No.58 揺るぎ出す世界⑦
グヴォルト帝国。帝都フォングレイド。
赤絨毯の敷かれた広い部屋。窓際に並ぶ大きな本棚の傍に椅子と机がある。そこでメイジは革張りの本を読んでいた。朝からずっと強い雨が降り、薄暗い空模様をしている。室内から窓の向こうを見ると気分は滅入った。
「……ダウン」
開いている本に目を落とさず、静かに雨の都を眺めながらメイジが呼ぶ。
「何だ?」
離れたところからメイジと同じように外を眺めていたダウンが返事をする。
「今、剣のリングが使用されました。恐らく、アークが魔術を用いて誰かと戦っているのだと思われます。……いえ、ぱったりとそれが終わりましたから、勝敗が決したのでしょう」
「それで?」
メイジの従者となってもダウンの服装は変わらない。フードを目深に被り、常に陰気な顔をしている。主であるはずのメイジに対する発言も敬意など一切なく、ぶっきらぼうな口調だった。
「姉様達は戦争を止められるでしょうか?」
「知らぬ。おれには興味がない」
「……軍は今、着々とドラスリアム軍の進軍に対する準備をしています。姉様達が無事に戦争回避の任を果たせればそれで良いのですが、簡単にことは進まないでしょう」
「何が言いたい? さっさと用件を言え」
「すみません。……ダウン、ぼくは戦争が始まる前にこの城を抜け出そうと思います。この状況下でそのようなことをするのは身勝手この上ないですが、この機会を逃して戦争に突入すればきっと軟禁されて、より厳しい警備体制を敷かれるのでしょう。そのまま戦争が長引けば、ぼくの思い描いていた計画通りに旅へ出ることは困難。だとすれば、今しかないのです」
本を閉じてメイジは立ち上がった。雨が降る中、部屋からテラスへ出る。その身を雨が濡らしていく。
「おれはお前について行く。何をしようとも」
「ええ、心強く思っています。ぼくと一緒に外へ行って下さい、ダウン」
「……どこへ行く?」
「どこかへ。今晩、出ます。それまでにぼくはお金を用意して、旅支度をします。ダウンも旅支度をして下さい。そして誰にも気取られぬよう、出発する直前に玉座の間から剣を取って来て欲しいのです」
「……剣? そんなものがあるのか?」
「はい。玉座の真下です。そこにある剣はこのグヴォルト帝国の宝剣。それを携えて、ぼくは旅に出たいのです。よろしくお願いします」
ずっと遠く、城から見える山の向こうを眺めてメイジは言う。
「旅に出て、お前は何を目指すのだ?」
「世界です」
「世界?」
「何年かかっても、例え死ぬとしても、ぼくは世界中をこの目で見たいのです。地の果て、海の底、空の向こう――。ずっと、夢見ているんです」
傷ついた体を鞭打って階段を登っていたシャオのところへクウが飛んできた。スピードとの戦いで流血し、ぼろぼろになっている体だ。意地だけで手すりに掴まってずるずると上へ進んでいた。
「クウ……。無事だったか、お前……」
クウがシャオの周りを飛ぶ。休憩するようにシャオはその場へ座り込んだ。定位置であるシャオの肩へ乗ると、クウは顔を舐める。
「デュランとアークはどうした……?」
「クゥ……」
問いにクウは小さく鳴いた。眉をひそめ、シャオは優しくクウを撫でる。クウが傷口を舐めると、その箇所に薄い皮膜が張る。血を舐めとり、傷口を舐めていくだけでシャオは楽になっていく。小さいとは言え、クウは竜である。今の世界では、竜は滅多におがめないほど珍しい生物だ。一頭ずつ、不思議な力を持っていると言われている。クウも小さい竜ではあるが不思議な力を持っていた。
「デュランはいいとして……アークだな……。クウ、ちょっと分けてくれ」
