、聖女たちに好き勝手言われる前から薄々気付いていた。誰もが羨むラシェルが落第生のロニアに主従契約を持ち掛けるはずがない。
ラシェルにどんな目的があるのか知らないが、ロニアはただ純粋に嬉しかっただけだった。自分のことを万年最下位の落ちこぼれ聖女ではなく、一人の聖女として平等に扱ってくれようとしたラシェルの好意に……。
大聖堂に入るとほとんどの聖女と騎士が入れ違いに出て行き、残っている者は数人だけとなっていた。ロニアたちが戻ってきたことに気付くと、先程儀式を担当した神官が近付いてくる。
「勝手な退室は困ります。今後はもう少し聖女としての自覚を持ちなさい」
「……申し訳ありません」
「他の聖女たちには伝えたが、改めて其方がこれから従事する神殿を伝える。聖女・ロニアとその騎士・フェルディア。其方らには北西にあるニールノマンド地方のオズモル神殿を与える。そこで国に尽くすと良い」
「オズモルって……国境付近にある小さな村だな。そんなところに神殿があったのか」
ガイスト王国は周辺を他国に囲まれた小さな国だが、特に西側はロニアが生まれる直前まで小競り合いが起こっていた。その時の聖女の一人が小競り合いを止めたらしいが、それ以降はお互いに様子見を続けている。いつまた争いが勃発してもおかしくない地域であり、聖女や守護騎士たちが最も派遣されたくない地域でもあった。
「……前任者が亡くなり、長らく空位となっている小規模の神殿だ。隣国との関係は良好で、あの辺りは魔物による被害はほぼ無い。実力が不足している聖女・ロニアでも充分に問題ない」
それは劣等生の自分でも問題なく務めを果たせるということだろう。神官たちにまで軽んじられているのは悔しいが、事実なので何も否定はできない。すると、フェルディアが「お言葉ではありますが」とロニアの代わりに不服を口にする。
「聖女・ロニアをかなり侮っているように見受けられます。他の聖女と同じように扱わないのは何故でしょうか」
「他の聖女と同じように大神殿のこれまでの成果と本人の実力を鑑みた上での判断だ」
「それなら危険を伴う地方の神殿には優秀な聖女、安全な王都内の神殿には力が弱い聖女を派遣した方が効率的に思えます。王族が住む王都内と違って、地方には結界が張られていないので、場所によっては命の危険があります」
王族が住まう王城や大神殿がある王都には聖女や神官たちが定期的にかけ直す結界によって守られているが、国の国境付近などの地方に行けば行くほど結界から遠ざかるので魔物による被害が多い。更に聖女や神官も少ないので神聖力を求めて神殿に来る者が多く、怪我人や病人の治療なども一人で担わされる。
これが貴族ならお金を積んで安全な王都の神殿に務められないか交渉もできるが、ロニアは平民出身の孤児なので、そんなことをできるはずもない。
実力が無ければ、貴族でも無い聖女は地方の神殿に行かされるのが、ここ数十年での暗黙のルールとなっていた。
「そのための守護騎士であろう。其方も守護騎士に任命されたのならば、命を賭して自分の聖女を守ることだ。明日の朝には出立できるように準備を進めるように。私からは以上だ」
神官は颯爽といなくなり、後には儀式の片づけをする新米神官とロニアたちが残される。新米神官をひと通り眺めたフェルディアに促されて、ロニアも大聖堂を後にしたのだった。
部屋まで送るというフェルディアを断って、ロニアは途中で別れる。ロニアは昨日までにほとんど荷造りを済ませていたが、急に守護騎士に任命されたフェルディアはこれから荷物をまとめなければならない。フェルディアは話し足りないのかどこか寂しそうにしていたが、ロニアは気付かない振りをして聖女たちが共同生活を送る大神殿の奥の生活の間へと戻ったのだった。
生活の間に戻ると他の聖女たちはまだ戻ってきておらず、ロニア一人であった。自分の守護騎士と話している者もいれば、すでに着替えて大神殿の食堂に向かった者もいるのだろう。
毎年、聖女たちが独り立ちする前日の夜には祝いの宴が食堂で催される。いつもは質素な食事しか許されていない聖女たちも、今夜ばかりは豪華な食事が提供されるので、この日を楽しみにしている者も多い。
これまで最終試験の不合格続きだったロニアは一度も参加したことが無く、独り立ちが決まった今年こそ顔を出してみたいと思っていたが、とてもそんな気分にはなれなかった。ローブを脱いで肌着になってしまうと、ベッドに倒れたのだった。
癖で頭に手をやって空を切ったところで虚しさが募ってくる。そうして深いため息を吐いたのだった。
(どうしてこうなんだろう……聖女になれたのなら悩みも無くなって、楽に生きられると思っていたのに)
子供の頃からずっとこうだった。神聖力に目覚めて神殿に預けられてからというもの、ロニアの人生は散々なものだった。
物心ついたときには父は他界しており、母と下町で暮らしていた時は身の安全のため、「タスロ」という少年の振りして暮らしていた。その後、聖女の証である神聖力に目覚めると、母から離されて北にある地方の小さな神殿に預けられた。そこで高齢の聖女から聖女としての心構えを、高齢の守護騎士から護身術を教わったのだった。
二人は婚姻関係でなく、ただの主従関係であったが、長年苦楽を共にした夫婦のようにとても仲が良かった。ロニアのことを実子のように可愛がってくれて、神殿に預けられている間に母が病で亡くなったと聞いた時はロニアと一緒に一晩中女神に祈ってくれたのだった。
そんなある日、フェルディアが神殿に預けられることになった。フェルディアは元々孤児で、国が運営する孤児院に住んでいたらしいが、悪事ばかり働くので孤児院を追い出されて、神殿に預けられた「問題児」とのことだった。
神殿に来た最初こそフェルディアは近くの村人や神殿を訪れた旅人に悪戯をしては、高齢の守護騎士に怒られてばかりいた。体力が有り余っているのならと、高齢の守護騎士から剣術を教わる中でロニアと出会ったのだった。
神殿で暮らし始めてからも、ロニアは安全を考慮して「タスロ」として生活していた。
当時は下町や王都から離れた郊外では少女の人身売買が多く、特に聖女候補たちは他国に高く売れることから売人たちに狙われていた。それもあって、下町に住む聖女候補たちは安全のために親元から離されて神殿に預けられることが多く、神殿に基本的な教養である読み書きや計算、簡単な神聖力の使い方を教わったのちに大神殿に送られて本格的に聖女としての修業を始めることが一般的であった。
下町出身のロニアも例外なく神殿に預けられたが、その際に高齢の聖女から、大神殿に入るまでは「神殿のお手伝いとして雇われた少年のタスロ」として生活するように指示されたことから、フェルディアにもそう紹介されたのだった。
フェルディアは弟分が出来たことが嬉しかったのか、とにかくロニアをあちこちに連れ回した。フェルディアは面倒見が良いだけでなく腕っ節も強かったため、近所の飼い犬に追い掛けられたロニアを助けてくれただけではなく、大人たちと一緒に村を訪れた人買いの売人を追い返したこともあった。
勉強は苦手でよく座学の時間に抜け出して高齢の守護騎士から怒られていたが、村に咲く花や森に現れる動物の名前など何でも知っていた。一緒に神殿のお手伝いをして、あちこち遊び回った。ロニアにとっても最も子供らしくいられた期間でもあった。
けれども、ある日ロニアを迎えに大神殿から神官たちが神殿に遣わされた。その時、フェルディアは高齢の守護騎士に連れられて出掛けており――後に大神殿から神官が来ることを知った聖女と守護騎士によってわざと連れ出されたと知ったが、神殿には高齢の聖女とロニアしかいなかった。
ロニアはフェルディアが帰ってくるまで神殿で待ちたいと言ったが、大神殿の神官たちは許してくれず、ロニアは高齢の聖女の説得もあって、泣く泣く神殿を後にすることになったのだった。
大好きなフェルディアに別れも告げられなかったショックから、ロニアは大神殿に着くまで泣き続け、到着する頃には発熱までして寝込むことになった。熱が下がり、聖女としても修行が始まっても、フェルディアを忘れたことは片時も無かった。一度大神殿に入った以上、修行を終えて一人前の聖女になるまで外に出られないので、いつか一人前の聖女になったら真実を話しにフェルディアの元に行こうと思っていた。
しかしその前にフェルディアが現れて、神殿と密な関係である騎士団に入団してしまった。入団時の面接の通りなら、フェルディアは自分を捨てて大神殿に入った家族同然の「タスロ」を憎んでおり、その手で恨みを晴らそうとしている。
殴られるのか、詰られるのか、それとも切り捨てられるのか、それは分からない。それでもフェルディアが「タスロ」に対して、並々ならぬ憎悪を抱いていることは間違いない。ここでロニアが実は幼少期に一緒に過ごした「タスロ」だったと打ち明けたのなら、どんな目に遭わされるのだろう。
(ルディはわたしを丁重に扱ってくれる。それも主従の関係以上に。それがどうしてかは知らないけれど……)
フェルディアのロニアに対するこの愛情は正体が知られるまでの一時的なもの。ロニアの正体を知ってしまったのなら、きっと今の関係には戻れない。
しかしフェルディアはロニアの契約を受け入れてしまった。共に過ごしていれば、いつかは知られてしまうだろう。そうしたら、この主従関係とフェルディアがロニアに向けてくれる愛はどうなってしまうのか。
(これからどうなるんだろう……)
一度守護騎士の契約を結んでしまった以上、聖女側から契約は破棄できない。契約を破棄できるのは、聖女と守護騎士のどちらかが人道に背くような行為をした時――犯罪に手を染めるか女神を裏切るような背徳を犯した時である。
神殿の威信を損なう行いをしたということで、神官長よりも更に上位に位置する大神殿の長である神殿長によって守護騎士の契約を反故にされる。そうして罪人は大神殿の地下に留置され、片方は役職を解かれて大神殿より追放されるのだった。
つまりロニアとフェルディアの契約を無かったことにするには、どちらかが罪を犯すしかない。ようやく聖女になれたのに、ここで失うのは惜しい。
そのためにももう少しフェルディアの深層心理を知りたい。フェルディアが「タスロ」に本当はしたいのか。
「はぁ……」
ロニアは大きな溜め息を吐くと、そっと目を閉じる。あまりにも先行きが不安で眩暈すらしてくる。
そんなロニアを構うこともなく、外からは独り立ちを喜ぶ聖女たちの姦しい声が聞こえてきたのだった。
◇◇◇
「おっ、おはようございます……! 本日はお日柄も良く……」
「おはようございます。フェルディアさん」
翌朝、どこかどんよりとした曇天が広がる中、他の聖女たちと同じように朝食を終えて、自分の荷物を持って大神殿の外に出ると、大神殿の前ではフェルディアが直立不動の態勢で待ち構えており、その近くでは絢爛豪華な馬車が並んでいた。
昨晩のうちに貴族出身の聖女か守護騎士が実家に連絡をいれたのだろう。多少の差はあっても、家紋が入った新品同然の御者付きの馬車が大神殿の前に列をなしている姿は圧巻でもあった。ロニアのように遠い地方の神殿に派遣される聖女たちは数日分の野営の準備まで万全に整えており、聖女の中でもとりわけ大荷物であった。
他の聖女たちは馬車と共に実家からやって来た使用人に荷物を運ばせているか、守護騎士とこれからについて話している最中であり、ロニアたちが近付くと窺うように見ていた。その中にはニヤニヤと嘲笑うような者たちやラシェルとの婚約のことを話す者もいるので、やはり昨日の会話を聞かれてしまったらしい。一夜にして噂好きの聖女たちの間で広まってしまったようだった。
平民出身の者たちも近くの町で譲り受けてもらったと思しき古めかしい馬車が停まっていたが、この中にロニアの馬車は無い。儀式の前まではロニアはラシェルと契約を交わして、ラシェルが手配する侯爵家の馬車で自分が派遣される神殿まで送ってもらう予定だったが、昨日ロニアが契約を交わしたのはフェルディアだった。
