15話「……帰ってきたなぁ」
「……どうして、わたくしは先輩を抱っこしちゃ駄目なんですか?」
「先の悲劇を忘れたのかな? 窒息するからだよ」
「うぅ……」
そして保健室にはまた1人住人が増えた。狐くんに並び、頼りない椅子に眉を下げて座る絶世の美少女。彼女は私の後輩で、リリーという名前の鹿族のお姫様だ。当時13歳、ということは今は18歳か。
まぁ18歳という歳に負けることなく、彼女は色々と育っていた。当時肩までだった髪も、私より少し高かっただけの身長も伸び、容姿もぐんと大人びた。特筆すべきは先程私を圧死させかけた胸部だろうか。……ちと下世話だが。
「……セクハラだぞ」
「ぴっ! か、返す言葉もなく……」
ベッドの上に座り込み、初めてお目にかかるレベルのどデカい山に思わず視線を逸らせずにいれば、先輩からデコピンが飛んできた。地味に痛い……が、これに関しては完全に私が悪いので受け入れざるを得ない。後輩にセクハラする先輩とか最悪以外の何物でもないだろう。
「でも、でもでも! わたくし我慢したのですよ? ラクヨウ様が、今はシスイ様に譲って差し上げろと……!」
「手負いの獣から子供を奪えと? あの状態の幻雲殿からラペを引き剥がすのは、どう考えても得策ではなかっただろう」
「ぐぎぎ……」
「やめなさいその唸り声」
痛む額を撫で付けつつ、私は低レベルな舌戦を繰り広げる2人を見てなんだか懐かしくなった。リリーが即負かされ、淑女らしくない振る舞いに狐くんがケチを付けるところまでお約束。まぁでもこれ以上後輩が虐められるのを黙って見てるのは、先輩としてちょっとあれか。
「リリー、おーいで」
「っ、先輩……!」
「お膝座ってもいい? これなら抱きしめても大丈夫だよ」
「わ……! はいっ、はい……!」
ぱたぱたとこちらへ駆け寄り、隣に座り込んだリリーの膝の上に座る。うむ、これならば窒息という危険を避けられるだろう。私を後ろからぎゅうぎゅう抱きしめる彼女も幸せそうだ。……私としては全体的に柔らかい椅子に、なんだか落ち着かないのだが。
……ん?
「……開花したの?」
「……はい。すごく幸せで」
ひらりと、視界の端を舞った何か。反射的に上を見上げれば、そこには幸せそうな笑顔と……彼女の頭から伸びた角に、花が咲く光景があった。おお、桜の花だ。
鹿族は幸せや高揚を得た時、角に花を咲かせる。白い幹から花が咲く光景は、昔と変わらず美しい。花よりも美しく咲き誇る、リリーの笑顔も相まって。
「先輩、先輩……居るんですよね、ここに」
「……うん」
「……ずっと、ずーっと、長く終わらない、悪夢を見ているようでした。仇敵を倒したというのに、この先の人生から彩りが消えていってしまったようで」
「……ごめんね」
「いいえ、先輩は帰ってきてくださった」
ひらひらと、散っては咲く桜。その花びらが祝福するように私へと落ちてくる。見上げた私の頬に落ちたそれを優しく払ったリリーは、淡く微笑んだ。
「……おかえりなさい、ラペ先輩。わたくしの色彩を司るお方」
「ただいま……だけど、後半のそれはちょっと恥ずかしいかな」
「え?」
「色彩を司るお方」 その文言は、ちょっと恥ずかしかったけど。うんまぁ、後輩の言葉を受け止めるのも先輩に必要な素質だ。何が何だかわかってないらしいリリーから目を逸らす。無自覚ポエマー恐ろしや。
「全く相変わらずリリーは詩人というか……ねぇ、狐……くん……?」
「ラ、ラクヨウ様!?」
花が咲いたことでか緩んだ空気。先輩までもが微笑ましそうに見つめてくるのに気恥ずかしさを覚え、わたしはそこで狐くんに話を振ろうとした。狐君がいつものようにリリーをからかい、怒らせ、そうしてこの生ぬるい空気を変えてくれればと思ったのだ。
しかし視線を動かした先、私はそこで待っていた光景に思わず硬直した。なんでかって? さっきまで余裕の笑みで佇んでいた狐くんが、何故かはらはらと涙を流し始めていたからである。
