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ぼっちな俺はクーデレお嬢様の胃袋を攻略してしまったようです。

作者: 山夜みい


「完璧美少女って本当に居るんだな」


 円城雪姫(ゆき)を最初に見たとき、俺は思わず呟いていた。

 高校の卒業式を終えたあとの謝恩会。

 保護者を招いて食事や飲み物を提供する場で、料理を振舞うことを頼まれた時だ。


「ーーこうして無事卒業生を送り出せたのは、皆様の教育あってのものです。ありがとうございます」


 艶やかで甘い香りを振りまく夜色の髪、

 目鼻立ちの整った彼女は大和撫子を体現したような美少女だ。

 登壇した彼女が言葉を発するたびに誰もが魅了され、目を奪われていく。


「生徒会長として、先輩方は私の誇りです。卒業後のますますのご繁栄をお祈り申し上げます」


 そうして締めくくられた言葉に割れんばかりの歓声が沸き起こる。

 笑顔で会場に応えながら降りる彼女に、校長や保護者達が次々と褒め言葉を投げかけた。

 その中には外国人講師の男性も居たが、


「Yuki. I can't believe I can't see you anymore」

「John. I miss you too. Do it well over there」


 英語で話しかけた言葉にも流暢な英語で応えて見せる。

 帰国子女である彼女はバイリンガルで、何国語も話せるというのだ。

 一説には大学への飛び級の話もあったというが、真相は知らない。


(すげー英語。何言ってんのか全然分かんねぇ)


 と、俺が苦笑していたその時だ。


「円城さん。ちょっと話したいんだけど、いいかな?」


 円城雪姫に、背の高いイケメン卒業生が近づいた。

 確か、全国大会にも出場したサッカー部の部長兼エースだったか。

 プロへ勧誘されたという噂も聞いたことがある。


「見て、あれあの二人……!」

「嘘……!まさか……?」


 美男美女が二人きりで話をする……

 これは観衆の想像をかきたてるゴシップだろう。

 どこからか黄色い悲鳴も上がったが、


「……不躾なのですが、それは告白でしょうか?」

「…………ここではちょっと……」

「告白でしょうか?」

「いや、まぁうん、そうだよ。君が好きなんだ」

「申し訳ありませんが、お断りします。では」

「え……」


 呆然とする先輩を置き去りに、円城は去っていく。

 イケメンだろうが何だろうが容赦なく撃沈だ。公衆の面前であれはキツイ。


 ーーそう、円城雪姫は男子に対してかなりクールだ。クールすぎるほどに。


 どんなイケメンからも、どんな秀才からのアプローチも尽く袖にする。

 そんな彼女についたあだ名は『天上の雪姫(ゆきひめ)』。


 決して届かぬ美しさを持ちながら手を伸ばさずにはいられない。

 そんな高嶺の花としてつけられた名前だそうだ。


「……居るところには居るんだな、ああいうの」


 ともあれ俺には関係のない話でもある。

 会場を歩いて配膳しているのに誰からも声を掛けられず、

 あまつさえ人にぶつかっても「今誰かいたか?」と言われる俺には無縁の話だ。


 バイト三昧でクラスでもぼっちな俺のことなんて向こうは知らないだろうし、

 あんな完璧美少女に声をかけるなんて考えただけでも恐れ多いまである。



 ーーそう思っていたのに。



「ねぇ零次くん、着替えさせてくれない?」

「自分でやれ馬鹿!」


 ーーまさか、こんなにもダメ女だったなんて……!


 貴族屋敷のような広い円城家の一室、

 あろうことか円城雪姫の自室で俺は頭を抱えていた。


「私、一人では着替えられないの。ねぇ脱がして?」

「誰が脱がすか!」


 部屋には教科書やら、着替えやら、食べかすやらが転がっている。

 脱いでは散らかし、食べてはそのままにした、まさにゴミ部屋である。


「そ。じゃあ二度寝するわ。零次くんが着替えさせてくれないなら不貞寝するわ」

「俺のせいみたいに言うなダメ女」

「この絵にかいたような完璧美少女に向かってダメ女だなんて、失礼な男ね。普通過ぎて周囲の景色に溶け込んでしまいそうな凡庸な顔をした零次くんには、美少女の着替えを手伝うのはハードルが高かったかしら。気付かなくてごめんなさい。……これだから童貞は」

