14話「……さて、そろそろ泣き止んだらどうかな?」
先輩と師匠の相性はとても悪い。それは本人達の性格のどうこうもあるが、それ以上に2人の出会いのきっかけになったとある事件がその溝を大きく広げていた。その溝の深さと言ったら、最早埋め立て不可能なレベルである。
まぁその事件についてはおいおい話すとして。とにかく今は先輩がこの世で一番……もしかしたらウロボロスよりも師匠の方が嫌いかもしれない、ということだけを頭に入れておいてほしい。
だから師匠の容赦ない一撃でほっぺを怪我したことを、まだちょっと情緒が不安定そうな先輩に教えるのは大分危険というか。
「……ラペ、聞こえてるだろ」
「…………」
「その傷は誰にやられた。お前はそれだけを答えればいい」
い、言えね~!!! 鋭く光る瞳に、私はきゅっと口を噤む。答えた瞬間龍VS竜の大戦争が始まるとわかっている以上、沈黙以外の正解はない。種族的には近しいらしいんだから仲良くしてくれないだろうか。いやそこまでは望まないから、せめて私を理由に喧嘩をしないでくれないだろうか。
「せ、せんぱ~い、ラペちゃん喉乾いたな~って……」
「お前の好きなオレンジジュースは用意してある。あと腹が減ってる可能性もあるとパンも複数個用意した」
「うえ……」
「答えた後なら好きに食べていい」
く、決死の「先輩を一時的に追い出してその間に寝ちゃおう」作戦、失敗である。先輩は私の扱いは何かと雑だが、食欲を満たすという点に置いては驚くほど丁重であるのだ。よく見れば、メガ盛り焼き蕎麦パンとチョコチップまみれメロンパンがすぐそこに……!
ここで食欲に負けるのは多分、人間として駄目だ。だが先輩を説得することの難しさを思えば、負けてもいいんじゃないかという諦めが頭を過ぎる。ここで「先輩だって私の首絞めたじゃん」とか言えば話は早いんだろうが、そんなことを言った日にはこの人この場で自害しかねないし。
「……そこまでにしてくれるかな、幻雲殿」
「っ、狐くん……!」
「…………」
この状況に陥った時点で詰みでは、と半ば諦めかけていた私。しかし天はそう簡単には人を見捨てない。突如としてがらがらと保健室の扉がスライドしてったかと思えば、そこから黄緑の耳が顔を出す。現れた援軍に、私は弾んだ声を上げた。
「やぁラペ、さっきぶりだね。体調はいかがかな?」
「さっきまで死ぬほど悪かったけど今元気! たまには役に立つね君!」
「なんだろう、来てすごく損した気分だ」
登場早々口の端を引き攣らせ、やれやれと肩を竦めた狐くん。だが憎まれ口を叩きながらも帰る気はないのだろう。奥で積み重ねてあった円状の椅子を持ってきたかと思えば、狐くんは先輩の隣に座った。向けられた鋭い視線も何のその、嫋やかな笑みがそのムカつく顔に浮かぶ。
「幻雲殿、心中痛いほどお察しする。だが、ここはどうか手を引いてくれ」
「…………」
「貴方の怒りもご尤もだ。"白百合"が聖典を唱えても尚治らない傷をラペに付けたのは、あの方に変わって僕が謝罪しよう」
「……お前の謝罪は求めていない」
「そうかい。しかしいくら望んだところであの方から謝罪は引き出せないよ」
……なんだかな。狐くんが先輩の暴走を止めに来てくれたのはわかってるんだが、それでもなんか先輩に味方したくなるんだよな。私はバチバチ冷戦状態の二人の隙を突いてパクったオレンジジュースを飲みながら、独りごちた。
なんだろ、やっぱ誠実さが無いっていうか? 口手八丁って感じがするというか? けれどいくら天の邪鬼な私でも、流石にここで口を開く気はない。もし狐くんが先輩を宥めることに失敗し火に油を注いだら、最悪学園に……いや、下手したら神竜都にでっかい風穴が開くことになるからである。
「今回の件は、あの方の方にも一応正当な理由があった。……そうだね、ラペ?」
「ん? このほっぺのことなら、まぁそうかな」
「…………」
「彼女もこう言っている。二度目はないと約束をするから、怒りを収めてくれ」