フェルディアは貴族では無いので、実家に連絡して馬車や旅の道具を手配してもらうことはできない。当然、孤児であるロニアも。
ロニアたちが派遣されるオズモル神殿が建つニールノマンド地方は道中に山脈を抜けなければならないので徒歩で行けない。どこかで馬車を調達する必要がある。
今朝方、大神殿に申し出て余っている馬車はあるか尋ねたが無いと回答されてしまった。大神殿近くの町や村はすでに他の聖女と守護騎士が声を掛けているので余っていないだろう。数日は歩くか、旅人や一般市民も乗る乗合馬車を使って、大神殿から離れた村か町で買うしかない。携帯食料や野営に必要な道具も。
本当は出発を延期したいくらいだが、ロニアたちに与えられた神殿があまりにも遠いので、早く出発しないとますます到着が遅くなってしまう。
ロニアたちが着任することは、神殿が立つ町村の長には大神殿から事前に連絡がいっているはずなので、主不在の神殿を明け渡す用意を整えてあるはずだ。遅ければ遅い分、迷惑をかけてしまうので、それは避けねばならない。
「今日の出発なのですが、馬車が無いので、途中までは歩きでも……」
「そのような心配は無用です。さあ、こちらへどうぞ。荷物をお持ちします!」
断る間もなく、フェルディアはさっとロニアの手から荷物を取ると、先に立って歩き出す。どういうことかとロニアもついて行くと、他の聖女たちの馬車から少し離れたところに、小さいながらも荷馬車が停まっていたのだった。
屋根が無ければ荷馬車を操る御者もいないが、荷台を引く馬はついていた。フェルディアの物と思しき少量の荷物と野営に必要なテントや毛布などもすでに積まれており、すぐにでも出発できそうに用意が整えられていたのだった。
「あの後、探したところ、四つ先の町の宿でようやく見つけました。乗り心地は良くないと思いますが、途中まではこの荷馬車で移動して、どこかで幌馬車に乗り換えましょう。御者席には俺が座ります。他にも必要になりそうなものは全て揃えましたが、足りないものがあれば言ってください。すぐに用意します」
「あの後って、別れてから探してくださったのですか? 四つ先の町ってここから馬で掛けても半日は掛かると聞いたことがあります」
大神殿がある都市部と各町村は街道で繋がっているが、道中には整備が整っていない道や木々が鬱蒼と茂る森もあれば、野盗や魔物も現れる。何も無ければ半日で到着するが、だいたいはそれ以上の時間が掛かってしまう。
フェルディアと別れたのは夕刻に差し掛かる頃だったので、それから馬を走らせて馬車の調達に行ってくれたのだろう。他にも食料や野営の用意も寝ずに用意してくれたというのか。上手くいかないからといって、フェルディアに八つ当たりしたロニアなんかのために。
「はい。明朝、神殿に戻って来ました。ああ、心配は要りません。徹夜は騎士にとってよくあることですし、荷物もさほど持っていないので、荷造りはすぐに終わりました。いつでも出立できます」
「フェルディアさんはお疲れですよね。私が御者をしますので、荷台で休まれては……」
御者ならそれこそフェルディアと一緒に暮らしていた時に神殿の手伝いで何度かやったことがある。年老いた馬が引く藁と薪くらいしか乗らない小さな荷馬車だったが、扱い方をフェルディアに教えられた。この荷馬車は大きさが違うが、やり方は同じだろう。それならロニアにもできるはずであった。
そういうつもりで言ったつもりだったが、何故かフェルディアはギョッとしたように焦りだしたかと思うと、ロニアの両腕を掴んだのだった。
「何を言っているのですか!? か弱い聖女さまにこのようなことはさせられません。貴方の清らかな手に汚れが付いてしまうことでさえ我慢ならないというのに、万が一にも怪我なんてされたらどうするのですか!」
「怪我の治療くらい、神聖力であっという間に治せます。これでも聖女ですから……」
「聖女さまの力は多くの民を救うために使われるものです。もう少しご自身を大切にしてください。こういった雑事を請け負うのも騎士の務めであり、貴方と生涯共にする夫の役目です!」
「あの、守護騎士の契約と婚約は別だと……」
「勿論、理解しています。しかしこの想いを止めることはできそうにありません。それなら知って欲しいのです。俺が如何に貴方を想い、恋焦がれているのかを」
「は、はぁ……?」
昨日からフェルディアはどうしてしまったのだろうか。『騎士団の狂犬』はどこにいった。他の騎士たちでさえ道具としか見做していない、任務に忠実な騎士にして問題児のフェルディアは。
何故、聖女のロニアを前にして頬を赤らめて、熱を上げて愛を語ろうとしているのか。全く理解が及ばない。
「俺たちは結ばれる運命なのです。今は分からなくても、必ず振り向かせてみせます。貴方に忠誠を捧げる騎士にして、貴方を想う一人の男がいるということを」
「気のせいだと思います……」
「そのためにもお互いに理解を深めましょう。俺のことをたくさん知ってください。ですが先に用意を整えて出発をしましょう。話は道中でもできます!」
フェルディアが用意した荷馬車と野営の道具を確認したが、足りないものは無さそうだった。順当に馬車を走らせれば、毎日どこかの町村か宿屋に泊まれるので、野営の道具が必要になるのは宿屋が空いていない時か、悪天候や魔物の出現で町村に辿り着けなかった時であろう。
大抵の町村は聖女と守護騎士の訪れを歓迎してくれる。国の安寧を司る聖女と守護騎士は、この国が信仰する女神・セラピアの身遣いである尊い存在として、国民からの信頼と信奉が厚い。王族に次いで人気があるとさえ言われていた。
フェルディアの手を借りて荷台に腰掛けると、風除けのマントに加えて、身体が冷えて座り疲れないようにと数枚の毛布とクッションを渡された。野営用にしては枚数が多いので、荷馬車を手に入れた後にかき集めたのだろうか。
御者台に座ってマントを羽織るフェルディアの背中からは何も分からないが、ロニアを気遣うフェルディアの気持ちが嬉しかった。
昨日、座り疲れたロニアを膝の上に座らせてくれた時もそうだったが、フェルディアは周囲をよく観察している。その辺りは昔と変わっていなくて、どこか安堵してしまう。
ロニアの知らないフェルディアだけではなく、ロニアも知っているフェルディアの一面がまだ残っていることが嬉しい。
フェルディアの気持ちが嬉しい一方、昨日八つ当たりしてしまったことを思い出してバツが悪い気持ちになる。謝らなくてはと思い、ロニアは御者台に身を乗り出す。
「フェルディアさん、昨日はひどいことを言ってしまって……わぁ!?」
その時、馬の嘶きと共に荷馬車が大きく揺れて舌を噛みそうになる。後ろにひっくり返りそうになったロニアは慌てて荷台を掴んだのだった。
「すみませんっ! 荷台と一緒にこの馬も譲り受けたのですが、気性が荒いようで……お怪我はありませんか?」
「だっ、大丈夫です……」
ロニアたちが出発に手間取っている間に聖女の大半が自分の神殿に向かって旅立ったようで、大神殿の前に整列していた馬車はまばらにしか残っていなかった。ロニアたちも他の馬車を追いかけるように、ゆっくりと荷馬車を走らせる。
騎士団の詰め所の前を通ると、守護騎士として旅立つ仲間を見送る他の騎士たちが手を振っていたが、その中にラシェルの姿は無かった。少しだけ期待していたので、がっかりしてしまう。
「ところで聖女さま、先程何か言いかけましたか?」
「……いいえ、なんでもありません」
やっぱり後で声を掛けよう。そう思ったロニアは、荷物と荷物の間にクッションを置くとその上に収まる。こうすれば荷物が振動を抑えてくれるので、乗り心地が変わる。これを教えてくれたのもフェルディアだった。
荷物は固定されているので、ロニアが多少体重を掛けても動かない。かろうじて足を伸ばせるので乗り心地も悪くなく、雨さえ降らなければ、頬に当たる風も真冬ほど冷たくないので気持ちが良いくらいである。ただこの調子で風に吹かれていたら確実に身体を冷やして体調を崩すので、ロニアは毛布に包まったのだった。
(謝るのは次の休憩の時でいいか……)
外に目を向ければ聖女の旅立ちを祝う住民たちが、歓声を挙げながら手を振っている。
ロニアたちの先を行く豪華な馬車に乗っている聖女たちは優雅に手を振り返しているが、こんな荷馬車に乗っているロニアが聖女だとは誰も思わないだろう。
神聖力を持たない国民からしたら、聖女とは華やかで清らかなイメージを持つ偶像的存在。住む世界さえ違うと思われている。
対して今のロニアたちはせいぜい聖女の荷運び係、良くて騎士団の雑用担当のようにしか見えないだろう。騎士であるフェルディアの顔を知っている者はいるかもしれないが、まさか荷台に聖女を積んでいるとは誰も考えない。
ロニアがじっと荷台の中に身を隠していると、馬の歩調を緩めながらフェルディアが首だけ後ろに向ける。
「聖女さまは答えなくていいんですか?」
「……誰も私が聖女なんて思わないですから」
「そんなことはありませんよ……おっと」
その時、フェルディアが急に荷馬車を止めたので何事かと思えば、前の馬車にも花を渡していた子供たちがロニアたちの荷馬車にも近づいてきたところだった。子供たちの一人が腕に下げた籠から赤いガーベラを取り出すと、フェルディアに渡そうとする。
「めがみさまのごかごがありますように!」
「聖女さま、受け取りますか?」
フェルディアが後ろに声を掛けたからか、子供たちは目を輝かせて後ろの荷台までやって来ると、隠れていたロニアを見つけて我先にと様々な色のガーベラを差し出してくる。
「せいじょさまに、めがみさまのごかごがありますようにっ!」
「……ありがとう。綺麗な花ね」
平等にロニアが全員から花を受け取ると子供たちは安心したように微笑んで、また次の馬車に向かう。新たな聖女の誕生を祝って、この道を通る馬車に花を配っているのだろうか。
そんなことを考えていると、フェルディアが「あの子供たちは……」と教えてくれる。
「大神殿が運営する孤児院の子供たちです。毎年この日になると、聖女の誕生を祝福して花を配り歩くのです」
大神殿に限らず、ほとんどの神殿には孤児院が併設されている。病気や事故で親を失った子供、あるいは魔物や野盗などに親を殺された子供たちが集まって暮らしているとされていた。
ロニアとフェルディアが幼少期に過ごした神殿には併設していなかったが、聖女が若い時は近くの村に神官が運営する孤児院があり、そこに暮らす子供たちがよく遊びに来ていたという。
「そうですか。聖女にも花を渡してくれるのですね」
「いいえ。大抵の聖女は受け取らないか、守護騎士や御者などの代わりの者に受け取らせます。貴族出身の聖女ほど、下賎な者に声を掛けられたくないと考える者がほとんどですから……子供たちも聖女に直接渡せたらラッキーくらいの気持ちでいます。さっきの子供たちは貴方に花を渡せて喜んでいますよ」
「そうでしょうか……」
フェルディアの言葉で後ろを向けば、子供たちは先程よりも頬を赤く染めて、どこか弾むように嬉しそうな足取りで次の馬車に向かっていた。子供たちが離れていくと、またフェルディアが荷馬車を走らせる。
「他の聖女たちに何と言われ、この国の民にどう思われようと、やはり貴方は素晴らしい聖女です。孤児たちにも優しく、慈悲深い。どんなに隠そうとしても、その気高く神聖な心は隠し通せるものではありません」
「フェルディアさんが言ったからですよ。『聖女さま』って」
そう返しつつも、どこか心が弾んでしまう。見た目はみずぼらしく、落ちこぼれかもしれないが、こんな自分でも国民は聖女として受け入れてくれている。それが嬉しくもあり、こそばゆくもある。
(期待に応えられるようにならなきゃ。守護騎士の魔法ですら失敗した落ちこぼれであれ、馬車でさえ用意できない貧相な私であったとしても、今日から国を守る一人の聖女なんだから……!)
