みみによい
「田辺さん、これもよろしくね」
ドサドサと気が重くなる音と共に目の前に大量の書類が降ってくるのを、田辺恵は虚ろな眼差しで見つめた。
耳障りな甲高い声に、鼻腔を突き破って目の奥まで害してこようとするきつい香水の臭いで振り向かなくても誰かわかった。
こいつ何回か酷い死に方しないかなーっと、割と殺意高めな気持ちを抑え込み小さく了承する。霞む目をパソコンに戻す恵が気に入らないのか、背後の気配は遠ざかる様子はない。
早くあっち行けよと思いながら入力していると、ふいに意地の悪い声で女が言った。
「そう言えば、夕方からいつものトイレ使えなくなるらしいわよ」
「え」
いつものトイレとは恵たちがいる事務所から一番近いトイレのことだ。北側の奥にあまり使われていない和式のトイレがあるのだが、基本的にそこは誰も使用していなかった。毎週金曜日にトイレ掃除のため入ったことがあるが、日中でも薄暗く陰気な雰囲気で職員からは不評だった。
「あの北側のトイレ、出るって言うからね。夜20時過ぎは絶対に入ったらダメって噂よね」
「……はぁ」
恵の気の抜けた返事に苛立つ様子を隠すこともなく、女は「せいぜい気をつけてね」と捨て台詞を吐き捨てると、入り口から来た部長に甘えた声を出しながら纏わりつきに行ってしまった。
不倫関係を微塵も隠す気のない様子に最早何の感情も湧かなかった。
結局押し付けられた仕事もセットで終わらせる頃には時刻は21時を回っていた。
「あ~やっと終わった……」
事務所にはもはや恵しかおらず、ディスクの上に突っ伏しながら時計を見上げる。空腹と眠気が交互にやってくるが、それよりも尿意が限界だった。
帰る前にトイレを済ませるかと立ち上がり、ふいに今日はいつものトイレが使えないことを思い出す。
「ま、いっか」
幽霊の話が脳裏を過るが、今はそれよりも生理現象をなんとかする方が先決だった。
急いでトイレを済ませて手を洗いながら、ぼんやりと鏡を見つめる。薄暗いトイレのオレンジ色の灯りは、恵の顔色をくすませた。
確かに居心地は良くない。が、これと言って怖がる必要性もなかった。
「……早く帰ろ」
くうくう鳴く可哀想な腹を撫でなからひとりごちていると、ふいに左から生暖かな風が耳を擽った。顔を向けるが窓は開いていない。
「……?」
チカチカと曖昧に点滅する不安定なオレンジの中、一瞬だけ音が遠くなるような感覚に陥る。耳鳴りの前兆だと気づいた恵は、おもむろに耳を強めに叩いた。
『え……?』
するとどこからか一瞬引いたような声がすぐ傍で聞こえた気がした。
「ん?」
叩くのを止め周りを見回すが、やはり恵一人しかその場にいない。
「ん? 確かに今誰かがドン引きするような声が聞こえたんだけど」
疲れているのかもしれない。早く帰ってご飯を食べて寝よう。欲望のストッパーがストレスで壊れている恵は、そのままフラフラとした足取りで、それでも足早に帰路に着いた。
帰宅と共にカラスの行水を遂行し、買った弁当を数分で平らげた恵はそのまま流れるような動作でベッドに入った。途中色々変な声が聞こえた気がしたが、あまり記憶にないから気にもとめない。
やっと眠れる。
今日一日のご褒美の時間だ。
──しかし、安らかな天国は恵を迎え入れてはくれなかった。やはり今日もか、と諦念にも似た苦い気持ちが口内を満たす。ここ最近眠いのに眠れないのだ。薬に頼ったが意味はなく、疲れだけが溜まっていく。
「眠れない、眠り方」
諦めてスマホで検索をかける。今日も眠れないのかと苛立ちすら超えて虚無感に苛まれていると、ふいにYouTubeでASMRの文字が目に飛び込んできた。
「最初はなぁ、良かったんだけど」
耳元で囁いてもらったり耳かき動画を試している内に、耳が慣れたのか今では何も感じない。
最初は心地良く、すぐに眠れていたのだ。
「まぁ、とりあえず聞くか」
数分試しに聞いては見るが心地よくはあるが、初めて体験した時のような、耳裏から後頭部をざわつかせる快感は得られなかった。仕方なくイヤホンを外し、暗闇を見つめる。
何だか消えたくなってきた。
死にたいわけではないが、人生何も楽しくない。生きてる意味すら見失いそうだった。
幸せに楽しく暮らしたいだけなのに、ただそれが難しい。
いつの間にか目頭が熱くなり、頬に雫が零れ落ちる。
久しぶりのメンタルブレイクだった。
「あー消えたい」
そう呟いた時、すぐ耳元で含み笑いが聞こえた。
「え?」
『じゃあ、一緒に逝こうか』
