上 異世界で専業主夫
「苦しい・・・。吐きそう。」
出勤途中、僕は駅のベンチでうずくまった。
当たり前のように続く長時間労働、質及びスピードのいずれにおいても高すぎる要求水準、圧の強い上司や先輩からの無言のプレッシャー・・・。
自分にとって今の職場は厳し過ぎる。
いつもなら、しばらくベンチで休めば立ち上がれるが、今日はもう限界かもしれない。
もっと誰にでもできる簡単で楽な仕事に就きたい・・・。
そう思いながらめまいを感じて目を閉じ、しばらくして気づくとそこはまったくの異世界、剣と魔法の世界だった。
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「じゃあ行ってくるわね。お願いしておいたこと、よろしくね。」
「わかったよ、ソフィア。今日も頑張ってね!」
今日もソフィアを送り出し、僕は家の仕事をする。
そう。僕は異世界で望みどおりの仕事に転職できたのだ。
誰にでもできる簡単で楽なお仕事、専業主夫に・・・。
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転生した僕は、これまで読んだ100を超えるの文献を通じて、高い異世界転生リテラシーを有していたこともあり、瞬時に転生した事実と新しい世界を受け入れた。
そして、異世界生活攻略の第一歩として、まずは仕事からだと思い、テンプレどおり冒険者ギルドへ行って冒険者登録した。
もっとも冒険者になるのが夢だったわけではなく、他に収入を得る道が思い浮かばなかったからやむなく選んだに過ぎない。
だから最低ランクの冒険者として薬草探しなど簡単な依頼だけを引き受けてスローライフを楽しむつもりだったのだが・・・。
「う〜ん、今日は薬草探しとか、地図作りといったEランクの依頼はありませんね〜。」
ギルドスタッフが申し訳なさそうな表情で言った。ちなみに昨日も、一昨日も、まったく同じ回答だった。
僕にとって誤算だったのは、この世界のギルドには簡単な依頼などほとんどないという現実だ・・・。
薬草探しのような簡単な仕事はギルドに依頼しないで自分でやる人がほとんどだし、たまにあっても受任の競争率は極めて高い。
大半は研修中の新人冒険者に割り当てられるか、半リタイヤ状態のベテラン冒険者が持っていってしまう。
じゃあどういう仕事が多いかというと、普通の人ではできない専門性の高い仕事、又は危険な仕事である魔物退治やダンジョン攻略だが、これらを引き受けるには僕では技量が足りない。
いったいどうしよう・・・。
「パーティ決まってないの?じゃあ、うちのパーティで盾役になる男手を探しているんだけどどうかな?」
そんな時、声をかけてくれたのが魔導士であるソフィアだった。
ソフィアは、冒険者登録をした直後の研修期間に、僕のメンターとして親身に指導してくれた恩師でもある。薄い黄金色にエメラルド色の瞳、透けるような肌などエルフの血が入っているのかと錯覚するような美貌の持ち主で、魔導士としての腕も一流。
年齢は不詳だが、多士済々なギルド内でも顔役のため相当なベテランのはずだ。
研修期間が終わり、受任がほとんどなくなって生活にも不安を感じ始めていた。いや、それよりも憧れのソフィアに声をかけられて舞い上がったことの方が大きいかもしれない。この人と一緒の職場で働けるならば多少辛くても頑張れると思い、僕は誘いをためらいなく受け入れ、ソフィア、ナディアの女性魔導士2人と、サンドラの女性僧侶1人からなるパーティに加入したのだが・・・。
「こらっ!盾がブレて炎が漏れてるぞ!!詠唱に集中できないだろ、この役立たず!!」
「はい!すみません!」
「遅い!!このグズ野郎!!わたしたちが魔法で攻撃したら、ためらわずすぐに剣持って飛び込んでとどめを刺せ!わたしたちの魔法を無駄にする気か?」
「すみません!!」
「おい、魔物にビビってんじゃないぞ!この腰抜け!怪我してもちゃんと回復魔法かけてやるから。まあ、蘇生魔法なんてないから死んだらどうしようもないけどな。ガハハッ!!」
「ハハッ、そうですよね・・・。」
女性とはいえ、歴戦の冒険者たちである。みんな気性が荒く、要求水準も高い。
しかもこの世界にはパワハラという概念すらなく、例外なく圧が強い。
そして、労働環境は劣悪である。
この世界には労働基準法も労働基準監督署もない。
「じゃあ今日はここで野営だけど、わたしたちは魔力を回復するために十分に睡眠取らなきゃいけないから、見張りは一人でお願いね!」
「じゃあ僕はいつ寝たら・・・。」
「そんなの、わたしたちが寝る前とか、起きて身支度するまでとか、自分で工夫してなんとかしなさいよ!」
「そんな・・・。」
この世界には最低賃金もない。時間外労働手当もない。
「はい、これ今回のあなたへの分け前。最初の約束どおりね。」
「そんな。約束より長時間働いたんだからその分少しくらい・・・。」
「しょうがないじゃない。想定より攻略に時間がかかっちゃったんだから。時間がかかっても報酬額は同じ。文句があるならもっと早く攻略できるようにしなさい!」
この世界には決まった休日も有給休暇もない。
「明日も依頼を受けるんですか?もう20日間も毎日働き続けてますよ。」
「・・・それがどうしたの?」
「あっ、いえ。すみません。」
ーー
「はあ。つらい・・・。」
いつしか僕は、この世界でも、クエストのためギルドへ行く日の朝には決まって吐き気を覚えるようになった。とうとう今日は歩くのも辛くなり、少しだけ休むつもりで、ギルドへの道の途中にあるベンチにうずくまっていた。