大神殿から連なっていた馬車たちは徐々に数を減らしていく。各々の目的地に向かって、道が分かれたのだろう。やがてロニアたちの荷馬車も馬車の列から離れて、北西部に向かって街道を進み出す。
この先に何が待ち受けているのだろうか、ロニアは緊張と興奮で身震いするのを感じたのだった。
◇◇◇
聖女は迷う
「ん、んんっ……」
「お目覚めですか。聖女さま」
香ばしい匂いに気付いたロニアが瞬きを繰り返しつつ身体を起こすと、近くでは火を焚いたフェルディアが料理をしているところだった。
肉と野菜を交互に刺した串が火の周りを囲んでおり、フェルディアは火にかけた鍋でスープを作っていた。
「いつの間にか、寝ていて……」
途中からロニアの意識が無い。顔に当たる風が冷たいと毛布を顔まで被ったところまでは覚えている。そこから先の記憶が曖昧なので寝てしまったのだろう。フェルディアに昨日のことを謝罪しようと思った矢先に失態を犯してしまい、ロニアは深いため息を吐いてしまう。
「休憩しようと馬車を停めたらぐっすり眠られていたので、起こすのは悪いと思って声を掛けませんでした。寒くはありませんか? 今朝市場で分けてもらった野菜屑と干し肉のスープがもうすぐ完成します。それともお湯を沸かして、お茶の方が良いでしょうか……」
フェルディアのかき混ぜる鍋の中ではとろりとした白いスープの中で、細かく刻まれた野菜や肉がくるくると渦を巻いていた。パチパチと音を立てる火からは、串焼きの肉がジュウと肉汁を垂らしており、辺りには濃厚な肉のうまみが詰まった匂いが充満する。
空腹を思い出したロニアが生唾を飲み込んだ途端、お腹が音を立ててしまう。羞恥で顔を赤く染めたロニアにフェルディアは口角を緩めたので、ロニアはわざとらしい咳払いをする。
「ありがとうございます。ル……フェルディアさんもずっと御者をしていてお疲れですよね。それなのに全て任せてしまって、すみません……」
まだ頭が寝惚けているのか、ついルディと呼びそうになってしまう。慌てて言い直したが気付かれただろうか。ちらりと様子を伺うが、フェルディアは気にしていないようであった。
カップにスープをよそうと、ロニアの前で片膝をついて差し出す。
「これくらい騎士見習い時代の野営演習に比べたら大したことはありません。あの時は水や食料も自分たちで調達しなければなりませんでした。泥水だろうが見ず知らずの野草だろうが魔物だろうが、とにかくなんでも口にしました」
「それは……大変でしたね」
「ですが、その時の経験が今になって活かされています。簡単なものですが、串焼きも用意しています。近くで狩った動物の肉と市場で買った野菜を焼いています。じきに焼けるので、それまでスープで身体を温めてお待ちください」
ロニアがカップを受け取ると、すぐにフェルディアは火に戻る。そうして自分が着ていた風除けのローブを脱いで地面に敷くと、「こちらへどうぞ」と手招きされる。
「火元の方が温かいです。この辺りの魔物は火を恐れる低級ばかり。急に茂みから現れたとしても、俺が貴方を守ります」
「それなら魔物除けの結界を張ります。そうすればフェルディアさんもゆっくり休めますから」
「心配には及びません。俺はこの通り、まだまだ元気が有り余っています」
フェルディアはわざとらしく腕を曲げて力こぶを見せるが、どことなく覇気が無いように感じられる。やはり徹夜明けでの長時間の御者は骨身に応えたのではなかろうか。
そんなことを考えつつカップに息を吹きかけながら口を付ける。野菜と肉の旨味が溶けたあっさりとした塩味が、ロニアの身体を芯から温めてくれたのだった。
「美味しいです……」
ロニアの口からほうっと息が漏れる。
フードを羽織って毛布も掛けていたものの、直接風に当たっていた身体はすっかり冷えていたらしい。フェルディアが毛布を用意してくれなかったら、底冷えして風邪を引いていた。神殿に到着して早々に風邪で寝込むことにならなくて良かった。
両手でカップを包むように持って冷えた掌を暖めていると、ふと串焼きの焼き加減を見ているフェルディアの後ろ姿が目に入る。ロニアと同じようにカップに口を付けながら、串焼きが焦げないように時々ひっくり返すフェルディアの姿を見ているうちに、徐々に子供の頃の思い出が蘇ってきたのだった。
集めた落ち葉と小枝に火をつけて、神殿の庭で収穫したての芋を焼いて食べた穏やかな日。
フェルディアが焼いてくれる芋は焼きすぎて焦げてしまったが、どれもホクホクで芋の甘味が染みていた。
舌を火傷しながら頬張った芋はこれまで食べたどの芋より美味しく、二人で芋を分け合ったのも懐かしい。
フェルディアは辛い味付けが好きで、野菜や肉には香辛料をやたらとかけてしまっていた。この時に焼いた芋にも香辛料をたくさん掛けていて、大人たちに怒られていた覚えがある。
勿論、ロニアには香辛料を振る前、必ず焦げていなくて大きい方を渡してくれた。本当は自分だって大きくて焦げていない方を食べたかっただろうに、ロニアが弟分だからと気を遣ってくれて――。
(あの頃に比べたら、火の扱い方が上手になった。器用で手際が良くて、自分より他人を優先しちゃうのは相変わらずだけど……成長したのは背格好だけじゃないのね)
幅広いの肩と頸にかかる黒い髪。肌は健康的な色をしており、黒い騎士服の上からでも鍛えられているのが一目で分かる身体付き。無駄な贅肉なんて一切ついていない引き締まった身体を見ていたはずが、無意識のうちに腕を伸ばしていた。
ロニアの手がフェルディアの髪に触れ、そして頭を撫でる。指先が耳たぶに当たった時、フェルディアがハッとしたように振り返ったので、それでロニアも我に返ったのだった。
「あっ……すっ、すみません。せめて癒やしの力で疲労を軽減できないかと思って……」
咄嗟についた言い訳だったが、フェルディアは瞬きを繰り返しただけであった。
じっと見つめられて照れ臭くなったロニアは慌てて下を向いたが、フェルディアは興奮気味に目を輝かせたのだった。
「神聖力にはそんな使い方があるんですね。初めて聞きました」
「一時的なものです。長期的にかけても効果はありませんが……」
そもそも落ちこぼれのロニアが疲労回復の癒やしの魔法を唱えてもわずかに疲れが軽減するだけ。全快までは時間がかかってしまう。
早く回復させようと焦るあまりロニアがもたついているからか、それなら他の聖女に頼んだ方が早いと教官役だった神官には匙を投げられてしまった。
確かに主席聖女のカリーンの癒やしの魔法はたちまち怪我を全快してしまい、他の聖女もカリーンの後に続くようにあっという間に治してしまう。聖女にとって怪我や病気の治療はかなり初歩的なことだというのに。そんなことさえまともにできないロニアはあまりにも情け無い。
「騎士団の中には治療で大神殿に行く者が多いですが、中には疲労の回復で通う者もいたんですね」
「そうですね。騎士団の皆さんは私たち聖女見習いの練習相手でもありました。私も何度か治療を請け負ったことがあります」
「聖女さまがですか!?」
「おかしなことでしょうか?」
フェルディアが大仰に驚いたので、何かおかしなことでも言っただろうかと思うと、フェルディアは首を振ったのだった。
「違います……その逆です。聖女さまが治療を担当されるのなら、俺も行けば良かったと思っただけです。貴方に手ずから治療していただける栄誉を賜われるとは……騎士として冥利に尽きます」
フェルディアが悔しそうに唇を噛み締める。ロニアが騎士たちの治療を担当した時、フェルディアの姿は現さなかったが、もしかすると怪我を負わなかったのではなく、怪我を我慢していたのかもしれない。フェルディアは昔から周囲に心配を掛けさせたくないからと、怪我や病気を我慢するところがあった。
それが原因で悪化したこともあるので、ロニアは見ていてハラハラしたものだ。もう少しフェルディアには自分を労るということをしてほしい。
ロニアはとうとう気になっていたことを尋ねたのだった。
「ところでずっと気になっていたのですが……フェルディアさんはどうしてそこまで私に尽くしてくれるのですか? 私なんかより優秀な聖女はたくさんいます。綺麗な人や貴族出身の聖女だって。そういう人と契約した方がフェルディアさんにとっても有益だと思いますが……」
貴族出身の聖女の守護騎士になれば、フェルディアは貴族として取り立ててもらえる。噂はどうであれ、すでに実力が証明されているフェルディアなら騎士爵くらいは与えられるだろう。金で爵位を買ったとしても、後見人になってもらえる。良いこと尽くしではなかろうか。
それに貴族階級なら調達から御者、調理まで一人でやらずとも使用人が全てやってくれる。フェルディアもロニアと同じように馬車で眠れたかもしれない。徹夜の身体に鞭打ってまで聖女に尽くす必要もなかっただろう。
そういうつもりで言ったが、フェルディアは首を振ってしまう。
「……他の聖女では意味が無い。俺が心から慕い、愛と忠誠を誓いたいと思っているのは、聖女・ロニア、貴方だけです」
「私にですか? だって私とあなたは……」
ただの幼馴染み。それも正体を隠して付き合っていた嘘つき。そう言葉が出そうになったので、ロニアはぐっと飲み込む。
フェルディアはロニアがかつて一緒に育ち、焼き立ての芋を分け合った家族ということを知らない。言ってしまえば、フェルディアは好意的に接したりはしないだろう。
ロニアが勝手に大神殿に入った意図を知りたいというのは分かる。ただ何を終わらせたいのかが理解できない。フェルディア自身が決着をつけたい何かがロニアにはある。けれどもロニアには心当たりが無い。
