2・私が悪役令嬢になった理由
――苦しい、息ができない。
痛い、痛い……。
「がほっ! ゲホッ、ゲホッ……痛ぁぁあい!」
喉の奥に詰まっていた何かがごぶりと口から流れ出て、やっと私は息ができるようになった。
溺れたのは、覚えてる。それほど泳ぎが得意でもないくせに、川で溺れてるこどもを助けようとしたら思ったよりも流れが速くて溺れた。
もがいて、もがいて、水の上になんとか頭を出そうとしたけども、流れのせいでそれもできず。
空気を求めて開けた口に、容赦なく入ってくる水。苦しさが限界に達して、意識を失ったと思ったら、どうやら救助されたらしい。
体の下にあるのは、しっかりとした地面。そして、心配そうに私を覗き込む――誰!?
金髪碧眼とか、赤毛とか、顔の濃さとか、日本人じゃない!
というか、私の着てる物はぐっしょりと水を吸ったドレスだ。
「こ……こんな物着てたら溺れるに決まってるでしょうがー!」
思わず叫んだ私を、周囲の人は困惑が極まった顔で見つめていた。
「クラリッサ! 無事か!?」
私を囲んでいる人たちをかき分けて、転びそうな勢いで茶色い髪の青年が現れた。
ちょっと待って、この人明らかに私を見て「クラリッサ」と呼びかけたけども、私はクラリッサなんて名前じゃない。
「あのう……どちら様ですか?」
「えっ!?」
恐る恐る尋ねると、彼は思いきり仰け反った。そして、私と彼の間に女性が割り入ってくる。
「ユリウス殿下、恐れながらお嬢様は溺れたショックで動転していらっしゃるご様子でございます。お召し替えも必要ですし、お話はしばしお待ちいただけますでしょうか」
「あ、ああ……そうだな。すまない」
心配そうに何度も私を振り返りながら、ユリウスと呼ばれた青年は離れていく。その間に私の周りにいた女性たちが私に手を貸して立たせてくれた。
「お嬢様、まずはお部屋でお召し替えを。それから侍医に診ていただきましょう」
それは真っ当な提案だった。でも、私は違和感を憶えた。
何がおかしい? 手を取られて歩きながら、いろいろと混乱した頭で考える。
そして、豪華な部屋に通され、「湯の用意をしてまいります」とひとりが離れていったときにピンときた。
普通は、「体に問題ないか」を確認しない? 溺れたんだから。
私の意識は大量に水を吐いたところからだけど、それは大量の水を飲んで息ができなくなるまで溺れたってことだ。
濡れているせいでどうにもできないドレスは、女性がふたり掛かりで脱がせてくれた。
柔らかなタオルで包まれて、ようやく私は自分が凍えかけていた事に気づいた。
――やっぱり、何もかもがおかしい。日本の夏は川や池に落ちても、こんなに寒い思いはしない。
自分の手を見てみる。白くて、傷がひとつもなくて、爪の先まで手入れされた綺麗な手。思ったとおりに動くけども、これは私の手じゃない。
「ここは、どこですか?」
響いたのは、やはり自分の声ではなかった。私の問いかけに女性たちは戸惑ったように目を見交わし合っていた。
鏡の中にいるのは、腰よりも長い黒髪と、冷たい青い目をした少女だった。
元の私と全然違う。整った顔立ちではあるけども、吊り目が凄くきつく見える。
……これは、きっと「そういう性格」なんだろうな。性格は案外顔に出る。
思い切りほっぺたを引っ張ってみるけど、痛い。やはりこれは現実らしい。
クラリッサ・マリエル・ボッティータ。それが、この少女の名前。公爵令嬢だそうだ。
さっき意識が戻ったときにひとりだけ「無事か」と尋ねてくれた青年は、婚約者のユリウス・ウィリアム・プレスコット。国王の歳の離れた異母弟。
どうも私は溺れた拍子に、同じように溺れたこの少女の体に入ってしまったらしい。異世界転生というやつだ。……元の体は死んでるのかと思うと泣きたくなる。
いやいや、もしかするとあっちにクラリッサの魂が入ってるかもしれないし。死んだとは限らないけども。
「でも、何の慰めにもならないんだよね、そんなことは」
独りごちて、はぁーとため息をつく。
ドレスを脱がされて、お風呂に入れられて、その間の私の様子がおかしいことにはさすがに周囲の人も気づいた。
最初は中身が違うと言っても信じてもらえなかったけど、「クラリッサって、そこまで手の込んだ嫌がらせをする人なんですか?」と訊いたらようやく信じてもらえた。
信じてもらえた理由はもうひとつ、湯船で体を洗ったり、体を拭かれたりすることを私が嫌がって自分でやろうとしたからだ。
元のクラリッサは、絶対にそんなことはしないらしい。
クラリッサは、気位が高く、侍女などの使用人は同じ人間と思わないタイプの令嬢だ。私が一言話す度に、周囲の人ビクビクしすぎ。
そして、婚約者のことを嫌っていた。毎日王宮へ来ていたのは、ユリウスに会うためではなく、別の理由があった。
新しいドレスを着終わるまでにそれらのことを聞き出して、私は重い気持ちになった。
そこに、ドアをノックしてひとりの侍女が入ってくる。
「クラリッサ様、ユリウス殿下がお待ちです」
「あー……」
とりあえず、私を池から助け出してくれた侍女たちと相談して、私はクラリッサとして過ごすことになった。
そうしないと、侍女たちが罰を受けてしまうから。――主人であるクラリッサを死なせてしまったという罰を。
元日本人の一般庶民だった私は――加えて言うなら、思慮も分別もあるアラサーとしては、クラリッサの勝手に巻き込まれて本来責任がない人が罪を負うのは耐え難い。
決して溺れたことを周囲の人たちの責任にはさせない。その代わり、自分でできる最低限のことは自分でやらせてもらう。
これが、侍女たちと私の取引だった。
クラリッサとして生きていく上で、ユリウスとの関わりは避けられない。
だけど、彼にどういう接し方をしたらいいかも、私は知らなかった。