13・幸せへの第一歩・中編(ユリウス視点)
前編後編で終わらせたかったのですが、終わりませんでした……。あと一日ユリくん回顧編にお付き合いください。
「殿下は何故、笑っていられるのですか?」
「……え?」
ふたりで庭園を散策しなさいと言われ、ユリウスはクラリッサをエスコートして歩いていた。クラリッサは形ばかりユリウスの腕に手を預け、「あなたには頼らない」という内心を表しているようにも思えた。
「何か、面白いことでもあるのですか?」
ユリウスに尋ねるクラリッサの表情は、真剣極まりなかった。彼女はユリウスが時折彼女に笑顔を向ける理由を、「面白いから笑っている」と思ったようだった。
「そうだな……私は、あなたと一緒に歩いているこの時間を楽しみたいと思う。クラリッサ嬢にも楽しんでもらえたら嬉しい」
「何も楽しいと思えません。私にとって時間の無駄です」
クラリッサの言葉に落ち込みそうになりつつも、だが、とユリウスは続けた。
「私たちはいずれ結婚するのだ。お互いを知ることは必要ではないか?」
「ではお伺いします。――殿下は何故、このような状況で笑っていられるのですか? 私には、今の状況は私にとっても殿下にとっても、不当な扱いにしか思えないのです」
透き通った氷を金属で叩いて響かせたような、美しくも冷たい声。形の良い唇から紡がれたクラリッサの言葉は、ユリウスを一瞬だが凍り付かせた。
ユリウスが答えに詰まっている間に、クラリッサはユリウスの腕から手を離し、くるりと踵を返していた。
「お互いを知ることは必要――私にはよくわかりました。殿下が、私とは全く違うと言うことが。それでは失礼いたします」
庭園の花を一番美しく見ることができる四阿まで行くつもりだったが、半分も歩かないうちにクラリッサはひとりで戻ってしまった。
――ただ、あの四阿で、将来の妻になる人と語らいたかっただけなのに。
打ちのめされたような気持ちでユリウスが動けないでいる間に、クラリッサの姿はいつの間にか見えなくなっていた。
2年の間に、ユリウスは「クラリッサ嬢」と呼ぶことをやめ、「クラリッサ」と呼ぶようになった。
彼女から自分へ対して、少しでも親しみを感じてもらいたかった。クラリッサが嫌がるならそれはそれでやめればいい。「彼女が嫌うことをひとつ回避できた」と思うことができる。
だが、クラリッサは依然ユリウスを「殿下」と呼び、自分へ近付くことを許さなかった。
クラリッサは王妃になりたかったのだという噂は、2年前に王宮を駆け巡ってユリウスも知ることとなった。
誰かがそれを囁いているのを聞く度、ランスロットとメアリーの仲睦まじい様子を思い出す。
ひとつ違いの甥は、ユリウスにとって一番大事な友でもあった。
クラリッサの能力や気高さは王妃に相応しいかも知れないが、心情としてはランスロットを心から祝福している。
だったら、クラリッサにとってユリウスと一緒にいる時間を楽しいと思ってもらえることが、これからの自分たちにとって一番いいことだろう。
クラリッサを王妃にしてやることはできないが、側に寄り添うことはできる。
ユリウスのその努力は空振りを続けたが、ある初夏の日に突然転機が訪れた。
クラリッサが池に落ちた。――それを聞いたとき、すうっと全身から血が引いていった。
優しかった実母の記憶は幼い頃で途切れている。母は池に落ちたことで病を患い、若くして亡くなったのだ。
悲しかったが、寂しいとは思わないようにしてきた。
兄のデレックも、その母である当時の王妃も、幼いユリウスを慈しんでくれたからだ。
特に、王妃アガサは血の繋がらない子であるユリウスを自分の養子にし、孫であるランスロットと分け隔てなく接してくれた。
寂しい思いなど、するわけがないのだ。
私の周りには、こんなに私のことを想ってくれている人たちがいるのだから。
日々自分に言い聞かせているその言葉が、自分を縛る呪いとなっていることにユリウスは気づけないでいた。
「クラリッサ!」
振り向いてくれない婚約者だが、それでも死んで欲しくない。
彼女がユリウスを顧みてくれないのは、まだ努力が足りないからなのだ。
どうか無事でいて欲しいと必死に祈りながら、彼女の名を呼んで走る。
「クラリッサ!」
池の畔では数人の侍女がクラリッサを囲んでいた。そこへ、何事かを叫ぶクラリッサの声が響く。
ああ、彼女は生きている。
よかった、と安堵で崩れ落ちそうになりながらも、ユリウスはクラリッサの元へ辿り着いた。
「クラリッサ、無事か!?」
一際大きな声で尋ねれば、ぐっしょりと水を吸ったドレスを身に纏い、美しい黒髪から水を滴らせた婚約者がこちらに目を向ける。
「あのう……どちら様ですか?」
彼女のその時の表情、聞いたことのない調子の声に心底驚いた。
いつもユリウスに向かって厳しい声を投げかけてきたクラリッサが、心細げにあちこちを見ながら、何かを窺うようにユリウスに向かって話したからだ。
「えっ!?」
「ユリウス殿下、恐れながらお嬢様は溺れたショックで動転していらっしゃるご様子でございます。お召し替えも必要ですし、お話はしばしお待ちいただけますでしょうか」
いつもとあまりにも違うクラリッサに驚いたユリウスは、侍女の声で我に返った。
「あ、ああ……そうだな。すまない」
精緻なレースでできた袖が、濡れて彼女の腕に張り付いている。
婚約者とはいえ、未婚の令嬢のそのような姿は、見てはならないものだ。
この場を侍女に任せることにしたが、クラリッサのことが心配で何度も振り返らずにはいられなかった。
自分が彼女に向けた心配がクラリッサの心を開かせることになるとは、この時のユリウスには到底考えつかないことだった。