だからまぁ今回ばかりは協力してやることにした。「あの方」なんてわざと名前をぼかす狐くんのやり口に感心しながらも頷けば、先輩は何か言いたげに口元を動かして。しかし真剣に狐くんに見つめられれば、ここでごねるのも大人げないと思ったのだろう。
「……ラクヨウ、今回はお前の顔を立てる」
「……助かるよ、"先輩"」
「やめろ気色悪い」
落ちた溜息を皮切りに、バチバチ状態から打って変わり気安い空気が流れる。"後輩"の顔を立てたにしては先輩は苦い顔だったが、まぁそれも当然だろう。こんな作られた笑顔を浮かべる可愛げのない後輩は私だって嫌だ。どうせならもっと素直で純真で、真っ直ぐに私を慕ってくれるような……。
あれ、そういえば今。
「……狐くん今さ、白百合って言わなかった?」
「ああ、言ったよ」
白百合。聞き捨てならなかったその一言を拾い上げて尋ねれば、狐くんは意地悪く微笑む。その姿に確信は尚の事深まった。
「……私を治したの、カメリア先生じゃないの?」
「ああ、幻雲殿の命令でね。彼女よりも腕のいい鹿族に救援を求めたんだ」
「来て、くれたの?」
「そうだとも。彼らは殆どが幽世にて安寧の日々を紡ぐことを願うが、君も知っての通り一部には例外が居てね」
「れい、がい……」
まさか。まさかのまさか。確信を避ける狐くんの言い方にもどかしさと苛立ちが募り、けれどそれ以上に冷静で居られない。
前に説明した通り、聖典を扱えるのは特製の耳目を持って生まれた鹿族のみ。しかし彼らは基本的に引きこもり。俗世は汚れていると最初の降臨者が作った幽世から出てこない。その例外の1人がカメリア先生だ。彼女は長い時を生きる鹿族であり、学園で保健医を務められるだけあって腕はかなりいい。
そんな彼女よりも腕のいい鹿族で例外なんて、心当たりは1人しか。
「……さて、そろそろ泣き止んだらどうかな?」
「え、」
狐くんの言う例外に、心当たりが無いわけがない。でも彼女に会うにはもっと色んな手続きが必要で、だからきっと会うのはもっと先になるだろうって。そう思ってたからこそ、心の準備が出来てなくて。なのに待ってもくれず、立ち上がった狐くんは保健室の扉を開ける。
……いや待って。今「泣き止んだら」って言わなかったか?
「うぇ……ずびっ……ひど、ひどいでず……」
「……君は相変わらず、泣き方がレディじゃないというか」
「そぇを言うならっ、うぅ……ラグヨウざまだって、紳士じゃありまぜん……!」
「おっと、一本取られた」
扉がスライドした瞬間、聞こえてきたのは女の子の泣き声。その声は到底ドア一枚で隠せるものではなく、私は「あ、こいつ音を魔法で遮断してやがったな」と黄緑の頭を睨みつけた。相変わらずサプライズに掛ける熱量がすごいことで。ちなみに褒めてない。
「だっであうならっ、わたぐじ、もっとちゃんとっ、せんばいに……!」
「そのちゃんとには何年かかるんだ。いいから早く顔を見せてお上げ」
「ゔぅ……」
……その声は、記憶のものよりは大人びていたけど。でも根の部分は何も変わっていない。透き通る秘境の湖畔を思わせるような、誰にも踏まれていない新雪を思い出すような、綺麗な声。私はその声に「先輩」と呼ばれるのがすごく好きで。
ベッドから降りようとする素振りを見せれば、先輩が足元にスリッパを用意してくれる。その厚意に甘えてベッドから脱出。扉へと近づけば、春を思わせる桃色の髪が目に映る。
「……リリー」
「……せんぱ、い」
図ったようなタイミングで黄緑の壁が引いていく。そうすればその先には、チェリーピンクの瞳を真っ赤に染めた世界で一番可愛い女の子が居た。伸びた髪、伸びた背。けれど真っ白な鹿を思わせる角と肌と、瞳の中に咲いた白百合は変わらぬまま。
「……ただいま、リリッ、……!」
「先輩……!」
その言葉は最後を言い切る前に、感極まった後輩の抱擁で断ち切られて。当時13歳、私の1つ歳上の可愛い後輩はすっかりと色々と大きくなっていた。その胸で危うく、窒息死しかけるくらいには。