11・ユリくんの過剰摂取は健康にいい
私は、かつて記憶喪失になった事がある。
推し作品のミュージカルを見に行ったとき、席が通路側だったので客降り曲で推しが隣に来てしまい、私のうちわを見て微笑みながら手を振ってくれたのだ。
それも、至近距離で。
その日は、それ以降の記憶が飛んでいた。
どうやって家に帰ったのかも覚えていない。
今回は、食事中に我に返った。
私の前には卵料理が載ってたっぽいお皿と、食べかけのパン。そして半分ほど残っているスープに、まだ手付かずっぽいフルーツの盛り合わせ。
……まずい、どうやって食べてたのか覚えてない。
クラリッサの体に染みついたマナーでなんとかなってたんだろうけど、変なことをしていないかは心配。
「どうしたの?」
私が急にキョロキョロし始めたせいか、お母様が声を掛けてくれた。優しい気配りがありがたい!
「その……殿下と朝食をいただくのは初めてのことで緊張してしまって。ようやく落ち着いてきたのですが、私は何か失礼な事はしておりませんでしょうか?」
少ししおらしく言うと、公爵――お父様が生温かい視線をこちらに向けてきた。
「ああ、クラリッサは先程立てなくなったので殿下が抱きかかえて運んでくださったのだが、その時に一度意識を失ったのだ。そうか、ずっと上の空の返事が返ってくると思っていたが、緊張のあまりか」
ユリくんに抱きかかえられて運ばれた!?
なにそれ覚えてない! 気を失うのも仕方ないというか、よく生きてたな、私!
お父様が状況を説明してくれたのは大いに助かるんだけど、この人は絶対に私の反応を見て面白がっている。
「殿下が心配してくださったおかげで、クラリッサは変わったようです。私も娘のいろいろな表情を見ることができて嬉しいのですよ。これは確かにピンクのバラですな」
「ああ、クラリッサはとても可愛らしい女性だと思う」
うう……あああ……そんな、人に向かって可愛らしいとか、どうして真顔で堂々と言えるの!?
存在自体が宝か!? 君の心が宝石だわ!
というかさあ!? 基本的に王侯貴族ってやっぱり美形が多いよね!?
お母様もお父様もクラリッサも、元の世界でそこら辺歩いてたら二度見するほどの美形なのよ!
やっぱり美人の血がたくさん流れてるんですよね?
その頂点に立つ王族たるや! はい、ユリくんはそもそも顔面が国宝でした! その上で中身が宝石なんだからそれはもう世界の宝なんですよ! この世の理を理解した! ありがとうございます!
尊すぎて無理、死ぬわ。いや、むしろ生き返るわ。
もしかしてクラリッサが溺れた後に生き返った(多分)のって、ユリくんが近くにいたおかげ?
あり得る。ルーブル美術館で大事に大事に展示されておいてもおかしくない至高の存在だよね。
よし、この家の無駄にでかい庭に礼拝堂を建てよう。ユリくん教を広めるのが私の務めと今まさに天からの啓示を得た!
「く、クラリッサ? 何か私はおかしな事を言っただろうか?」
急にユリくんがおろおろとし始めた。
まさか心の声漏れてました? だとしたら大変ヤバいですね。
「お父様、お母様、私は今どのような顔をしていましたか?」
ユリくんに訊いてもまともな答えは返ってくると思えなかったので、もう少し客観的に見られていたであろうふたりに尋ねてみる。
「見たことのない顔……いや、よく見慣れた顔をしていた」
「そうね、ヴァイオリンを初めて触ったときに、弦が突然切れてしまった時と同じ顔をしていたわ」
それはどういう顔なんだ……よくわからないけど、とりあえず何かがダダ漏れになっていたというよりは、臨界突破で無になってしまったというのが近い気がする。
「申し訳ありません。――殿下から可愛らしい女性と言っていただけるとは、全く思っておりませんでしたので」
前世含めて頼りになるとかは言われてたけど、私はいわゆる「可愛い女」であったことは一度もない。……それはクラリッサも同じ気がするけども。
ついしおらしく言ってしまったら、ユリくんは信じられないことを聞いたというように目を見開いて椅子を倒しそうな勢いで立ち上がった。
「決してそんなことはない! ……で、では、私がこれからあなたに毎日可愛いと言おう」
「私を殺す気ですか?」
それはさすがに、生き返るとかを通り越して死にます。
私がノータイムで聞き返すと、お父様とお母様が軽く笑った。
「婚約のお話をいただいたときにはどうなることかと思ったけども、殿下と一緒にいることでクラリッサのこんな表情を見られるなんて……」
「殿下、改めて娘をよろしくお願いいたします」
ふたりはユリくんに向かって深く頭を下げた。その様子からは、娘を想う気持ちが滲み出ていて、思わず私の胸も切なくなる。
「もちろんだ。良ければ、またこうして家族で食事を取る機会を持たせてもらいたい」
そしてユリくんはやっぱり誠実で。
家族、家族か……ユリくんは公爵夫妻のことを「家族」と認識してくれるんだ。お互いの意思が一切介在しない、誰かに決められた結婚だというのに。
本当に、どうしたらこんなにまっすぐで、包容力が宇宙レベルの人間が育つの?
そう考えて、ユリくんの本来の婚約者――この体の元の持ち主であるクラリッサのことが思い浮かんだ。
今までの話の限り、クラリッサはユリくんとは反対で包容力が蟻の触覚ほどしかなさそうに思えて。
私の家族とうまくやっていけるんだろうか。
うちの家族はいろいろなことが雑だから、キレ散らかしそう。
――もし私の元の体が生きていて、クラリッサの魂が入っているなら。
もう会えることがない私の代わりに、家族と少しでも仲良くしてくれたらいいな。
……無理かな。