ep18 ちょっとを教えたい
シンマオを中道家で預かるようになって三日目。
この日は土曜日であり、学校へ行くこともない。前日に夜更かしし、普段より遅く起床するという中高生が多い中、雀女と龍我は平日と変わらない時間に起きていた。
午前中、雀女はシンマオにフローリングの掃除方法を教えていた。専用のシートを付けたクイックルワイパーを使った、ごく一般的な掃除方法である。しかし細部には雀女のこだわりがあるので、その指導はとても細かい。
細かく正確な指示を受けながら、シンマオ床掃除を行った。担当した場所は二階の廊下。兄妹二人以外は滅多に経由しない場所のため、家の中でも汚れが溜まりやすい。
「終わたアル」
シンマオは自室にいた雀女に報告する。雀女が毎日掃除をしているため、元々奇麗な廊下ではあるのだが、それがさらに清潔な状態になった。
「おおーっ! よくできました!」
一目見て感激する雀女。大はぎゃきで手を叩き、その場で軽く足を浮かせる。
「ワタシ、できたアルか! 良かたアル!」
「おおっ、雀女が掃除で褒めるなんて珍しいな」
と言ったのは龍我。階段で一部始終を観察していた彼が、ひょっこりと顔を覗かせる。
雀女は家事全般に尋常じゃない拘りを持っていた。手伝うつもりで勝手に家事に行っても、大概は一言の礼ももらえず、文句を言われるだけである。
そんな理由により、家の事はほぼ全て雀女が担っているのであった。
「シンマオちゃんはちゃーんと言われたことできるのよねぇ。言われたことすらできない人も多いのに……」
嫌味ったらしく、目を細めて龍我のほうを見る。
「いやいや、俺だって十分出来いいからな!」
「十分の意味知ってる?」
「やなやつ……」
眉をひそめた龍我。この口喧嘩では分が悪いと思い、話を別のものへと逸らそうとする。
「それにしても、どうして掃除なんて教えてたんだ? あ、分かった! シンマオが役に立つか証明して、ここに住めるよう父さんたちに説得するためか! それなら俺も……」
苦し紛れで出した話題だったが、意外と悪くないことを言ったと思い、龍我は一人で盛り上がりはじめた。
「違います! 引き取ってもらえるようアピールポイントを作ってたの!」
しかし、台詞を言い終わることなく、強い否定が入った。
「いつまでもリビングで寝てられないからね。お父さんだって電気代が不透明すぎて怖いってさ」
リビングでの就寝は連日続くと辛いものがある。睡眠自体はできなくないが、家族で足並みを揃えて寝るのは、思春期の人間にとっては息苦しい。
そして親からしても金銭的な問題がある。現在の中道家では、シンマオを長期的に預かることはできなかった。
「そーんなにシンマオちゃんと一緒にいたいなら自分で頼み込めば?」
「え? やっ、やだなぁ……! 俺は別に……」
龍我は、どうしても自分から頼みたくはなかった。
廊下での一幕を終えた後、龍我はシンマオたちをリビングに連れて行った。
龍我は真っ先に冷蔵庫の前まで行き、野菜室の中を漁り始める。シンマオは律儀に龍我の後ろを付いてきて、雀女はすぐさま冷蔵庫とは反対側のソファーにもたれかかった。
「何するの?」
足を組んでふんぞり返った雀女が尋ねた。どうせ大したことはしないのだろう、という内心が透けて見える。
「昨日思いついたこと、まぁ見てろって」
そう答えると同時に、野菜室からたくましく育った一本の大根を取り出した。
「これ、大根って言うんだけど、大きいと思うか?」
右手に持った大根をシンマオに向けて突き出す。
「分からないアル」
シンマオは首を傾げる。こういった感覚を持ち合わせていないことは散々分かっていることだが、龍我はその反応を見てニヤりと笑った。まさに思惑通り、といった顔である。
「じゃあ、こっちと比べたら? 大きい?」
間髪入れず、今度は左手に持った人参を見せた。色味は良いがサイズは特別大きいわけではない。当然、大根と比べたら小さかった。
「大きいアル」
両者を見比べた上で、シンマオが回答した。
「やっぱりそうか……!」
大根を持ったほうの腕で、激しくガッツポーズを取る龍我。あまりの嬉しさに拳に力が入ってしまい、大根に凹みが生じてしまった。
「どういうこと?」
雀女は眉尻を落として首をかしげた。
「つまりだな、シンマオは比較級なら物事を大小で区別できるわけだ」
「……ごめん、分からないわ」
だから何だというのか、という内情を隠そうともしない言い方だった。
定量的までシンマオは理解できないわけではない。それならば、比較での大小が理解できても不思議ではない。何故それを喜ばなくてはいけないのか、頭の上にあるクエスチョンマークは増える一方である。
「だから基準ってものを逐一教えてあげれば、〈ちょっと〉とか、〈すごい〉とか、そういう感覚も掴めるようになるかもしれないってわけだよ!」
ラーメン屋での一件を龍我はまだ引きずっていた。何とかして具体的でない〈ちょっと〉という感覚を伝えられないかと考えた末、自分の中でも〈ちょっと〉と感じる基準があることに気付き、定量的に教えることができるのではないかと閃いたのである。
「ワタシ、ちょっとが分かるようになるアルか!」
引きずっているのはシンマオも一緒であった。それが解決できるとなれば喜ぶほかない。
「それならかなり、会話も簡単になるかもね」
人間の感覚で会話したことで起きた失敗を思い出し、雀女は胸に手を当てる。
「そうそう、アピールポイントとは違うけど、懸念する人も減るだろ?」
「いい事アルな!」
「よし! もっと実験したいことがある! 手伝ってくれ!」
「分かたアル!」
日本語能力の上昇できる術が見えてきたことにより、龍我もシンマオもかなり気合が入っていた。