それは低い男性の声だった。耳たぶの近くで微かな息遣いすら聞こえる。耳の穴に直接囁くように言われたその言葉に────
「あぁぁぁぁイケボぉぉぉっ」
恵は断末魔の声で昇天しかけた。
『え』
物凄くドン引きしたような、戸惑う声が近くでする。つい最近も聞いた声だなと思いながら、恵ははあはあと息を荒げながら近くの声に懇願した。
「もっと囁いて」
『え?』
「いいから早く囁いて何で止めるの今寝れそうなの早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く」
『ま、こわ、ちょっと待って!』
呪詛の如く口から恫喝にも似た懇願を垂れ流していると、声の主は震える声で待ったをかけた。そんな声までイケボである。
低いが聞き取りやすい甘い声。けれどどこかザラっとハスキーみすら感じる絶妙に好みの声だった。
こんなイケボで至上の声は生まれて初めてである。
「お願い。お兄さん、人助けだと思って」
少しばかり落ち着きを取り戻した恵に、声の主は戸惑ったように続けた。
『君、俺が怖くないの』
「え、イケボ」
『待って、会話しよう? 君の方が怖いよ、もう』
「はぁぁぁん」
ゾクゾクと空気の振動すら気持ちがよくて震える。とりあえず瞼を閉じると、声の主が小さくため息をついた。
『あのね、俺幽霊なわけ』
「うぅん、あ、はい、すいません、落ち着きます。幽霊、はいはい」
呆れたような空気を感じとった恵は、もういいやと見限られて逃げられたりしたら堪らないので、慌てておざなりに返した。空気を読むのは会社で叩き込まれた得意分野である。まあ、空気は吸って吐くものだが。
『君がトイレを使った時に憑いたんだよ』
「え、お兄さんそんなイケボなのに女子トイレ住んでたの? それはちょっとあれだと思う」
『いや、元は女子トイレができる前は部屋だったんだよ。アパート。そこで自殺したの』
「へぇ……待って」
『! 漸く怖くなった?』
「もっと小さめに息を多めで囁いて」
『あれ、日本語話してるよね? もしかしてそう思ってるのは俺だけで、違う言語話してる?』
「んで、幽霊のお兄さんがどうしたの」
『あ、ちゃんと話は通じてた』
大分お兄さんのイケボで睡魔がいい感じに恵を迎え入れようと扉を開きかけているのに、肝心のお兄さんが寝かせてくれない。
『俺はね、一緒に地獄に逝く人間を探してるんだ』
「お兄さん地獄行きなんわろた」
『……』
「あ、怒んないでごめん。……だってさ、お兄さんそんなイケボなのに逝くなら地獄じゃなくて天国じゃないの? 古のオタク女子たち総なめ総立ちもんの声よ? 数多の声優の声を聞いてきたあたしが眩暈起こすほどの美声よ? んなもん天国しか逝けないべ」
『俺は、天国に逝けるような人間じゃないよ』
「……あ、今の憂いのある感じとても好」
『はお?』
「良いって意味。ていうか、お兄さんがどんな人間か知らんけど、イケボは無罪って言葉知らないの?」
途端空気がぐっと冷え込んだ。電気がチカチカ明滅仕出し──
『君は幽霊がどんなものかわかってないよね』
低い声が鼓膜を震わせた。
そして突然部屋の明かりが点く。眩しさで目を細めながらぼんやりしていると、視界の端に血まみれのとんでもない美青年が入り込む。
「っ……」
息を呑む恵を見下ろしながら、彼の綺麗な顔が迫ってきた。それを眺めながら、恵はふっと笑った。それは自嘲の笑みだった。
「お前勝ち確みてぇな面これみよがしに見せやがって、あ? 自慢かこら。シミどころかホクロ一つねえしよくそが」
突然の罵声にお兄さんは驚いた顔をする。そんな表情まで美しくて、なんだか腹が立ってきた。
「あたしの顔見ろ」
『え?』
「いいから見ろ。んで、感想は?」
『え、え、えっと……愛嬌が、あるね』
「誰が品評しろっつったよ」
『ええ、理不尽……』
困った様子で恵の顔を見つめていたお兄さんは、やがて何かに気づいたように恐る恐る口にした。
『君、顔色悪いね?』
「でしょ? 真っ白通りこして青黒くない? どっちが幽霊なんだよってか? はははっ」
真顔で笑うとお兄さんはドン引きと同情を混ぜたような複雑な表情で顔を離した。
「クマやばいべ? 眠れてないの、あたし。ストレスで自律神経イカれてんの。あのくそ馬鹿上司と色ボケ阿婆擦れババアのせいで」
『た、大変だね』
「同情した? したよね?」
『え、うん、まあ』
「ならさ、可哀想なあたしの懇願聞いてよ」
『その二人呪い殺せばいい?』
