【6杯目】 詠唱と無詠唱
エルシャール帝国の帝都ラシフェンは眠らない。
夜が更けても煌々と明かりが灯り、昼間の喧騒と変わらない賑わいを見せている歓楽街のその一画。一見客ではおよそたどり着けない、入りくんだ路地の奥にその店はあった。
『ルンウッド』は軽食と酒の店。
広くもない店内は夕方の開店と同時にすぐに満席となる。雰囲気もいいが、酒も肴も手頃な価格の上に美味なのだ。
ラシフェンの中堅ギルドの受付として働く、トリニティ、イングリッド、アプリコットの独身アラサー三人娘も日頃の憂さを晴らすべく、週末の夜には『ルンウッド』での女子会に華を咲かすのであった。
「黄金に実りし麦の穂よ、豊穣の季節の恵みを吹く風に乗せて我が願いを叶えたまえ。おいしくなーれ!」
麦酒の入ったグラスに両手をかざして目を瞑り、ぶつぶつと呪文のようなものを唱えるトリニティ。イングリッドとアプリコットは不思議そうに顔を見合せる。
「……なにをやってるにゃ? 今日は酔うの早いのにゃ」
「ふうっ。さあ、これでいつもよりも美味しくなっているはずです!」
「それ、もしかして麦酒に魔術をかけてるの?」
ローストして砕いたナッツを振りかけた、蒸し鶏のサラダにフォークを伸ばすイングリッド。
「そうです。モーリスに教えてもらったんですよ」
モーリスとは、挙動が不審になるほどシャイなユーリッヒの魔術師仲間だ。ユーリッヒとは体格も性格も正反対、恰幅がよく気さくな人柄で、誰とでも打ち解ける。同じく麦酒が好きということで、トリニティはもっと麦酒が美味しくなる魔術を教えてもらった。それを実践したらしい。
「トリニティって魔力あったっけ?」
「ありますよ~。ほんのちょっとですけど。イングリッドさんとお揃いです♪」
生まれつき魔力を持っているのは人口の30%ほど。そのうちの99.9%は微量。残りの0.1%弱が鍛えれば魔術師になれるレベル。さらに残りの極々少数は、目指せば魔導師も夢ではない者たちになる。ちなみに、神聖力を持っているのも同じ割合となる。
ごくりと喉を鳴らしてグラスを空けるトリニティ。
「ん~っ! いい感じです!」
「これもお願いするにゃ!」
早速アプリコットはオレンジ色のグラスを、トリニティの前にすすっと滑らせる。
「いいですけど、私が想像できるのは麦酒を美味しくすることです。アプリコットさんの甘いカクテルは、わたしがかけたら苦くなっちゃうかも?」
「にょ?!」
残念そうにアプリコットはグラスを戻す。
「それってさ、必ず詠唱しなくちゃいけないの?」
「そんなことはないんですけど、初心者は声に出したほうが想像しやすいんですって」
「文言も間違えずに覚えなくちゃいけないのかにゃ?」
「それは自由で大丈夫なんです。大切なのは自分の想像だってモーリスが言ってました。だから自分が結果を想像しやすい言葉を使えばいいそうです」
「そうなんだ。うちもやってみようかな?」
イングリッドは丸い氷の入った琥珀色のグラスに両手をかざして目を閉じる。
「……」
興味深くじっと見守るトリニティとアプリコット。
暫くするとイングリッドは静かに瞼を開けた。
「諦めたのかにゃ?」
「もう終わったよ」
「ええっ? 詠唱しないんですか?」
「だって、想像できるのなら声に出さなくてもいいんでしょ?」
「そうですけど。イングリッドさんがどんな言葉を詠唱をするのか聞いてみたかったです」
「イングリッドは器用だからにゃ。まあ、少なくともは『おいしくなーれ』とは言わないにゃ!」
「なに言ってるんですか? 『おいしくなーれ』こそが本質ですよ。そのための魔術なんですから」
「だけど魔術師の詠唱はもっとカッコいいにゃ~?」
唇を尖らせたトリニティはアプリコットの顔の前で、人差し指を立たせて左右に揺らす。
「あれは、テンプレだそうです」
「にゃ? テンプレ?」
「基本のテンプレ集みたいなのがあって、それを元に自分の言葉を創るんだそうです。モーリスが言ってました。上位者になれば詠唱はほぼしないそうですよ」
「そうなのかにゃ」
「ところで……イングリッドさん、どうなりましたか?」
「美味しくなったのかにょ?」
揃ってイングリッドを見ると……。
「えっ!?」
「にょにょにょ!? イングリッド! 大丈夫かにゃ!?」
グラスを片手に頬杖をつき、とろんとした眼差しで頬を赤らめるイングリッド。
「どうしたんですか? ざるのイングリッドさんが酔っぱらっちゃったんですか?」
「あのざるが!? まさかにゃ!?」
「いい感じ……♡」
ほうっとため息を吐くと、なんだか妖艶に微笑み、グラスを揺らして氷をカランカランと鳴らす。
「イングリッド、めちゃくちゃ成功してるにゃ!」
「すごーい! もしかして魔術の才能があるんじゃないですか?」
琥珀色の液体を潤んだ瞳で見つめ、グラスを口元に運ぶ。その艶やかな雰囲気に思わずトリニティとアプリコットは息を飲む。
「なんか……イングリッドの凄みがいろんな意味で増してるにゃ」
「そうですね。これはちょっとヤバいレベルですね」
「すみませ~ん……お兄さん、同じのをもうひとつ」
とろんと潤んだ紫色の瞳、上気した頬。そんなイングリッドに見上げられ、顔を赤らめる店員にイングリッドは悪戯に微笑みかける。
「ん? どうしたの? ……今夜、うちと」
「わあああああぁぁぁ!! なんでもない! なんでもないですぅ!」
「なんでもないにゃ! 同じのもうひとつお願いするにゃ! なる早でお願いにゃ!」
出禁になるのを阻止するために懸命なトリニティとアプリコットに遮られ、追いたてられるように店員はカウンターへと戻ってゆく。
「ふぅ。危なかったですね。ここを出禁になったら大変です」
「もうイングリッドは魔術もナンパも禁止にゃ!」
「ふふふっ」
焦るトリニティとアプリコットを眺めて、愉しそうに微笑むイングリッド。
こうして今夜も『ルンウッド』での夜は、騒がしくも妖しく更けてゆくのであった。