フェルディアとは兄妹同然の仲であり、名前を偽っていたこと以外は何も隠しごとをしなかった。本当のことを打ち明けられないもどかしさと後ろめたさはあったものの、そんなロニアでさえフェルディアは受け入れてくれた。本当のことを言えない分、それならせめてフェルディアの前では正直であろうとしたが、その中でフェルディアの気に障るようなことをしてしまったのだろうか。
「きっと貴方にとってはほんの些細なことでしょう。俺のことを覚えていないのも無理はありません。ですがそれなら俺だけが覚えていればいいだけです。俺が騎士を続けられているのだって、あの時に貴方が与えてくれたものが今もこの胸に根付いているからです」
とんっとフェルディアは自分の胸を叩く。
「あの時の恩を返したいとずっと願っていました。それが守護騎士という形で返せるのなら、俺は喜んで貴方に仕えます。そのためなら金も地位も必要ない。俺が持てるものは全て捧げ、足りないものは必ず手に入れます。奪い盗むことさえ厭わない。邪にも悪にもなってみせましょう。他ならぬ聖女・ロニア、貴方のために……」
「フェルディアさん……?」
「つまらない話を聞かせてしまいました。そろそろ串焼きも焼けたので、お召し上がりください」
串焼きを差し出されたロニアは「いただきます」と受け取る。まだ肉汁が音を立てる串焼きに息を吹きかけると、そっと口をつけたのだった。
「あれっ? 辛くない……?」
口の中に塩味と肉の味だけが広がる。試しに野菜を齧るが、やはり塩味と野菜そのものの味しか感じられない。
スープを飲んだ時も思ったが、辛いもの好きのフェルディアが作った料理ならある程度は辛いだろうと覚悟していただけに拍子抜けしてしまう。スープに関しては限られた食材で味付けしたのでこんなものだろうと思ったが、串焼きまでこうも薄味だとなんだか落ち着かない。まさか離れている間に味覚まで変わったのだろうか。
ロニアが首を傾げながら食べていたからか、フェルディアがどこか不安そうに顔を曇らせながら尋ねてくる。
「お口に合いませんでしたか?」
「いいえ。その……味付けがあっさりとした食材の味そのものだったので驚いてしまって……」
フェルディアは口をぽかんと開けたかと思うと、次いで赤い瞳を大きく見開く。
「聖女さまは濃い味付けが好みでしたか?」
「私ではなくフェルディアさんが、濃い味付けが好きだと思っていたので……」
「そうですが……俺の好みをご存知なんですね! 嬉しいな……聖女さまが俺のことを知っていたなんて……」
心の底から嬉しいのか表情が全体的に明るくなる。その姿がまるで意中の騎士が自分のことを覚えていたことにはしゃぐ恋する聖女見習いと瓜二つ同じで、ロニアは顔が引き攣ってしまうのを感じたのだった。
「……偶然です。なんとなく男の人は濃い味付けを好むような気がしたので」
目を輝かせるフェルディアを直視できず、ロニアはそれ以上ボロが出ないうちに話を切ると、串焼きを食べ進める。そんなロニアにフェルディアがどんどん串焼きとスープを進めてくるので鍋と串が空になる頃には満腹になっていたのだった。
「ご馳走様でした。とても美味しかったです」
「腹が満たされたようで良かったです。片付けは俺がしますので、聖女さまはもう少しお休みになられては……」
「今度こそ私も手伝います。相手にばかり頼むのは、私の性に合いません。それにフェルディアさんは食べ足りないのでは? ほとんど私が食べてしまいましたし……」
「心配には及びません。御者をしながら携帯用の保存食を齧ればいいですし、この調子なら夕方には村に立ち寄れます。そこでもう少し食料を調達しましょう。悪天候に見舞われて到着が遅れたら、何日か野営を強いられるかもしれません」
「そうですが……私が聖女だからといって何も気を遣わなくていいんです。二人でできることや分担できることは一緒にやった方が絶対に効率が良いです。私はこの通り貴族の令嬢からは程遠い貧相な平民出身の聖女です。大神殿に入る前は家族の手伝いで馬を引いたり、薪拾いや洗い物をしたり、汚れものの洗濯もしました」
「聖女さまもですか?」
「ええ。全ての聖女が宝物のように大切に育てられてきたわけではありませんから……どうぞ私のことは聖女として敬うのではなく、一人の人間として扱ってください。少しでもフェルディアさんの負担を減らしたいです」
フェルディアは少し迷っていたようだったが、「それなら……」と小声で話し出したのだった。
「俺が火の後始末をしている間、食器類の片付けをお願いできますか」
「勿論です。任せてください」
そうして二人で分担したからか、片付けはあっという間に終わってしまう。後は出発するだけという状態になり、ロニアが地面に敷いていたマントをフェルディアに返したところで、急に木に繋いでいた馬が嘶きだしたのだった。
「どうしたので……」
「聖女さま、下がってください……空気が変わりました。何かが来ます」
その瞬間、木々のざわめきが途絶えたかと思うと、緊張感に満ちた空気を切り裂くように奥から草を掻き分けて近付いてくる音が近付いてくる。ガサガサと辺りに響く音に怯えて後ろに下がったロニアを庇うように、フェルディアは腰に佩びた剣に手をかける。一撃に備えて、フェルディアが態勢を低くした時、木々の間から「助けてくれっ!」と男が悲鳴と共に姿を現わしたのだった。
「助けてくれっ! あっちで魔物が現れて、仲間が襲われているんだ!」
「仲間……旅人か?」
「旅の者だ。今は近くの村に頼まれて、遠出した村人を村まで送っているところだ。頼む、助けてくれっ!!」
「助けに行きますか?」
「そうですね……」
フェルディアが後ろのロニアに声を掛けたことで、男はようやくロニアの存在に気付いたようだった。男は目を見開くと、ロニアの足元まで駆け寄ろうとしてフェルディアに制止されたのだった。
「その格好、あんた聖女なんだろう! だったら助けてくれないか!? このままだと仲間だけじゃなくて村人まで魔物の餌食になってしまう!!」
「聖女ではありますが、でも私は……」
今にも泣き出してしまいそうな緊迫した男の様子にたじろいでしまう。ロニアの聖女のローブを見て縋りついてきたのだろうが、必死な形相をした男を前に独り立ちしたばかりで実践経験皆無の新米聖女だと言っていいものだろうか。
独り立ちした聖女はまず簡単な結界の張り直しや病人の治療から始めていくものだ。経験を積んで、そこから実際に魔物討伐の騎士たちのお手伝いをする。彼らを守護する結界を張り、怪我を負えばその場で治療を施す。聖女たちは大神殿での修行の過程で簡単な護身術を身につけるが、大規模な戦闘になると全く役に立たないので後方に下がって支援に回るしかなくなる。そんな聖女たちが安心して結界や治療を行えるように守護するのが、聖女が自ら任命する騎士――守護騎士の役割でもあった。
聖女であるロニアが男を助けたいと言ったら、守護騎士であるフェルディアは魔物たちの脅威から男とその仲間たちを助けようとするだろう。守護騎士にとって主人であるロニアの命令は絶対だから。だがここでロニアが断ったら、フェルディアは男を無視して先を急ごうと荷馬車を出す。腕に自信がある者や他の聖女と守護騎士が運良く通りかかれば助かるかもしれないが、誰も来なければこの男を含めて全員魔物の餌食となる。
ロニアが優秀な聖女なら、迷わず助けに行くだろう。自分で結界を張って、自分の身ぐらい自分で守れればロニアは治療と結界に集中できて、フェルディアも魔物に集中できる。
今の状態では、落ちこぼれのロニアが足を引っ張ってしまう。フェルディアはロニアを庇いつつ、魔物を相手にしなければならない。あまりにもフェルディアに負担が大きく、下手をしたらフェルディアが命を落とすかもしれない。そんな状況は嫌だ。
ロニアが迷っている間に遠くから魔物の咆哮が聞こえてくる。逃げ惑う男の仲間と村人を追いかけているのだろうか。助けるにしても助けないにしても、ここに居てはロニアたちまで魔物に襲われてしまう。
どうしたらいいのか迷っていると、男を放ったフェルディアがロニアの前に進み出る。そうして震えているロニアの手を取ると、手の甲に軽く口付けを落としたのだった。
「俺が必ず貴方の願いを叶えます。ですから、命じてください。俺は貴方の願いを叶える剣であり、貴方を守る盾。貴方の願いを阻むものなら必ず斬り捨てます。指一本、貴方に触れさせません」
「フェルディアさん……」
「俺は貴方に将来を誓った守護騎士です。貴方の笑顔を守るためなら、何だってできます。そのためならこの身でさえ惜しくない。どうぞ御心のままにご命令ください」
ロニアの手を握るフェルディアの手に力が込められる。フェルディアは本気でロニアの願いを叶えようとしている。ロニアが魔物を倒せと言えば、男たちを救って欲しいと頼めば、危険を顧みずに魔物に立ち向かっていくだろう。そんなフェルディアにロニアは何ができる?
かろうじて聖女を名乗れているだけの落ちこぼれが……。
(それでも……)
このまま助けを求めている人たちを放っておくことはできない。落ちこぼれだろうが落第生だろうが、大神殿を出て独り立ちした以上、ロニアは聖女だ。
聖女は人々を助け、国に尽くす存在。助けを求める人がいるのなら、聖女は助けなければならない。そこに優劣なんて関係ない。
誰かを助けられる力を持っているのなら、自分は助けたい。他の聖女より劣っていることを言い訳にしたくない……!
