No.35 幽玄谷の試練②
「はぐれたのが幸か不幸か……。思った以上に厄介になってきたな――」
一人、濃霧の中を走りながらセブンは小さく呟く。後ろから追いかけてくるのはゴーストバイソン。木々をなぎ倒し、その根本にいたクラウンクラブを踏み潰すことで濃霧はどんどん湧く。地響きが迫るのを感じ、逃げ切るのを断念して振り返る。ゴーストバイソンが最高速度に達するまでには二分間。それまでは徐々にスピードが上がっていく。もう追いつかれるのは時間の問題。ならば、それは諦めて立ち向かうしかない。
「泥の嫉妬」
いつか交戦した生徒が使っていた魔術。あっさりと下した相手だったが、この魔術の有用性は大いにあった。それを発動すると濃霧の向こうから迫った、巨大な影が突如として目の前で止まる。セブンが独自に改良を加え、相手の足下を絡め取るのと同時にその地面を固めてしまうのだ。ゴーストバイソンの剛毛に覆われた足が大地を突き上げようとしたが、その前にセブンがゴーストバイソンの前脚に片手を触れていた。
「ちょっと眠っててくれ。――雷鐘」
激しい雷光と轟音が発せられて、それに照らされた濃霧が一瞬だけ輝いた。目が眩むどころか、その激しい光はただでさえ網膜が焼きつきそうになるのに、充満する濃霧がそこに含む魔力から光量をさらに増幅させることとなった。固く目を瞑ったセブンも瞼越しに目が眩みそうになったほどだ。ゴーストバイソンがその巨体をその場に横たえるとまたもや地面が揺らいだ。
「さて、まずはこの異常な霧の正体を突き止めないとな……」
倒れたゴーストバイソンに背を向けてセブンが歩き出す。幽玄谷は、谷と名ばかりに木々が密集した森も同然だ。ただ、両端に高い崖があり、その上から見れば立ち込める霧がまるで大河のように見える。そういう訳で「谷」とされてはいるのだが、実際には一度迷えば抜けられぬ森という側面も持っている。
「クラウンクラブだけならまだしも、この霧はそれとは異質の何かが混ざってる……。けど魔力を源にしているから何らかの作用によって動いている魔法陣には違いないと思うが、こんなことをして一体何になるっていうんだ?」
呟きながらセブンは濃霧の中へ歩を進めていく。どこまで行っても白い霧ばかり。この霧をどうにかしないとはぐれたシュザリア達が心配でならない。どうにか原因を突き止めたいのだが、どうしたものか――。
「幽玄谷……。やっぱり、供養させてやらないとダメか、こりゃ?」
あまり気乗りはしなかった。腕を組んだまま、苦い表情をしながらセブンはため息をつく。こうするしか方法はあるまい。この谷の由来となった故人を直接、鎮める。そうと決めるなり、セブンは自身の体から漏れる魔力を抑え込む。鋭敏に研ぎ澄ました感覚が谷全体に溢れる霧の魔力を探っていく。その出所を、流れ来る方向を。目を閉じ、感じるままに歩いていった。
「小悪魔の宴会! ゴーストバイソンをどっか遠くまで連れてって!」
アークが悪魔の懐刀から召喚したゴブリンに命じると、すぐさまゴブリン達がゴーストバイソンの体にしがみついたり、物を投げたりして気を引き出した。そして、注意を向けるとすぐさま駆け出していく。6体の内、1体が残ってアークの前で敬礼をした。
「ボス、他ニ用ハネーノカ?」
「うん、大丈夫だよ」
言い返すとゴブリンが反魔術で開けている視界できょろきょろと周囲を見渡した。クロエを見て、シュザリアを見て鼻を伸ばし、それからアークにまた向き直る。
「ニシテモ、辺鄙ナトコニオ住イデ」
「別にこんな場所に住んでないんですけど」
「ソリャ失敬! ダケド、ボス、ココニ長居スンノハ良クネーデスゼ!」
また敬礼をしてゴーストバイソンを追いかけようとしたゴブリンだったが、シュザリアの声で呼び止められる。
