14・幸せへの第一歩・後編(ユリウス視点)
ただひたすらクラリッサのことが心配で、彼女の部屋へ向かってしまった。
ユリウスは先王の王子として小さめの宮殿を賜っており、婚約者であるクラリッサは同じ宮殿の中に部屋を与えられていた。
だが、クラリッサの部屋を訪れたのは今回が初めてだ。
彼女は婚約前と変わらず公爵邸で起居し、ここへは通ってきている。
ユリウスはクラリッサ用の応接室で待つことになったが、侍女たちの動きは慌ただしい。
大分待ってからひとりの侍女が申し訳なさそうに詫びをしてきたので、生姜とはちみつの入ったお茶を準備するように頼んだ。
お茶は自分が飲まなくとも、クラリッサが飲めば良い。
母が亡くなったのは冬のことだったけれど、初夏とはいえあのように濡れてしまったら体も冷えるだろうから。
どのくらい待っただろうか。今までのクラリッサの態度からすると、「何も問題ありませんのでお帰りください」と言われてもおかしくない気がした。
だが、彼女はユリウスの待つ部屋へやってきて、まずユリウスに目を向けた。
彼女と目が合ったのは、初めて会った日以来ではないだろうか。
あの時交わした少ない言葉の中で、彼女はユリウスという婚約者を「関わり合うのが不要の存在」と思ったのではないか。
ずっとそう思って、自分の言葉を後悔していた。
けれど、戸惑いがちにこちらを見るクラリッサは、再び自分と目を合わせてくれた。
「クラリッサ、大丈夫か? 溺れたと聞いて大変驚いた」
心配したのだと伝えたくて、テーブルに足をぶつけながらも彼女の元へと急ぐ。
「申し訳ございません! ご心配をお掛けいたしました」
クラリッサは――頭を下げてユリウスに謝罪した。
謝るクラリッサというのは一欠片も想像したことがなかったので、驚きすぎて硬直してしまった。
彼女と挨拶以外の言葉を交わしたのも、かなり久しぶりの気がする。そして、クラリッサはユリウスを探るような目をしながらも、彼女が抱いてもっともな質問を投げかけてきた。
「殿下は、何故私のことを心配されるのですか? その、私は今まであなたに冷たい態度を取ってきたはずですが」
それはそうだ。クラリッサとは決して良い関係ではなかった。
だからといって、自分はクラリッサを嫌ってはいない。
彼女が自分を見てくれないのは、まだ自分の努力が足りていないせいなのだから。
「婚約者が溺れたのだ。心配するのは当然ではないか?」
ユリウスとしては当然の言葉を返すと、彼女は目を見開いて驚き、唇をきゅっと噛みしめた。
「私たちの婚姻は私たちが決めたことではない。――けれど、それと良き夫婦になるために努力することは別の問題だ」
父である先王と王太后も、恋愛をして結ばれたわけではない。けれどふたりは互いを支え合い、思いやることができる素晴らしい夫婦だった。
ユリウスの母は側室だったが、王族は血を繋ぐ必要がある以上それは仕方がないこと。
クラリッサは見えない何かに押されたように、一歩後ずさった。
けれど、それは拒絶の仕草ではない。
彼女にきちんと話せていなかったことを、今こそ伝えるときではないだろうか。
「特にあなたから見たら不満に思うこともたくさんあることは知っている。だからこそ、私はよい関係を築くために努力したいと思っている。私は、おかしな事を言っているだろうか?」
「いいえ! 大変に素晴らしいお考えだと思います!」
叫ぶように言ったクラリッサは恥じ入るように少し俯いていた。
その声の大きさにも驚いたが、ユリウスは「彼女が自分を肯定してくれた」ことにこそ驚いた。
クラリッサとお茶を共にしながら話をするうち、彼女は「過保護では」という感想を持ったようだ。
ユリウスにもその自覚はあった。だが、母の死の原因になった事情を話すと、驚きながらもその青い目に憐憫の色を浮かべてくれた。
「だから、あなたのことも心配だ。どうかひとつだけ約束して欲しい。あの池にはもう近付かないと」
亡くなった人と婚約者を重ね合わせるのは申し訳ない。
だが、ユリウスにとってはどちらも大切な人なのだ。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ユリウス様……そんなことも知らず、心配ばかりお掛けしてしまって」
今まで聞いたことのないような、悲しいという感情の籠もった声がユリウスに向けられる。
クラリッサは立ち上がって数歩の距離を縮めると、突然ユリウスの頭を掻き抱いた。
今まで手も握ったことのない相手から、突然抱きしめられた。
それも、座ったままのユリウスを立ったクラリッサが抱きしめたから、彼女の柔らかな胸が頬に当たっている。
「クククククラリッサ!? み、未婚の令嬢がっ!」
沸騰しそうな頭で、必死に彼女を制止した。だが、クラリッサは実に彼女らしい言葉できっぱりとした開き直りを見せた。
「いいじゃないですか、婚約者なんですから! それに――」
ユリウスが面食らっている間にも、細い指が髪の表面を滑っていく。その優しい感触にうっとりとしかけたとき……。
「私以外の誰が、こうしてユリウス様を慰められるんですか?」
クラリッサの腕は温かい。そして、その言葉はユリウスの胸にじわりと染みこんだ。
幼い頃ならともかく、自分より年若い婚約者の胸に抱きしめられているという事実で顔に血が上った。
だが、それは決して不快などではなく――むしろ、今までユリウスが心の奥底で求めていても、口に出すことができなかった想いを満たしてくれるようで。
クラリッサは厳しい女性だが、公爵夫妻は彼女に愛を注いだのだろうということはよく知っていた。
受け取ってきた愛情は、自分という器を満たしていくものだ。
だから、きっとこれはクラリッサが両親から向けられた慰め方なのだろう。
「今の私はユリウス様の努力を知っています。そしてそれに敬意を払っています」
ああ、ユリウスがクラリッサの努力を知っているように、クラリッサもまたユリウスの努力を知っていただろう。
それはよくわかる。知っているからこそ、クラリッサは自分を受け入れられないだろと、あの庭園での一言で思い知ったのだから。
「それに……私が溺れたとき、心配してくださったのはユリウス様だけでした。だから私は、心を入れ替えることができたのです」
カチリ、と何かの歯車が自分の中で噛み合った気がした。
彼女を愛しているかどうかはわからない。だが、愛するべきとは思い続けてきた。
――今は、彼女を愛せると確信している自分がいる。
クラリッサは愛らしい声で笑い、他の誰でもない自分に微笑みかけてくれているのだから。