「……この人たちを助けてください。でも無茶はしないで。私もできる限りサポートをしますが、フェルディアさんが傷付くのが一番嫌です……」
「ご命令、しかと受け取りました。必ずや勝利を最愛なる聖女さまの手に……そこの男」
フェルディアが男に声を掛けると、すっかり腰を抜かしていた男は「ひいぃ!」と悲鳴を上げながら背筋を伸ばす。
「魔物のところに案内しろ。助けてやる」
「あっ、ありがとうございます……」
「勘違いするな。俺は聖女さまの命で戦うだけだ。感謝は聖女さまに言え」
「ありがとうございます、聖女さま。この恩は忘れません……!」
「い、いえ! まだ何もしていませんから!」
ロニアに向かって拝むように手を擦り合わせていた男の首根っこを掴むとフェルディアが立たせる。そうして先を駆け出した男の後を二人は追いかけたのだった。
◇◇◇
「こっちです!」
男の案内で行った先にはひっくり返った幌馬車と散らばった荷物が落ちており、馬車を引いていた馬は魔物に襲われたのかすでに息絶えていたのだった。
「魔物はどこに行った?」
「仲間を追いかけてあっちの方に……」
「こ、こっ、こっちに来るな〜!」
「あっちから声が聞こえます!」
叫喚が聞こえてきた方角をロニアが示すと、フェルディアは剣を抜く。
「聖女さまは後から来てください。先陣は俺が切ります。おい、そこの男。お前は近くの村に行って助けを呼んでこい。街道沿いに進めば、誰かに会えるかもしれん」
「ああ、分かった……」
フェルディアが駆け出したと同時にロニアも走り出す。フェルディアのスピードは速くてあっという間に置いていかれてしまったが、少し走っただけですぐに追いついた。フェルディアの黒い背中を見つけて声を掛けようとしたロニアだったが、フェルディアの視線の先を見て愕然としてしまう。
「この魔物の数はいったい……!?」
場所にも寄るが、王都周辺に生息する魔物は基本的に単体か数体で行動する。力が弱い個体は群れで行動するがせいぜい多くても数十体であり、騎士団の一部隊くらいの数しかいない。また力が弱い個体は騎士以外でも剣の腕に自信がある者なら、簡単に倒せてしまう。
しかしこの場に集まった魔物たちは弱い個体から強い個体まで、まるで操られているかのようにフェルディアを襲っている。その近くには先程の男の仲間と思しき、数人の男たちが闇雲にナイフを振り回しているが、全く効果が無さそうであった。
「聖女さま! ここは危険です! 男たちを連れて、さっきのところまで戻ってください……っ!」
「そんなっ! フェルディアさんを置いて逃げられません!」
「この魔物たちは変です。何も無い場所に、ここまで集まること自体おかしい。何かに誘導されて集まったかのようだ……っ!」
魔物たちを一刀両断しながらフェルディアが声を荒げる。
「俺が活路を開きます。聖女さまは男たちの元に向かってください! 男たちと共に離脱したタイミングで俺も離れます!」
「ですが、その間にフェルディアさんにもしものことがあったら……!」
「大丈夫です。これくらいはなんてことありません。むしろ盾にできるものがあるだけ騎士団よりずっとやりやすい」
フェルディアは斬り捨てた小動物のような魔物を掴むと、魔物の群れの中に放り投げる。そうして一部の魔物の目が逸れた隙に、数体を一振りでなぎ倒す。鮮やかな剣捌きにロニアは目を丸くして固まることしかできなかった。
「今です!」
フェルディアの声に背中を押されるように、ロニアは男たちに向かう。
その間にも魔物は鋭い牙や爪で襲いかかってきたので、立ち止まってしまえば恐怖で足が動かなくなりそうだった。ロニアは魔物を見ないように、足だけを動かし続け、そんなロニアを阻むように魔物が立ち塞がればフェルディアが切り捨ててくれた。
そんなロニアもフェルディアに向かって結界を張ろうと呪文を唱えるが、魔物が寄ってくる度に詠唱が中断されてしまうので全く掛けられずにいた。あまりの無能さに悔しさどころか嫌悪感さえ覚えてしまう。
そしてようやく男たちの元に辿り着いたロニアだったが、またしても驚愕してしまう。
「その傷は……魔物ですか……?」
「聖女様!? 皆、しっかりしろ! 聖女様が助けに来てくれたぞ!!」
奥まったところで固まっていた男たちだったが、各々手足や頭から血を流していた。一番怪我が軽そうな頭から血が流す男が介抱していたが、到底手が足りておらず、ロニアの姿を見つけると救いを求めるように近寄ってきたのだった。
「足を怪我した奴を庇っているうちに他の魔物に襲われてな。どうにか這う這うの体でここまで逃げたところで、あの黒い兄ちゃんが助けに来てくれたんだ。この辺りは魔物が少ないからって油断していた」
「そうでしたか……」
そう状況を説明してくれる間も、男の頭からも絶えず血が流れている。それでも男は不適な笑みを浮かべたまま、懇願するようにロニアを真っ直ぐ見つめてきたのだった。
「お嬢ちゃんは聖女かい。それなら酷い奴からまとめて手当てしてくれないか」
「まとめて、ですか……」
ロニアの背中に嫌な汗が流れる。
魔物との戦闘中に怪我をした騎士や魔物と遭遇してしまった王都民の怪我を治療したことはある。だがそれは怪我人一人に対してのみの治療。複数人を同時に治療したことは無い。大神殿では他の聖女や神官、聖女見習いたちと分担して治療に当たっていた。
「王都の大神殿から派遣された聖女はまとめて治療してくれた。あんただってできるだろう。聖女なんだからさ!」
「それは……」
一度に複数人を治療できるのは神聖力が強い聖女ぐらいで、神聖力が弱いロニアには難しい。しかし男の言う通り、ここで長く時間を掛けた分だけ今度はロニアやフェルディアまで危険が及んでしまう。
いくらフェルディアが「騎士団の狂犬」と呼ばれている実力者だとしても、こんな大量の魔物を前にしていつまでも持ち堪えられるとは思えない。ロニアがもたついた分だけ、ロニアたちを守るフェルディアにも危険が及ぶだろう。
ここは一か八かの賭けに出てみるべきである。
「やってみます……」
すうっと大きく息を吸うと、ロニアは両腕を前に出して口を開く。
「聖女・ロニアが願う。万人に女神の加護を分け与え、全ての傷を癒さん」
ロニアの掌から白い光が生まれ、足元には同じ色の魔法陣が展開する。ロニアを中心に展開された円陣は男たちを全員包むように広がると白い粒子状を上空に向けて放ち出す。雪のように白く細かいこの光が癒しの力であった。
「おおっ……!」
男たちは感嘆の声を漏らすが、一方のロニアは相手にしている暇は無かった。
(神聖力だけが削られていく……。どうしよう、このままだと神聖力を根こそぎ持っていかれちゃう……)
それぞれ聖女の体内には神聖力を溜める杯があると考えられている。力を使った分だけ杯からは神聖力が減り、また時間の経過と共に神聖力が満たされる。大きい力を使えば使うほど神聖力の消費が激しく、そして満杯になるまで時間が掛かる。
杯の大きさは聖女によるが、強い力を持っている聖女ほど杯は大きく、反対に力が弱い聖女の器は小さい。ロニアは圧倒的に後者であった。
全体的回復という技は神聖力の消費が大きい。それ故に力が強い聖女にしか使えない術とされており、ロニアのように神聖力が弱い者が使おうとすると傷の回復より先に神聖力が減ってしまうとされていた。
(せめてここから逃げ出せるくらいの傷を回復して。お願い……!)
男たちの傷は徐々に回復しているが、完治より先にロニアの神聖力が全て消費されてしまう。神聖力は聖女の魂と深く結びついているため、神聖力が完全に無くなってしまえばロニアは動くことはおろか立ち上がることさえ難しくなる。
そうなったら誰かに抱えてもらわなければならなくなるが、フェルディアに魔物の相手と男たちの脱出に加えて、ロニアの面倒まで頼むのは負担が大きすぎる。自分のことは自分でどうにかしなくては。
そんなことを考えているうちに魔法陣の輝きが薄れていた。光の粒子も減っており、怪我の治りも遅くなってきた。対して、ロニアの神聖力はどんどん減り続けている。
そうしてロニアの体内にわずかな神聖力を残して魔法陣が完全に消えた時には、ロニアは息も絶え絶えに膝をついていた。癒しの力が途切れたからか、塞がりかけの傷を前に男たちも戸惑っており、不思議そうに顔を見合わせていたのだった。
「少しは……回復……しましたか……?」
「ええ、まあ……」
「いつまでもここに居ては危険です……あそこで戦っている騎士が倒れる前に……ここから離れて……ください……」
「聖女様は……? 真っ青な顔をしているが……」
「私は後から追いかけます……自分の騎士を置いていくことなんて……できませんから……」
さあ早くとロニアが急かせば男たちは渋々立ち上がる。比較的軽症の者が重症者を肩に担ぎ、ロニアの癒しの力で傷が塞がりかけの者は自力で歩き出す。最後に低級魔物を近寄らせないように男たちに簡単な結界魔法をかけると、ようやくロニアは立ち上がる。男たちの後を追いかけていると、視界の隅で「聖女さまっ!」と叫びながら駆け寄ってくるフェルディアの姿を捉えたのだった。
「男たちは!?」
「先に逃げました。後は私たちだけ……です……」
今にも倒れそうな状態を悟られたくなくて口角を上げて笑みを形作ろうとする。そんなロニアの意図をどう汲んだのかは知らないが、フェルディアは表情を引き締めると魔物たちに頭を向けたのだった。
「承知しました。それにしてもキリがありません。次から次へと魔物が現れます。この辺りは王都で張っている魔物の避けの結界内のはずですが……」
「王都の外れと地方の境目には結界の綻び……要は隙間があります。地方の結界がしっかり張られていれば問題ありませんが、私たちが向かっているニールノマンド地方は聖女が不足している地域ですから……」
ガイスト王国の王都を始めとする主要な都市部にはそれぞれ神殿長が管理する大結界が張られている。その大結界の中にいる限り魔物は寄って来ないが、大結界の外れに行けば行くほどに結界の力は弱くなり、魔物が入りやすくなってしまう。そうした場所から入り込んでしまった魔物の討伐を担うのも、聖女と騎士の役目であった。
騎士たちが結界内に侵入した魔物を倒している間、聖女たちはそれ以上の魔物が入ってこないように結界を強化する。神殿長が張った大結界を軸として聖女が結界を重ね掛けすることで、少しでも大結界同士の境目にできてしまう綻びを最小限まで抑えられるのだった。
けれどもロニアたちが向かっているニールノマンド地方は王都や都市部から最も離れている立地上、魔物の出現率が国内随一であり、それでありながらも派遣される聖女の数が最も少ない地域とされている。
つい数年前までは隣国といつ争いが起こってもおかしくない緊張状態だったことから、自ら志願して結界を張りに行くような聖女もおらず、代わりに行かされるのは貴族の後ろ盾が無い孤児や平民、またはどこの神殿にも受け入れられなかった問題児ばかり。どちらにも当てはまるロニアが言うのもおかしいが、厄介者の聖女を当てがうには丁度良い辺境なのだろう。
そんな者たちが張る結界が神殿長の結界と相性が良いはずもなく、大結界同士の綻びはほとんど埋まらない。そのため今回のように大結界が弱い地域内で生じた綻びから、大量の魔物の侵入を許してしまうことになるのだった。