前世でも、この世界でも厳しい仕事ばかり・・・。もっと僕にできるような簡単で楽な仕事はないんだろうか・・・。
そう思うとますます心が辛くなりベンチから腰を上げられなくなった・・・。
もう約束の時間はとっくに過ぎている。きっとソフィアに怒られるんだろうな。
「こんなとこで何してるのよ!ちゃんと決めた時間にギルドに来なきゃだめでしょ!!」
見覚えのあるローブの下には黄金色の髪とエメラルドの瞳・・・目の前に立っていたのはソフィアだった。
「すみません・・・。すぐに・・・。」
立ちあがろうとするが、足が動かない。しかも体も震え出した・・・。
「すみません、僕、もう無理です・・・。」
「いったいどうしたのよ!?」
ソフィアは隣に座って黙って話を聞いてくれた。最後まで聞き終わると、笑顔でこう言ってくれた。
「わかったわ。そんなに辛いならパーティを抜けてもいいわよ。」
僕は一瞬だけ心が軽くなったが、すぐに次の不安に襲われた。
「あっ、いえ・・・。今の話は聞かなかったことにしてもらえると・・・。」
「どうして?辛くて体の具合が悪くなったんでしょ?無理する必要はないわ。それともさっきの話はただの遅刻の言い訳なの?」
ソフィアの顔が一瞬で険しくなった。
「い、いえ、さっきの話は本当です。ただ、パーティを抜けると生活が立ち行かなくなるので、一人前になるためには頑張って続けるしかないかなと思って・・・。」
「そうか、なるほど。」
そう言うとソフィアは腕組みをして考え込んだ。いや、実際には考え込んだと言えるほどの時間考えておらず、僕の目から見て決断までほんの一瞬だった。
「よしっ!じゃあ、今後君の生活の面倒はわたしがみてあげる。代わりに一緒に暮らして家事全般をやってくれればいい!それなら万事解決でしょ?」
その時のソフィアの微笑みは、まるで救いの女神のように神々しく、気づけば僕はこの話に飛び付いていた。
こうして僕は、この世界で、誰でもできる簡単で楽な仕事である専業主夫に転職することになった。
ちなみに、この世界では結婚という制度は王侯貴族だけのもの。だから庶民である僕とソフィアは結婚はしていない。しかし実態としては結婚生活と変わらない生活がスタートした。
「ここがわたしの家よ。」
新居として連れてこられたのは、ソフィアの住居、集合住宅の一室で、ベッドルーム一部屋、ダイニングキッチンが一部屋の、転生前の世界では1DKマンションと分類されるような物件だった。
間取りはともかく、床面積は日本のマンションよりかなり広いのだろうが、床に本や物や衣服が乱雑に散らかり、かなり狭く見える。
「じゃあわたしは1週間ほどダンジョンに潜るから掃除もろもろよろしく頼むね。」
そう言ってソフィアは僕を部屋に残してすぐに出発した。僕は辛かった仕事からの解放感と新婚の喜びで浮き立ち、1 週間かけて部屋を掃除し、不足していた物品も揃えた。
「帰ってきたらあまりのキレイさに驚くぞ!」
ソフィアが出かけてからちょうど1週間後、帰ってくると伝えられた日、ごちそうを用意してワクワクしながら帰りを待っていたが、その日ソフィアは帰って来なかった。帰ってきたのは出発からちょうど10日後だった。
「ただいま・・・。」
帰ってきたソフィアは、明らかに疲労困憊だった。
僕は杖とローブを受け取ると素早くお風呂を沸かし、お風呂に入ってもらっている間に、ワインと簡単に食べられるものを用意した。
「えっ?なにこれ?すごい!」
お風呂に入って少しさっぱりした表情のソフィアがテーブルの上の料理を見て目を丸くしている。
「はい。本当は3日前にごちそうを用意してたんですけど、思ったより帰りが遅かったので、今日はこんなものしか用意できずごめんなさい。」
実際、用意できたのはサラミとチーズとザワークラウトとパンくらいなのだが、喜んでもらえて嬉しい。
「ううん!十分よ。部屋もキレイになってるし嬉しい!今回のクエストが過酷で大変だったから癒されるわ。」
「新しいダンジョン探索だったんですよね。どうでした?」
「もう、新しい盾役兼剣士が全然使えなくって!盾がブレて火の粉が飛んでくるわ、攻撃のタイミングは遅いわ・・・あれは相当教育しないとな〜。」
「へ〜。」
ソフィアの話は少し前までの自分のことを思わせるもので、やや複雑な気持ちになったが、それでも嬉しそうに食事をしながら語るソフィアを見ると満ち足りた気分になった。
「あ〜、腹いっぱいだ〜。じゃあ寝るか〜。」
よく食べて、飲み、しゃべったソフィアは、満足したのか明らかに眠そうだった。
「じゃあソフィアのベッドの用意をするので少し待ってもらえますか?」
「なんで?君と同じベッドで構わないよ。」
思わず僕が赤面して立ち止まると、ソフィアは笑いながら僕の肩を叩いた。
「ハハッ!今日はいいよ。わたしも疲れてるし。じゃあベッドメイクまでの間に調べ物でもしておくかな。」
そう言ってソフィアは奥の部屋に入っていった。
なんなんだもう、からかって・・・。
そう思いながらまずは食器を片付けようとすると、奥の部屋から低い怒声が響いてきた。
「おい!わたしの魔導書をどこへやった?机の上に広げておいただろ?」
慌てて僕は奥の部屋に向かう。
「あの、そこのクローゼットの一部を本棚に改造しまして、その中に・・・。」
ソフィアは、僕が指差したクローゼットを開き、目当ての本を見つけると、「そうか。わかった。」と言って何事もなかったかのように机で魔導書を読み出した。
僕はまだ突然の怒声のショックでドキドキしていた。