「違えわ! お兄さんは! あたしが寝付くまで! あたしの耳元でなんかお話して! それだけ! それがあたしを、世界を救う!」
ワールドクラスまで飛躍を遂げた役割に、お兄さんは呆気にとられた顔をした。イケメンである。
『でも君、消えたいんだよね?』
「消えたいと死にたいは違います。生理前の女の戯言は全部偽りと悪意と憎しみでできてんの、知らない?」
『そ、そうなんだ。知らなかった』
最早体が逃げ気味なのを恵は見逃さなかった。流れるような動作で明かりを消し、ギンギンの目をお兄さんに向ける。
「お兄さんは可憐な女子の部屋に許可なく侵入して、今、睡眠を妨げるばかりか、哀れな懇願すら無視しようとしてます」
『え』
「罪がすげえわ。なので人助けとして耳元でお話してください。しないと部屋から出しません、逃がしません、わかりました?」
畳み掛けるような恵の言葉に逃がさないといった執念と執着を感じとったのか、お兄さんは一瞬沈黙した。
それから耳元で笑う気配がして、おっ? と期待に胸を膨らます。
『わかった。とりあえず今日は、君の懇願を聞くよ』
「本当? ありがと、まじ感謝」
『何が聞きたい? 俺の話してもあれだしなぁ』
「なら三匹のコブタ聞きたい。お兄さん三匹のコブタの話知ってる?」
『知ってるけど、何で三匹のコブタ?』
「今一番豚肉食べたいから」
絶句する気配を感じながら静かに瞼を閉じると、やがてお兄さんは楽しそうに小さく笑った。
『わかった。じゃあ話すね。昔あるところに……』
優しい語り口にすうっと意識が遠のいていく。そうして恵は、いつの間にか柔らかな暗闇の中へと意識を沈めたのだった。
チュンチュンと小鳥の可愛らしい鳴き声で恵は自然に目を覚ました。いつもなら煩い囀ずるなくらいは思うのに、久しぶりに眠れたせいか心に余裕が生まれた気がする。いつもずっ友のように恵に張り付いていた目の鈍痛も頭の重苦しさも、今は旅に出たようで音沙汰がない。
「お兄さんお兄さんいる?」
『ん、なあに? 起きたの?』
「起きたお早う。そして感謝!」
ひょっこり現れたイケメンに土下座すると、お兄さんは笑いながら恵の顔を覗きこむ。
『うん、顔色良くなったね』
「おかげさまで。あれ、お兄さん血まみれ消えた?」
『ああ、見苦しいからね』
消せることなんてできるのか、幽霊わりと自由だなと思いながら、恵は軽く伸びをする。
「あたしさ、結構夜しんどくて。眠れないのもそうだけど、夜って結構長いじゃん? んで、やけに静かなのに外の音とか気配が気になってさぁ、なんかまるで夜の世界に一人ぼっちになったような気がして、早く朝になってほしかったんだよね」
『うん、わかるよ。……夜は長いよね』
何か思うところがあるのか恵の言葉に耳を傾けていたお兄さんは静かに頷いた。
「ねえ、お兄さん。お兄さんは天国逝くの急いでる感じ? もしそうじゃないならさ、暫くあたしの傍にいない?」
『君、幽霊が憑くってどういうことかわかってる? 下手したら君の体調にも悪影響があるかもしれないんだよ』
「でもさ、今日のあたしの顔色直近で一番良いんだよね。お兄さんが囁いてくれたから眠れたし、逆に体調良いんだよ。……それに、お兄さんがいたら夜が長いのも悪くないと思うんだ。ダメ?」
暫く考えていたお兄さんは、恵の窺うような顔にふっと口元を緩めて苦笑した。
『わかった。それじゃあ暫くお世話になろうかな』
「本当!? いや、お世話になるのはこっちのセリフ! 本当嬉しい、これからよろしくね、お兄さん!」
触れることこそできないが、握手の真似事で手を差し出すと、お兄さんも真似をして手を差し出してくれた。
こうして社畜の女と幽霊のお兄さんの同居生活が始まったのである。
お兄さんと暮らして一ヶ月、恵にとっては良いこと尽くめの毎日だった。毎日安眠できるのもそうだが、何より嬉しかったことは、あのストレスの原因である上司とお局が揃って会社を辞めたことである。噂によると二人とも精神に異常をきたしたとかなんとからしいが、多分不倫が身内にでもバレたのではなかろうかと恵は推測している。
ともかく今が一番健康的で人間的な生活ができているので、お兄さんは間違いなく天使か何かだと思う。
「お兄さんただいま!」
『お帰り、恵ちゃん』
恵は知らなかった。お兄さんが恵といない時に何をしてるかなんて。
壊れた中年の男を見下ろしながら、お兄さんは笑う。
『あのこは知らなくていい。だってあのこには末永く、健やかに生きて、ゆっくり死んでほしいから』