「そんな危険な場所にこれから聖女さまが着任されるのですか……なんと許しがたい……! 昨日知っていれば、神官共をこの手で切り刻んでやったというのに……っ!」
奥歯をギリッと噛むフェルディアではあったが、そうしている間も剣を振る手を止めなかった。それどころかさっきよりも勢いが増しているようであった。ロニアの話がフェルディアの怒りを増幅させてしまったのかもしれない。
こうなると八つ当たり気味にバッサリ斬られる魔物が少し可哀想な気さえしてくる。
「そんなことをしたらフェルディアさんが罰されますから……それより早くここから脱出しましょう。フェルディアさんもこちらへ……」
突然、フェルディアがロニアに向き直ったかと思うと、ロニアの真横をフェルディアの剣が通り過ぎる。風圧でロニアの髪が宙を舞い、そして耳をつんざくような悲鳴がすぐ近くから聞こえてきたのでギョッとして飛び上がってしまったのだった。
「失礼いたします」
フェルディアに肩を引き寄せられて数歩後退するが、その間もフェルディアはロニアに近寄ってくる魔物たちを追い払っていた。先程までロニアが立っていた場所には熊のような大きな牙を持った大型の魔物が血を流して倒れていたのだった。
「ひっ!」
ロニアは反射的に悲鳴を上げて、フェルディアに縋りついてしまったが、そんなフェルディアは安心させるようにロニアの顔を覗き込みながらそっと微笑んだだけであった。
「お任せください。退路を確保します」
言うや否やフェルディアは片手でロニアを抱いたまま剣を大きく振ると風圧で小さな魔物を遠くへ弾き飛ばす。それ以外の魔物を剣で払うと、どうにか人一人が通れる道ができる。
「これならっ……!」
「しまっ……聖女・ロニアが命ずる。女神より授かりし力を分け与え、我が騎士を守護する盾とならん」
フェルディアの隙をついて背後から飛び掛かろうとした魔物をロニアが結界を張って防ぐ。
やはり本調子では無いからか結界はすぐに消えてしまったが、フェルディアにはそれで充分だったらしい。体勢を立て直すと魔物が怯んだ一瞬の隙をついて、剣先を突き立てたのだった。
「ありがとうございます! さあ、俺の手を掴んでくださ……」
「そんなことをしたらフェルディアさんが本気で戦えません! 私は一人で大丈夫です……」
「ですが……いえ、承知しました。その代わりにすぐ後ろをついてきてください。少しの辛抱です」
駆け出したフェルディアに続いてロニアもありったけの力を込めて足を動かす。本当はもう走るのも限界で、さっきのフェルディアの手を取りたいくらいであった。けれどもここでロニアがフェルディアを頼ってしまえば、それだけフェルディアが無防備を晒してしまうことになる。
秘密を知られるのは怖いが、フェルディアを危険な目に合わせるのはもっと嫌。手違いがあったとはいえ、守護騎士に任命してしまった以上、二人揃って目的地に到着したい。
そんなことを考えていたからか、どんどんフェルディアから遠ざかってしまう。フェルディアがロニアの歩幅に合わせてくれているというのに、肝心のロニアがこれでは意味が無い。息は荒く、身体もふらつくが、倒れるのはここを脱出してからでも良い。フェルディアの黒い背を目印にロニアはローブの裾を持ち上げて後を追い掛ける。
「きゃあ!」
フェルディアに追いつきかけたロニアだったが、すんでのところで足がもつれて倒れてしまう。
「聖女さまっ!」
「大丈夫……」
地面に手をついてすぐに身体を起こしたものの、その後ろでは先程フェルディアが倒した熊に似た魔物が大きな口を開けて咆哮を上げていた。
「ぃや……っ」
腰が抜けて足に力が入らない。鼓動が脈打つ激しい音がロニアの耳に入り、その瞬間、自分の息遣い以外が何も聞こえなくなる。
結界を張らなければと思っても喉が張り付いてしまったのか言葉が出てこない。できることと言えば、歯を食いしばって迫りくる鋭利な牙から目を逸らすことだけ。
覚悟を決めて両目を瞑った瞬間、頭上から風を切る音に続いて悶絶するような激しい号哭が聞こえくる。おそるおそる目を開けると、ロニアと魔物の間には鋭い牙が刺さった右腕から血を流すフェルディアが怒りの形相で立っており、そんな魔物の頭にはフェルディアの剣が刺さっていたのだった。
(えっ……)
魔物は血を拭き出しながら土煙を上げて後ろに倒れてしばらく痙攣していたもののすぐにピクリとも動かなくなる。フェルディアは血が溢れ出す右腕を押さえながら魔物から剣を引き抜くと、剣を力任せに振って刀身についた血を地面に落としたのだった。
「フェル……」
「ご無事ですか……聖女さま……?」
その場でよろけたフェルディアは剣を地面に突き立ててどうにか転倒を免れる。しかし先程から顔は青く、額からはおびただしい量の汗が噴き出していた。
ロニアを庇って魔物に襲われたのは明らかである。
「どうして……」
「言ったはずです。必ず貴方を守ると……うっ!?」
地面に膝をついていたフェルディアの背中をウサギほどの大きさをした小さな魔物が襲い掛かる。先程の魔物に比べたら大したことのない力だが、重傷のフェルディアには耐えられない。ロニアは近くに落ちていた石を闇雲に投げて追い払うと、すぐにフェルディアに向き直る。
「待っていてください。すぐに回復の魔法をっ!」
両手を前に伸ばしたロニアではあったが、魔物に襲われかけた衝撃と自分を庇ったフェルディアが大怪我を負ったことにショックを隠し切れない。動揺が大きいからか頭の中が真っ白になってしまい、癒しの呪文が浮かんでこなかった。
(早く回復させないと! 早く、早く……!)
ロニアは自分を急き立てて呪文を思い出そうとするが、そうしている間に癒しの呪文どころか他の呪文さえ思い出せなくなる。どうしてという気持ちがますますロニアを焦らせ、ますますロニアをパニック状態に陥らせてしまう。とうとう泣きながら魚のように口をパクパク開閉させているロニアに、またしても衝撃が襲う。片腕から血を流すフェルディアが「良かった……」と安堵の息を吐きながらロニアを抱き締めたのだった。
「貴方が……無事で……本当に……良かった。俺のことは良いので……逃げて……くださっ……」
「これの何が良かったんですか!? フェルディアさんがボロボロになっただけじゃないですか!? 待ってください。すぐに怪我を癒しますから……」
「俺のことは放ってください……何よりも大切な貴方を守れた……今度こそ……もうそれだけで俺は……」
「フェルディアさん!? いやっ……しっかりしてっ……! ルディ!!」
そのまま力が抜けて地面に倒れてしまったフェルディアをロニアは抱き留める。真新しい白いローブがフェルディアの血の色に染まろうと構わなかった。ただ目の前で大切な人が息も絶え絶えの歩くことさえままならない瀕死の状態になっている。
このままではフェルディアは助からない。ロニアが傷を癒さなければ、フェルディアの命は無い。けれどもロニアは一向に癒しの呪文を思い出せずにいた。
聖女でありながら、家族同然の大切なフェルディアでさえ救うことができない。せいぜい「ルディ……」と呼んで、泣くことだけ。
こんな不甲斐ないことがあっていいものだろうか。聖女とは全ての民に癒しと救いを与える存在。今のロニアに聖女を名乗る資格はあるのか。
(ルディを死なせたくない。でもさっきから頭の中がぐちゃぐちゃで呪文が出てこない。早く助けないといけないのに……もし私に力があったのなら、それこそ女神様のように力があったのなら、呪文が分からなくても助けることができるかもしれないのに……)
無いものをねだっても仕方がない。どうにかしてフェルディアを助ける方法を考えなくては。ロニアは辺りを見渡しながら声を張り上げる。
「誰か! 誰か助けて! ルディを……私の騎士を助けて! ねぇ、誰か! 助けて! お願い! ルディを助けてっ! ルディを……!」
その時、繁みが不自然に音を立てて揺れたので、ロニアはまたしても魔物が現れるのかと覚悟する。今度こそフェルディアを守るために自分が盾になろうと決めるが、現れたのは一人の若い騎士であった。
「無事ですか!?」
「貴方は……?」
「大神殿に所属する守護騎士です。この近くで魔物が大量発生しており、聖女と守護騎士が戦っていると聞いて援護しにきました」
ロニアに軽く一礼してすぐに残った魔物と対峙した守護騎士に続いて、ロニアと同じ聖女のローブに身を包んだ若い聖女が姿を見せる。桃色の髪を頭の上でまとめた聖女はロニアたちを見つけると、早足で近寄ってきたのだった。
「もう大丈夫ですわ。さぁ、彼の怪我を診ましょう」
「貴女も聖女ですか?」
「そうですわ。担当する地域の治療院を回っていたところ、男性に声を掛けられましたの。人手がいると聞いて助けにきました」
ロニアたちより少し年上と思しき聖女は癒しの呪文を唱えると、あっという間にフェルディアの腕の傷を癒していく。荒い息を繰り返していたフェルディアも次第に落ち着いていき、やがて「ありがとうございます」と小さく呟いて立ち上がったのだった。
「よろしいのですか?」
「はい。聖女さまをお願いできますか。俺も戦います」
それだけ言うと、フェルディアはロニアを見向きもしないで騎士と合流して魔物を討伐していく。先程までの怪我をものともせずに縦横無尽に剣を振るうフェルディアを見ているうちに、ロニアの目から涙が溢れ出す。
フェルディアは命がけでロニアのために戦ってくれているのに、ロニアは守られてばかりで聖女としての務めさえ果たせていない。
今も聖女たちが助けてくれなかったら、フェルディアと共に魔物の餌食になっていただろう。あまりにも不甲斐ない。悔しさで涙が止まらなくなる。
やがてフェルディアたちによって魔物が全て倒され、先に逃げ出した人たちの怪我を聖女が治療したが、ロニアは終始その場に立ち尽くしただけであった。
◇◇◇
その日の夜、怪我をした男たちを村まで送り届けたロニアたちは村人からの感謝を伝えると共に村人を救ってくれた聖女と騎士の歓迎の席を設けられた。
ロニアと助けに来てくれた聖女はどちらも断ったが、魔物の討伐と怪我人の治療で時間が掛かってしまったこともあって、時間がすっかり遅くなってしまったことを理由に引き留められ、こうして宴席を開かれたのだった。
怪我をしていたフェルディアは療養を理由に軽く飲食しただけですぐに間借りした宿に戻ってしまい、感謝を伝える村人たちに居たたまれなくなったロニアも途中で外に出てきたところであった。
しばらく外を散歩して宴席に戻ってきたものの、村人たちからの歓迎と感謝の酒宴はまだ続いており、今回の立役者である聖女と騎士は未だ村人たちに囲まれているようだった。
「あれ。そっちの聖女様はもういいのかい?」
「ええ。私もそろそろ部屋に戻ります。食事をありがとうございました」
ロニアが頭を下げると、声を掛けてきた中年の女性は気にしなくていいからと手を振った。結局ロニアは何も出来ずに呆然としていただけだったが、何も知らない村人たちはロニアも聖女と一緒に魔物から村人を守った英雄ということになっているらしい。
後から駆け付けた聖女たちは真実を話す気がないどころか、ロニアが今朝大神殿から巣立ったばかりの新米聖女だと知ると、聖女になって早々に大変な現場に遭遇してしまったと同情までしてくれた。共に魔物の討伐と村人たちを救ったとして、村人たちに紹介までしてくれたのだった。