そっとクウを抱くと、その小さな体から大量の魔力が流れ込んでくる。胎動する波のようなものを体内に取り入れながらシャオは魔力を回復する。魔術師ではなくとも魔力というのは重大な要素だ。力の源となり、ひいてはこれで多少なりとも体力の回復にも繋がる。しばらくクウから魔力をもらい、一息ついて放した。
「クウ……大切な話をする。よく聞け」
立ち上がり、手すりに掴まることなく階段を駆け上がりながらシャオが言う。クウは不安定に揺れるシャオの頭でくつろぎながら小さく鳴いた。
「もしも、おれに何かあってお前が独りになったら……新しい家族を探せ。お前を可愛がってくれるやつと暮らせ。シュザリアでも、アークでもいい。ただ、おれのことは忘れていい」
クウは鳴かなかった。ちゃんとそれに気付きながらシャオは黙々と階段を駆け上がっていく。そして、激しい衝撃に建物が揺れると同時にデュランとサードのぶつかり合うフロアへ出た。
「クウ、焔鬼! デュラン、お前は上に言って一番を誘き出してこい!」
飛び出したシャオがクウの吐き出した焔鬼を握り締めてサードに躍りかかる。王剣が閃いて斬撃が鳥を模した。シャオはそれを焔鬼で叩き潰すなり、思い切りサードの腹部へ重い一撃をぶつける。
「シャオ・K・エルウィンか――」
苦し紛れにサードはシャオを蹴り飛ばす。デュランは突然の乱入にもかかわらず、一瞬で指示を理解して階段を登っていく。
「さ、悪いけど選手交替のお時間だ」
焔鬼をくるくると回しながらシャオが言う。
「盗賊か。誰であろうが関係ない。――絶光」
王剣が振られる。斬撃とシャオは直感で理解し、焔鬼で受けながら前進する。激しい反発を押しのけ、一気にサードへ迫る。再度、王剣が閃いた。シャオの目前を刃が通過する。ぎりぎりで見切ったのだ。
「灼砲蓮華」
連続で繰り出す突き。超速度の突きは一塊の攻撃と化してサードの身につける胸当てを打ち砕いた。体勢を崩したサードへ腰から引き抜いたブラックシューターを向ける。
「全弾解放。――メテオ・バーンズ」
至近距離でブラックシューターが火を吹いた。全てがサードへ命中し、被弾部が次々と炸裂していく。
「風王の威厳」
シャオの頭上に魔法陣が展開され、即座に発動される。質量を持った何かにシャオは押しつぶされる。だが、それは目に見えず、触れた傍から床へ思い切り叩き付けた。まともに腹部から押しつぶされ、内臓が一瞬で圧迫されてしまう。
「風の魔術って……こんなに威力あんのか……?」
距離を取りながらシャオが呟く。サードが風の魔術を得意とすることは以前から知っていたが、直接対峙することはなかった。有無を言わさぬ強烈な力を感じた。
「おれにとって魔術は補佐的なもの。さほどの威力を持たせてはいない」
起き上がったサードが言う。肩にぶら下がっていた胸当ての残骸を取払って上裸になると、そこには逞しい筋肉があった。
「負け惜しみか?」
「口の減らぬ男だ……。来い。直接見せてやった方がお前も納得するだろう」
「そんなら、存分に見せてもらおうじゃねーの!」
シャオが一気にトップスピードからサードを襲撃する。サードの左後方から焔鬼を振るうが、ほんの一瞬で反応したサードが身を翻して王剣を振るう。焔鬼と王剣がぶつかり合う。
「お前、今のズルしただろ? 当たるはずだったぞ」
「何のことだ。自分の技量の少なさを他人のせいにするな」
「あんたも大概、口が減らないんじゃねえか!?」
王剣を弾き飛ばし、サードの首へ蹴りを放つ。さらに勢いのまま体を回転させて焔鬼を叩き込む。しかし、突如として突風が背後から吹きつけ、大きく体勢を崩した。サードは身を低くして、一気に王剣を斬り上げる。無理な体勢から左手の焔鬼で受けたが、さらに続く斬撃の閃光によって吹き飛ばされた。
「言い忘れていたが、おれは超魔力的知覚能力というものがフォースとして組み込まれている。お前の成すべき行動は全て、筒抜けだ。――禁忌の魔術を使おうとしていることも」