「ちょ、ちょいちょい狐くん!? どどど、どうした? リリーの発言がふわふわ過ぎて食あたりでも起こした!?」
「先輩……!?」
「聞いてて痒くなったがそこまででもないだろう。そもそも腹に入れてない」
「シスイ様……!?!?」
私はぽんと柔らかい椅子から飛び降り、慌てて狐くんへと駆け寄った。なんか余計な事を口走った挙句、先輩がそれに便乗した気がするが気にしてはいけない。なんとなく後ろのリリーがショックを受けているような気はするけれど。
狐くんの目の前に立ち、ひらひらと眼前で手を振ってみる。その間も黄色と緑の瞳からは涙がぽろぽろと零れていた。いやマジでどうした。突拍子が無さすぎて心配よりも困惑が勝つのだが。
「……あまり、大騒ぎしないでくれるかな?」
「いやするわ。君が泣くのなんてあの時私に負け、」
「泣いてる時ぐらい余計な事を思い出させるな」
「あっうん……」
おっと、混乱のあまりまた余計なことを口走ってしまい、泣きながら狐くんに睨まれてしまった。ああうんそうだね、アレは君にとって黒歴史だもんね。触れた私が悪かった。
マジの口調に思わず口を噤みつつ。そのまま無言で見守れば、やがて狐くんは乱暴に自分の目元を擦った。逸らされた視線には気まずさが滲む。けれど3人分の視線が突き刺さっているせいか、やがて狐くんは渋々と言わんばかりに口を開いた。
「……ごほん。別に、大したことないさ。ただ、」
「ただ?」
「…………」
口を一度開いて、躊躇うようにまた閉じて。だがこの状況から逃げられるなんて甘い事は考えなかったのだろう。普段は姿勢よくピンと伸ばされた耳。それをへたらせながら、狐くんは瞳を伏せた。
「……君が生きていて、シスイ殿が正気で、リリーの角には花が咲いた。5年ぶりに当たり前の光景を取り戻したと、そう実感しただけだよ」
「……ラクヨウ」
……その言葉は、想像よりも心に深くに沈んで。そっか、そうか。君だけ何も変わってないななんて、そんなことを思ったけれど。変わらない分の寂しさを背負ったのは、君だったのか。
友を失い、仲間は徐々に狂気に落ちていって、妹分の笑顔が消える。思ったよりも私はこの悪友に、重いものを背負わせていたらしい。師匠の世話をするだけでもこの存外にお人好しの彼には辛いものがあっただろうに。この5年分のストレスで、円形ハゲが出来ていなければいいのだが。
「ら、ラグヨウざまぁ……!」
「……心配をかけたな」
「あーもう! こういう空気になるから嫌だったんだ!」
私と同じことに思い至ったのか、リリーと先輩も心配顔だ。いや1名に至ってはまた泣いている。多分、こういう反応をされるとわかっていたから狐くんは泣きたくなかったのだろう。それでも嬉しさのあまり泣いてしまったと、そういうことらしい。
「いやー、狐くんがそんなに私達のことを好きだとは思わなかったよ」
「…………」
「ごめんて、そんな睨まないでよ」
しんみりとした空気をわざと流すように茶化して見せた。またしても睨まれてしまったが、少しは感謝して欲しいものである。沈まれるよりも茶化される方が100倍マシだろうに。
「……ま、色々ありがと、悪友」
「……いいさ、君が次は勝手に死なないなら」
「ん、約束な」
まぁ、労りの思いは込めておいてやろう。労うように肩をぽんと叩く。そうすれば狐くんは変わらず口元を不機嫌そうに歪めながらも、ふっと眉根を緩めた。……いや、割とマジで感謝はしてるんだよ。
だって多分彼が頑張らなければ先輩は。そして、私は。過ぎったIFは一瞬の内に投げ捨てて、私は口元を弛めた。
若干罪悪感の残る表情の先輩、ひんひん泣いてるリリー、それを慰めてる狐くん。
「……帰ってきたなぁ」
その3人が揃ってようやく、私は帰ってきたという実感を得た。だってここには、私が命をかけても守りたかった全部が揃っているのだから。