「童貞は関係ねぇだろ……お前が一番失礼だよ!」

「あら。褒めても何も出ないわよ?」

「褒めてねぇ!」

「気持ちのいい突っ込みね。やはり私の目に狂いはなかったわ」


 どやぁ、と髪をかきあげる寝巻き姿の円城雪姫。

 今さらお嬢様ムーブをかましても色気も何もあったものじゃない。

 もはや気分はダメな妹を起こす兄の気分だ。俺に妹はいないから知らんけど。


「ぼっちな零次くんの才能を見出した私に敬服するといいわ」

「全く嬉しくねぇ……」


 俺がコイツとこういう仲になったのは、ここ最近の話だ。

 何の接点もなかったのに、コイツは全校生徒の中から俺のことを探し当てやがった。


「はぁ……どうしてこうなった」


 忘れもしない、あれは半年前の話だーー。



 ◆



 ーー『天上の雪姫(ゆきひめ)』が恋人候補を探しているらしい。


 そんな噂が流れたのは謝恩会が終わって一ヶ月が経った頃だった。

 完璧美少女の衝撃が大きかった俺は、クラスメイトの噂に思わず耳を傾ける。


「ーーそれってマジなん? あの花村先輩でも撃沈したカタブツだぜ?」

「なんかニ、三年の男子に声かけて回ってるらしいよ。呼び出されて面接みたいなのやるんだって」

「マジかよ。亮太、立候補してきたら?」


 前坂亮太は学年でも女子人気ナンバーワンの優男だ。

 どれくらい優しいかというと、俺に話しかけた事があるくらい優しい。

 なにそれ天使かよ。

 確かにアイツならいけるかもな……と思ったのだが、


「いやぁ。実は呼び出されたんだよ。でも駄目だった」

「はぁ? バスケ部エースで成績も全国模試で上位常連のお前が無理とかどんだけ理想高ぇんだよ!」

「そう言うわけじゃないっぽいよ? ていうか恋愛話でもないっぽい。なんかさ……」


 前坂はそう言って声を潜め始めた。

 ここからじゃ聞こえない。

 「マジ?」「やっべー」「何それ」とかそんな言葉ばかりだ。

 めっちゃ気になる……俺も言いたい。なにそれやっべー。マジ卍。


「まぁ、俺には関係のない話か……」


 欠伸を噛み殺し、机に伏して昼休みの惰眠を貪る俺。

 恋人を探しているとかどうだか知らないが、円城雪姫もさすがに俺には声をかけないだろう。

 むしろ存在に気付かない可能性まである。それはさすがに心が痛むんですけど。

 とはいえ授業まであと三十分。昼寝をするには充分すぎる時間だ……。


「ーー杜若(かきつばた)零次くん。居るかしら?」

「……………………」


 え、マジ? マジで来たの?

 やっべー。何それやっべー。これ起きるべき?


 クラス中の視線が俺の背中に集まっているのを感じる。

 このまま居眠りを決め込もうかと思ったが、訪問者が去る気配はない。


 ……仕方ない、起きるか。


 身体を起こすと、マジで円城雪姫がいた。

 こうして間近に見ると、並外れた容姿がよく分かる。


「…………俺が杜若零次ですけど」

「あなたが……そう。少し聞きたいことがあるのだけど、来てくれる?」

「はぁ」


 生徒会長さまからの呼び出しを断る事は出来なかった。

 やだ俺ってば小市民……!

 立ち上がって教室を出ると、クラスの連中が一気に騒ぎ出す。


「マジか。アイツにまでお呼びがかかったぞ……!」

「ていうか誰アイツ。あんなのクラスに居たっけ」

「だから言ったじゃん。ていうか青柳、知らないの? 杜若くんってさ……」


 おい、今俺の事ディスったの誰だ。

 青柳だか黒柳だか知らなねぇど、俺もお前のこと知らねぇよ。

 と、そんな悪態をつきつつ連れて来られたのは生徒会室だ。


「単刀直入に訊くわ」


 円城雪姫は迷うことなく生徒会長の椅子に座り、

 取り調べにかかる警官のように口を開いた。


「あなた、クロワッサンを作れる?」

「は?」


 ……クロワッサン? 