「それで飲み物を分けていただいてもいいでしょうか。私の騎士に届けたいのです」
「遠慮なんてしなくていいよ。好きなだけ持っていきな」
「ありがとうございます」
ロニアは果実酒の瓶とコップを貰うと部屋に戻る。フェルディアの部屋はロニアが借りた部屋の隣だった。同じ部屋でも良いとロニアは言ったが、フェルディアがどうしてもロニアと同室は無理だと言ったことで別室となった。顔を赤くして慌てたフェルディア曰く、「聖女さまの着替えや寝顔を見てしまうのは騎士としてあるまじきことですっ!」という理由らしい。
フェルディアの部屋の前で立ち止まってロニアは息を大きく吸うと扉を叩く。
「フェルディアさん、私です。飲み物を持ってきたので入ってもいいでしょうか?」
「せっ、聖女さま!? えっ……だ……いや、今はその……いてっ!」
「フェルディアさん!?」
扉越しにバタッという床に落ちる音が聞こえた後、小さく呻くフェルディアの声が聞こえてくる。昼間の怪我が悪化したのかとロニアが勢いよく扉を開くと、上半身を脱いだフェルディアが右足の甲を押さえて跳ねていたのだった。
「フェルディア……さん……?」
「ああ……すみません。着替えていたのですが、服を掛けていた椅子が倒れて足の上に落ちてきたところで……。お見苦しいところをお見せしました」
「すみません。タイミングが悪い時に声を掛けてしまって……足の具合はどうですか。冷やしましょうか?」
「それには及びません。飲み物をお持ちいただきありがとうございます。そこのテーブルに置いてくれませんか」
言われた通りにテーブルの上に果実酒の瓶とコップを置いたロニアだったが、その時にふとフェルディアの右腕が目に入る。
「その傷は昼間の……」
「そうです。どうやら戦っている間にまた開いてしまったようで……」
昼間、ロニアを庇って魔物の傷を受けたフェルディアだったが、怪我は聖女の癒しの力である程度治ったはず。その後、無理を押して戦ったことで、元の状態に戻ってしまったのだろうか。
肩を落としたロニアは「ごめんなさい」と声を震わせる。
「私が男の人たちを助けてほしいって言ったから、フェルディアさんが怪我を負うことになってしまって……」
「謝らないでください。謝らなければならないのは俺の方です。貴方を守ると言いながら、危険に晒してしまいました。恐ろしい思いをさせて申し訳ございません」
「何を言っているんですか! フェルディアさんは魔物と戦ってくれたじゃないですか。私は怖くて何もできなくて、フェルディアさんに助けてもらえなかったら、今頃は魔物たちに喰われていたかもしれません……」
ローブの裾を握って涙を堪えようとする。口を開いたら嗚咽が漏れそうで唇を固く結んでいたが、そんなロニアの元にフェルディアが歩み寄る。
「貴方の笑顔を守ると誓いながら、今の俺は貴方にそんな顔をさせている。これでは騎士失格です。貴方を困らせるつもりは無かったというのに……」
「私は自分の騎士を傷付けたり、困らせたりしたくありません。私が自分の騎士に求めているのは自分自身を大切にしてくれることです。私の身よりもまずは騎士自身が自分を大切にしてほしい! だって誰にも傷付いてほしくないから……一緒に居てくれるだけでいいから……」
涙声で訴えながら、ロニアは手の甲で乱暴に溢れる涙を拭う。止めどなく流れる涙を繰り返し拭いていると、フェルディアが抱き締めてくれたのだった。
「聖女さまの気持ちを聞けて嬉しいです。これからは聖女さまの言葉をもっと聞くようにします。独りよがりな俺を叱ってください」
「できません……フェルディアさんは誰よりも周りを見てくれているから。自分のことより周りを優先してしまうフェルディアさんこそ、何もできない無力な私を怒ってください」
「それはできません。貴方は何もできないといいますが、貴方のおかげで救われた人たちがいます。森で怪我をしていた男や俺だってそうです」
「フェルディアさんもですか?」
「男たちを逃がして隙が生まれた俺に結界をかけてくれましたよね。それより前にも俺は貴方に救われました。もう数年前のことです。見習いから騎士に成り立ての頃に演習先で突然魔物が現れて、命からがら大神殿に戻ってきた俺たちの部隊を聖女見習いたちが治療してくださいました」
「ああ。あの時の……」
ロニアの中で記憶が蘇る。それはロニアが一回目の最終試験に落ちた次の年のことだった。
その年は各地で大結界が弱まっており、大神殿は各地の神殿から入る救援要請が絶えず、人手不足に陥っていた。主だった神官や聖女たちが各地に派遣されて不在だったその日に限って、騎士団が演習先で魔物と遭遇してしまい、予想外の強さに多数の死傷者が出てしまったのだった。
怪我人を連れて這う這うの体で大神殿に帰還した騎士たちだったが、大神殿に残っていた聖女や神官たちでは到底治療が追い付かなかった。そこで軽症者の治療を修行中の聖女見習いたちにやらせるように騎士団長から要請が入ったのだった。
ロニアたち聖女見習いたちは軽症者が控える大神殿の広間に案内されたが、額や手足から大量の出血をした者が床に直接寝かされている姿を前にして怖気づいて逃げ出した者や泣き出した者もいた。それでも優等生の聖女見習いたちを筆頭に治療を行い、どうにかして怪我人を癒していった。
そんな中で唯一誰からも治療を受けずに最後まで放っておかれた騎士がいた。それが当時から「騎士団の狂犬」として恐れられていたフェルディアであった。
「他の騎士からなんて呼ばれて、そして聖女や神官たちから恐れられているのか知っています。ですから治療を拒まれても仕方がないと諦めていました。その時もしばらく待っていましたが誰も近寄ってこなかったので自分で手当てをしようと部屋を出た直後でした。貴方に声を掛けられたのは」
「あの時は私もその……目の前の怪我人で手が一杯でフェルディアさんの噂を気に掛けている余裕なんてなくて……とにかく必死だったんです」
忘れたい失態の一つとして、すっかり記憶に蓋をしていた。フェルディアがロニアを探して騎士団に入ったと知って徹底的に避けていたものの、この時ばかりは緊急事態だったこともあって関わらざるを得なかった。ロニア自身も初めての実戦で慣れない治療に悪戦苦闘していると、怪我を負っていながらふらりと広間を出て行こうとした騎士がいたので、つい後を追い掛けてしまった。
頭から血を流し、足も怪我をしているのか片足を引き摺るような歩き方をしており、今とは違って他の騎士と同じ騎士団から支給される騎士服だったので、遠目からは誰か分からず、ただとにかくそのままにしておけないからと、考えるより先に呼び止めてしまったのだった。
声を掛けてから相手があのフェルディアだったことに気付いて、ロニアは心底後悔したくらいであった。
「ええ、分かっています。貴女はそういう方です。きっと怪我をした俺を放っておけなくて声を掛けてくれたのでしょう。あの時の聖女見習いたちは初めての実戦で誰もが緊張していました。怖くて泣き出した者や出て行ってしまった者がいる中で、貴方も辛いのを必死に堪えているような様子で騎士たちの治療に当たってくださいました。幾人も治療して疲れているところ、無理を押し通して私の傷まで癒してくれて……今でも深く感謝をしております」
フェルディアが深く頭を下げる。言われて思い返せば、あの時のフェルディアはここまで物腰丁寧では無かった。治療をしなくていいと拒絶され、一人でも多く他の騎士を救えと眼光鋭いガーネットのような赤い瞳で威圧もされたのだった。
その時にはロニアも相手がこれまで避けてきたフェルディアだと気付いていたので、言われた通りに戻ろうか悩んでしまった。それでもやはりそのままにしておけなくて、ロニアはフェルディアの腕を掴んで通路の片隅で治療を始めたのだった。
「その時に貴方が言われた言葉は今でも覚えています。『怪我人を前に身分も人柄も関係ない。困っている人がいるのなら助ける。それが聖女の務めだから』と……」
「そんなこと言いましたっけ……?」
「覚えていないのも無理はありません。でもその時に思ったのです。この聖女見習いは――貴方は将来素晴らしい聖女になると。そんな聖女に仕えられたのならどんなに幸せなことか夢想したものです」
大神殿で普段騎士団の治療を請け負っている聖女や神官たちの大半は貴族の出身であり、ロニアやフェルディアのように平民階級や孤児をどこか蔑んでいるところがあった。大神殿には時に重い病や重度の怪我を負って治療のために運ばれてくる国民がいるが、そういった国民たちを貴族出身の神官や聖女たちは見下している。自分たちが国民から崇拝される聖職者にして貴族階級であることを利用して、相手が逆らえないことを良いことに高圧的な態度を取り、必要以上に金を払わせようとするのだった。
怪我人や病人たちは背に腹は代えられないからと借金までして金を積み、余分な金は治療に当たった神官や聖女たちの懐に入る。そして神殿長と神官長には正規の値段で治療したと虚偽の報告をするのだった。そんな腐敗した大神殿にやり方にロニアは辟易しており、自分だけでも大神殿で語り継がれる曇りなき聖女になろうと反面教師にしたものであった。
「ほとんどの聖女たちが身分や容姿、はたまた親からの命令で騎士を決めてしまう中、騎士の人柄を見てくださる聖女はそうそういません。それから貴方のことを知って、そして最終試験で合格したと聞いた時、守護騎士の打診が来ないかと密かに期待をしてしまったものです。打診はありませんでしたが、それならせめて貴方が聖女として旅立つ姿をこの目に焼き付けようと儀式への参加を申し出てしまいました」
「それで今年は儀式に参加したんですね。毎年不参加だと聞いていたのに、今年はどうして参加したのかと聖女たちも不思議に思っていました」
「やはりそうでしたか。どうも儀式のような堅苦しい行事というのは苦手で、いつも騎士団長に相談して参加者から外してもらったのです。これまでも儀式の日は警備や巡回などを割り当ててもらいました」
なんてことのないように笑うフェルディアにロニアは不思議と胸の中が熱くなっていくのを感じる。フェルディアの傷の手当てをした時は、まだ自分が落ちこぼれだと思っていなかった。努力次第で自分は何だってできると信じていた無鉄砲な時期であった。
聖女として独り立ちできるか見極める最終試験に落ちる者は毎年少なからず存在する。だいたいは二回目の試験、遅くても三回目の時には合格して大神殿を出て行ってしまう。試験を四回も受けたロニアが異常なだけである。流石に三回目の試験に落ちた時は、ロニアが如何に無能であるか自覚せざるを得ず、そこからすっかり聖女としての自信を失ってしまったが……。
「じゃあ私のためだけに……守護騎士に選びもしなかった私なんかのために昨日の儀式に参加されたのですか?」
「私なんか、と言わないでください。俺にとっては貴方だけが聖女です。まごうことなき、貴方こそ真の聖女さまです」
ロニアの銀色の頭をフェルディアの大きな手が撫でる。昔、まだ「タスロ」と名乗っていた頃も、フェルディアは褒める時に必ず頭を撫でてくれた。それが嬉しくてロニアはフェルディアを慕い、後をついて一緒に過ごすようになった。
立場こそ正反対になったが、今も同じと言えるかもしれない。ロニアの後をフェルディアがついてきて、フェルディアがロニアを慕う。幸せだった幼少期の思い出が泡のように浮かんでくる。
