7completely impossible I
16.55タイム。
ファウル・ウェザー病院の院長室で、彼は片肘を突いてモニターを見つめていた。
17タイムになれば、心待ちにしていた番組が始まる。この日は彼にとって、いや、この〝結界都市〟の住人達が心待ちにしている時間でもある。
事実この時間帯は、急患は元より外出者や犯罪すらも少ない。それだけこの時間帯を楽しみにしている者が多いということだ。
早々に仕事を終えたファウル・ウェザーは、「余程のことがない限り呼ぶな」とスタッフに告げ、院長室に籠もってしまった。
スタッフ達も慣れたもので、それをどうとも思わないのが実際だが。
そして院長室に籠もったファウル・ウェザーは、時計を気にしつつ座り心地の良い椅子に深く座って肘掛を指で叩きながら、時間が経つのをじっと待った。
するとそのとき、コールが鳴る。それは外線、然も直通だった。
彼に直通で連絡を取れる人物は、極めて少ない。更に言うならば、それはたったの四人であり、内二人は《《余程のことがあっても連絡しない》》し、連絡も来ない。
その二人とは、DBとリケットのことだが。
そして残りの二人の内の一人には、実はファウル・ウェザーの方から連絡を取ることが多い。
その相手も実は、ファウル・ウェザーには全く連絡しない人物だったりする。
普段はあまり――いや、全くといっていいほど動じない彼も、このときばかりは動揺した。
そして受話器を取り、
「何の用だ?」
不機嫌も露にそう言った。そういう態度をとるファウル・ウェザーも珍しい。
『あら、つれないのね。折角私が珍しく電話をしたのに』
それは、彼にとって慣れ親しんだ女性の声。そして直通連絡が許されている一人であり、且つ彼の心が最も穏やかにある人物でもあった。
だが今の彼にとって、それは余り有難くないものでもあったが。
「……嫌がらせか?」
やはり不機嫌に、ファウル・ウェザー。他の病院関係者がその声を聞いたのなら、恐怖の余りその場に凍り付くだろう。
だがその電話の先の人物は全く動揺せずに、
『まぁ、それもあるけどね』
笑いながらそう言う。彼に対してその態度が許されるのは、電話の先の彼女だけだ。
それ以外はリケットだろうとDBだろうと、ただでは済まされない。然も今の彼は、非常に機嫌が悪い。
「用がないのなら切るぞ」
言い放ち、受話器を置こうとしたが、
『まあまあ、慌てないでよ。すぐ用は済むわ。私だって大切なお客さんをお座成りになんか出来ないしね。例の物が出来たわよ。でもね、別の方からも特別注文が来ているのよ。そっちは貴方の支払った料金の倍額を提示してくれたわ。それに――ちょっと事情があるらしくてね。だからどうしようかと思って連絡をしたの』
その言葉に、少しだけ考え込むファウル・ウェザーだった。どのような治療のときでも、一切動揺せずに即決する彼が迷う姿を、彼を良く知ると自称する者が見たのならば、それは絶対に間違いだったと思うだろう。
『……迷う気持ちは判るわ。特別注文品は私の手作りだから直ぐには出来ないからね。でも個人的な意見だけど、此処は貴方が諦めて欲しいな』
「何故だ?」
その意外な言葉に、彼は耳を疑った。彼女もプロである。そのような優先順位をつけることはない。
彼女はどれほどの金額を積まれたとしても、注文順に仕上げることが誇りでもあった。
だがそれを、敢えて曲げると彼女は言う。それが、彼には信じられなかった。
『理由は、言いたくないなぁ。ゴメンね』
「……解った。君がそうしたいのなら好きにすれば良い。私は待つことにしよう」
溜息を一つ、そしてファウル・ウェザーは言った。
だがそれは諦めたわけでも、呆れたわけでもない。彼女が信念を曲げてまでやりたいということを、否定出来る筈がない。
『ありがとう。ゴメンね、迷惑掛けちゃった』
「気にするな」
『後でご飯奢るから。それじゃ、バイバイ。愛しているわ、ファル』
そう言うと、彼女は返答を待たずに電話を切った。
相変わらず忙しいようだ。そう呟いたファウル・ウェザーは、再び真剣な表情でモニターを見詰めた。
時刻は16.57タイム。かなり話をしていたと思ったが、実際はそうではなかったらしい。時間の流れがゆっくりと感じられ、ファウル・ウェザーは溜息を吐いた。
「溜息ばかりついているとねぇ、幸せが逃げるよ」
不意に声がした。そしてその方向を見ると、スーツを着た男が立っている。
「貴様……」
ゆっくりと立ち上がり、殺気の籠もった声で呟く。だがそれでも、男は飄々としていた。もしこの場に誰かがいたのなら、その男は余程の自信家か、只の莫迦なのだろう思う筈。いや、どちらかというと後者としか思わないだろうが。
「おやおや、怖いねぇ。一体どうしたんだ?」
男が揶揄するように言う。その声が、気に入らない。だがそれよりも許せないのは、幾らモニターに夢中になっていたとはいえ、そして電話をしていたとはいえ、この男の侵入に気付かなかった自分自身だ。
「また、貴様らか。『ウルドヴェルタンディ・スクルド』の人間が私にいちいちなんの用がある?」
「あれ、バレてたの? ま、いっか」
後頭部で手を組み、全く悪びれた様子もなく部屋を歩き回り、そしてモニターのチャンネルを見て顔を顰めた。
「天下のドクター・ファウル・ウェザーが、こんな詰まらない番組を見るのはどうかと思うけど? まったく、大人しくしていれば良いのに……。『クラウディア』の阿婆擦れ女め」
その瞬間、ファウル・ウェザーの長く美しい黒髪が波打ち、そしてその双眸が橙色の光を宿した。