「待って!」
「オウオウ、オ姉チャンヨー、オイラハソコノがきンチョニシカ従ワネーンダガナ!」
「待ってあげて」
「ヘイ、ボス!」
何ともゴブリンの変わり身は早い。シュザリアに食ってかかりそうな勢いだったのに敬礼をしたまま固まって、文字通りに待っている。
「ねえ、何か知ってるの? ここのことを」
「ヘイ、ココハウチラノ間ジャナカナカニ有名ナトコデスゼ! 何タッテ、人間ノ身デアリナガラ魔界ノ半分以上ヲ統治シカケタッツートンデモネー野郎ノ眠ル場所ナンダカラナ!」
「魔界の半分以上を統治?」
アークの問いにゴブリンが頷いて見せた。
「モウズット前ノコトデスゼ! 人間ドモガ、古代大戦トカ何トカ呼ブ時代ニ、幽玄トカイウ人間ガ魔界ニハルバルヤッテ来テ、魔界ノ王トソリャーモー壮絶ナ死闘ヲ繰リ広ゲタノハ有名ナ語リ草ナンダ! ソノ幽玄ガ死ンダッツーにゅーすガ魔界ニ流レタ時ハトンデモネーオ祭リ騒ギダッタンダ! ンデ、ココガソノ幽玄ガ死ンダ土地ダ! 魔界ノ王ヲ殺シタ人間ダカラ、ソコカシコニ呪イノ影響ガ出テル。セーゼー、気ヲツケナ!」
「ねえ、ちょっと……ごめん。きみだけ、別の命令いい?」
またゴーストバイソンを追いかけに行こうとしたゴブリンを呼び止めてアークが問う。するとゴブリンは「ヘイ!」と返事をした。
「その幽玄って人の呪いは解くことが出来るの?」
「ソリャ、難シーニ決マッテル! ケド不可能ナンテ言葉ハ魔界ニャネーノサ! モットモ、ソンジョソコラノ人間ガ解ケルトハ思ワネーケドナ!」
「じゃあ、可能なんだね? それなら、呪いを解きたい。どうすればいいか、教えてくれる?」
いいよね、とアークがシュザリアとクロエを振り返る。すると、シュザリアは少し不安そうな顔をしていたが、クロエは涼しい顔をしながら頷いた。
「アイアイサ! ソシタラマズハ幽玄ノ墓地ニ行クゼ!」
視界全部が真っ白い霧に包まれる森の中では、どれだけ進んだのかも分からなくなってしまう。ゴブリンに導かれて行く3人が時間の感覚を忘れた頃になって、到着が告げられた。クロエが周囲に反魔術の魔法陣を展開すると、そこは崖に掘られた横穴だった。その向こうには霧が漂っていない。ただ、不気味に口を開けた洞窟の入り口があった。
「ここに……幽玄が眠っているの?」
「ヘイ! トリアエズ、オイラハますたーカラ貰ッタ魔力ガ尽キソウダカラ説明ダケシテ帰リマスゼ。ココノ最深部ニ幽玄ノ眠ッテル場所ガアルハズダカラ、ソコデ亡霊ト和解スルナリ、チカラヅクデネジ伏セルナリシテ、幽玄ノ未練ヲ絶チ切ルコトダナ! ソースリャ、呪イダッテ消エテココラ辺ノ霧モドッカヘオサラバデスゼ!」
ゴブリンが言い、アークがシュザリアとクロエを振り返った。それぞれに頷いたのを見て、アークは分かった、と返す。
「ありがとう。じゃあ、またね」
「ヘイ!」
ゴブリンがぼんっと音を立ててその場から消え去った。
「こんな洞窟に入っていくの?」
「そうね。そうしないと霧が晴れそうにないし。仕方ないわね」
「仕方ないのは分かるけど、気は進まないね……。しかも、説明聞いた限りじゃ幽玄を倒さないといけないみたいだし……。魔界の王様と壮絶に戦ったんでしょ?」
「勝てるの?」
「セブンならどうか分からないけれど、わたし達じゃあ難しいんでしょうね。さ、行きましょ」
さらっとクロエが言ってから洞窟の中へと歩き出す。シュザリアの手をアークが握り、クロエの後ろに続いた。3人が洞窟へ入るとクロエが展開していた反魔術の魔法陣を消す。そうして外が再び白い濃霧に包まれると、クロエが火の魔術で周囲を照らすのだった。どこまでも続くように見える、薄暗い洞穴の中は肌寒く時折、ぞっとする冷気が背筋を凍らせた。