「それに参加して良かったと思っています。人為的なのか、作為的なのかは分かりませんが、こうして貴方の守護騎士に選ばれました。この上ない幸福です。もしこの偶然が貴方以外で起こっていたのなら、間違いなく守護騎士の命令を断っていました」
「でもフェルディアさんは目的があって騎士団に入ったのですよね。それなのに良いんですか。私の守護騎士を引き受けてしまって……」
「俺には騎士団でというより、大神殿でやるべきことがあります。けれどもそれは守護騎士として務めを果たしてからでも遅くは無いのです。今は他らぬ聖女・ロニアのために力を尽くしたい。もし協力していただけるというのなら、非常に助かりますが……」
「ご家族を探して騎士になられたのですよね。その……家族に会ったらどうするつもりなんですか? 返答次第では協力できるかもしれま……せん……」
もしロニアを探している理由がどちらかの命に関わることなら、ロニアは断ってしまうだろう。ロニアを殺したい、フェルディアを殺してほしいという頼みなら、ロニアは受け入れられない。死ぬのは怖いし、フェルディアが死ぬのはもっと嫌だから。
けれどもそれ以外、たとえば過去に犯したロニアの失態を咎めたいや謝罪を要求したいと言われたら、ロニアは迷いなく平身低頭して懺悔するだろう。そうしてフェルディアとは縁を切る。どんなにフェルディアが想いを寄せているとしてもロニアは断り続け、一人の聖女と一人の守護騎士として生き続けるだろう。それが長年フェルディアを苦しめたことに対するロニアなりのけじめである。
けれどもフェルディアが語ったのは、ロニアも想像していなかった意外な言葉であった。
「家族に……謝りたいのです……」
「謝罪、ですか? フェルディアさんが?」
「昔の俺は向こう見ずで、家族を……弟を守っているつもりが、連れ回していたみたいで、それに気付かなかったのです。それである時、弟に捨てられてしまって。俺が外出している間に弟は大神殿に入ってしまって、それ以来一度も会っていません」
「それは……っ!」
違うという言葉が喉まで出かかって、ロニアはぐっと飲み込む。大神殿に入ったのは聖女になるため。元々予定されていたことだった。真実を話せなかったフェルディアには急なことに思えたが、ロニアにはこうなることが分かっていた。別れを告げられなかったことが心残りではあるが、決してフェルディアに愛想を尽かして離れたわけではない。
「弟は俺のことを憎んでいるかもしれない。恨んでいるかもしれない。兄として守ってやると言いながら、何もしてやれなかった。弟の気持ちに気付いてやれなくて、本当は俺のことを嫌っていたかもしれないのに分かっていなかったのです。どうしたらいいのか悩んでいる間に、今度は育ての親だった聖女と守護騎士も引退して田舎で細々と暮らすことになったので、弟を探して王都にやってきました。神聖力を持たない俺は神官にはなれないので、それなら少しでも近くに居られる騎士になろうと決心して騎士団に入団しました」
聖女と違って神官には守護騎士はいないが、大神殿に願い出れば専属の護衛騎士を持てる。地方に出向く時には神官の護衛として同伴を求めるという者だった。高位の神官になればなるほど遠出が増えるので、専属の護衛騎士を持つ者が多い。護衛騎士と守護騎士は兼任できなくないが、基本的に守護騎士の方が聖女の身辺の警護や世話で多忙を極めるので、どちらか片方に従事する者が大半である。守護騎士の申し出をした際に、護衛騎士を理由に断られることも多い。
「これまで何度も大神殿に問い合わせをしました。『タスロ』という名前の神官はいないか。いたら会わせてほしいと。けれども答えは毎回同じ。そんな名前の神官は存在していない、と。大神殿に入ったはずの弟は跡形も無く消えてしまったのです」
「そうだったのですね……」
「騎士団に所属する一介の騎士では問い合わせることしかできない。『タスロ』という名前の神官がいつ大神殿にやってきて、そしてどこに消えてしまったのか知りたい。そのためには守護騎士でいるのが都合良いのです。聖女さままで巻き込んで心苦しいのですが……」
「私のことは気にしないでください。弟さん見つかるといいですね……」
「貴方はどこか弟に似ています。星のように輝く銀色の髪も、夜中のように煌めく紫色の瞳も。表情がくるくる変わるところでさえも。涙交じりに『ルディ』と呼ばれた時に、貴方の姿が弟と重なってしまいました」
フェルディアに頬を触られてロニアは心臓が口から出そうになる。タスロだと疑われていることだけじゃない。これまで兄のように敬愛していたフェルディアを、急に異性として意識してしまったからだろう。子供時代を含めてフェルディアのことはなんでも知っているはずなのに、今のフェルディアは知らない異性にしか思えない。
今のフェルディアはロニアの知る、どのフェルディアとも違う。
「貴方に泣かれてしまうと俺はどうしたらいいのか分からなくなってしまう。弟と暮らしていた時のように俺に任せろと言っていいのか、それともただ涙を拭うだけに留めた方がいいのか。何も知らなかった子供の時と違って、今は自分の限界を知っています。無責任なことは言えません。貴方の期待に答えられ無かったらと考えてしまい、足が竦んでしまいます。失敗したらますます貴方の涙が止まらなくなると気付いて……剣を持てなくなります」
「そんなことは……」
「弟に捨てられたあの時から強くなった気でいました。けれども今日の魔物との戦闘で思い上がりだったと気付いたのです。貴方の願いを叶えられず、今もこうして心配をかけている。もっと強くならなくてはなりません。今度こそ貴方を守れるように」
固く拳を握り締めたフェルディアの手を包むように、ロニアはそっと自分の手を重ねる。ハッとしたように顔を上げたフェルディアにロニアは「私も……」と口を開いたのだった。
「私も今日の戦いで気付きました。私は聖女でありながら自らの務めを果たせられませんでした。フェルディアさんや助けに来てくれた聖女たちに任せてばかりで、癒しの呪文でさえ満足に唱えられません」
「それは仕方がないことです。聖女さまにとって、今日が初めての魔物との遭遇でしたから……」
「私もこれからは堂々と聖女を名乗れるように努力します。フェルディアさんと一緒に邁進できたらと思います。そのためにもまずは貴方のことを教えてください。どうか私のことは聖女ではなく、ロニアと呼んでください。もう少しお互いに歩み寄りましょう。貴方には従者ではなく、一人の友人になってほしいのです」
「せい……ロニアさま」
「畏まらないでください。私たちが他人行儀では今回のように連携もとれず、ただ魔物たちの的になってしまいます。私たちは魔物から国民を守る聖女と守護騎士です。私たちがこの調子では国民も困ってしまいます。私たちはまだ自分たちの神殿にさえ、辿り着いていないのです」
「そうですね。では、ロニアさん。俺のことはルディと呼んでいただけませんか? 騎士団には愛称で呼び合うような友人なんていませんでした。愛称で呼ばれるとその……この辺りがくすぐったくなるのです」
落ち着いた声で細かい傷痕が残る自分の胸を差したフェルディアにロニアは頷く。
「ええ、勿論……ルディ」
ルディという単語が自然とロニアの口から滑り落ちる。これまで無理をして愛称を避けていたからか、今のロニアはとても軽い気持ちであった。
心が軽やかなまま、ロニアが握っていたフェルディアの手に軽く口付けると、顔を真っ赤に染めたフェルディアが素っ頓狂な声を上げたのだった。
「せ……ロ、ロ、ロニアさんっ!? どうしたのですか!?」
「心ばかりですが、ルディが抱えている疲労と傷を癒せたらと思って。昨日も今日もずっと頑張ってくれたので」
「い、い、いえっ……! 労われるほど大したことはしていません……」
「ベッドで横になってください。背中の傷も診ます。細かい傷なら私でも治せますから」
先導するようにロニアがベッドに腰掛ければ、フェルディアもどこかぎこちない様子で後に続く。ブーツを脱いだフェルディアにロニアが自身の膝を示すと、フェルディアはおそるおそるロニアの膝の上に頭を乗せたのだった。
「少し寝心地が悪いかもしれませんが、我慢してくださいね」
「悪くありません。むしろずっとこうして寝ていたいくらいです……」
ロニアはフェルディアの黒い頭に唇を落とす。これはロニアが見つけたロニアなりの癒しの方法だった。
呪文を唱えた方が速く治るが、時間を掛かってもいいのならこうして直接手や唇で触れた方がロニアは確実に傷を癒せる。こんな方法をやっているのはロニアだけらしいが、肝心な時に呪文を忘れたり、パニックになって口が回らなくなったりするよりはずっと良い。戦闘中じゃなければ、今後もこの方法で治そうかと思っているくらいである。
しばらくそうしてロニアは自分の唇に神聖力を集中してフェルディアに送り続けていたが、フェルディアが静かに話し始める。
「ロニアさんはラウレールを守護騎士にするつもりでしたよね」
「そうですが……」
ロニアが唇を離すと、フェルディアはすっと起き上がる。ブーツを履いて荷物を入れている革袋まで行くと何かを持って戻ってくる。
「ラウレールを好いているようでしたので昨日は言いませんでしたが、アイツには気を付けてください。初めて会った時からどこかきな臭いところがあります」
「ラシェルさまが? そうは見えませんが……」
「あの後、この髪飾りを直してみました。聖女さまの大切なもののようでしたので……これもラウレールから貰ったものですよね」
フェルディアから渡されたのは昨日ラシェルに踏みつけられた赤い花の髪飾りであった。ところどころ花びらが欠けているが使えないということはない。いつの間に拾って、修理してくれたのだろうか。
「そうです。ラシェルさまから贈られて、守護騎士と婚約を約束して……」
「触った時に違和感があったので、魔法に精通している騎士に見てもらいました。どうやらこの髪飾りにはロニアさんの神聖力を打ち消す魔法が掛けられていました。神聖力を使えば使うほど、効果を弱めてしまうようです」
「どうしてそんな魔法が……?」
「それは分かりません。アイツが知らずに渡したのか、意図的に贈ったのかは。ただこれを身につけている限り、ロニアさんは本来の力を発揮できません。お返しするべきか迷いましたが……」
「ありがとうございます。身につけなければ何も無さそうですし、しばらくは身につけないようにします」
ロニアは赤い髪飾りをローブのポケットに入れる。騎士団のエリートであるラシェルが髪飾りに掛けられた魔法に気付かないということがあるだろうか。意図的に魔法が掛けられたと考えるしかない。
ただそれを確かめようにもラシェルはロニアに愛想を尽かしてしまったので口も聞いてくれない。どこかに魔法に詳しい人がいればいいが……。
(ラシェルさまは本当に純粋な善意で私に守護騎士を申し出てくれたのかな……)
ラシェルとフェルディアのどちらを信じるべきか、ロニアの中で迷いが生じる。どちらも信じたいが、それだとどちらかがロニアを騙そうとしていることになる。
信じたいけど信じられないもどかしい気持ち。どちらを信じたら良いのか、ロニアは自分の胸に問い掛けたが答えは返ってこなかったのだった。