 クロワッサンってあのクロワッサンだよな? パン屋さんで売ってるやつ。

 いやでも、なんでクロワッサン?


「あなた、クロワッサンを作れる?」


 円城雪姫は真顔で繰り返す。

 相変わらず意図が全く読めなかったが、さすがに答えないとまずいか。


「はぁ……作れます、けど」

「…………!」


 円城雪姫が目を見開いた。


「そ、そう」


 忙しなく髪を撫でつけ、ぐるぐると毛先をいじり始める。


「じゃあ……そうね、謝恩会に関係者として出席した……?」

「あぁ……はい。先生に頼まれたんで」

「……………………!!!」


 ごくり。と唾を呑む音が聞こえた。

 幽霊でも見たみたいな顔……ていうか今やっと俺の方を見たって感じだ。

 確かな答えを得るために迂遠に質問を重ねている気がする。


「……それが何か?」

「……いえ、全く問題ないわ。えぇ。むしろパーフェクトよ。エクセレント」

「は?」

「つまり、えぇ、そうね。私が聞きたいのは……」


 いよいよ本題に入るらしい。

 いや既に本題なのか? もう分からん。

 円城雪姫は俺の一挙手一投足を見極めるように見つめて、


「あなたは、謝恩会でクロワッサンを出した?」

「出しましたけど」

「……………………………………!!」


 愕然とした顔、というのはこういう顔を言うのだろう。

 ただ、俺の方は全く意味が分からなかった。


「やっと、見つけた」


 学校一の美少女であり生徒会長の円城雪姫に突然呼び出されたかと思えば、

 なぜかクロワッサンを作ったのかと聞かれているのだ。マジでなにこれ。

 しかもーー


「な、なんで泣いてるんですか!?」


 円城雪姫はポロポロと涙を流し、嗚咽を上げ始めた。

 目の前で美少女に泣かれてすぐに対応できる童貞が居るだろうか? 

 俺はおろおろするしかなくて、手を伸ばしたり引っ込んだりするしかなかった。


「ごめんなさい。あまりに嬉しかったものだから」

「はぁ……いやすいません、全く状況が読み込めないんですけど」

「そうね。まずは真相を確かめるためにも……杜若くん、あなた、ちょっと付き合ってくれない?」

「………………へ?」


 付き合って、付き合って、付き合って……

 脳内に円城雪姫の言葉が木霊する。


「ぇ、と……」


 ーーいやいやいやいやいや、いや待て、待つんだ俺!


 何を想像してるんだ、その付き合ってじゃないだろ!

 中学の時に可愛い子に呼び出されたのに俺に告白する事が罰ゲームだった絶望を思い出せ!

 はぁ……ふぅ。よし、落ち着いた。やっぱり持つべきものは黒歴史だな。


「すいません、ちょっと失礼します」

「え?」


 立ち上がり、生徒会室をくまなく漁り始める。

 机の下、椅子の下、半端に開いている棚の隙間など、細かい所をチェック。


「……監視カメラはないようですね」

「何をしてるの?」

「ドッキリじゃないかと思ってカメラを探してました」

「ドッキリ……? いわゆる芸能番組における表現手法の一つ、かしら。生徒会長の私がそんな事するわけないじゃない」

「それはどうですかね……俺はあなたのこと殆ど知らないので」

「へぇ?」


 円城雪姫が面白がるように目を眇めた。

 そう、俺はこの人の事を殆ど何も知らないのだ。

 もちろんお噂はかねがねといった感じだが、実際に会って話したことないし。

 まずは人となりを知らないと、性格云々は判断できない。


「あなた、面白いわね」

「そうでしょうか……」

「えぇ。全校生徒の中から見つけ出した甲斐があったわ」


 本当に全校生徒から探してたのかよ。実は暇人か?

 一つお願いがあるのだけど、と生徒会長は前置きして、


「やっぱり、放課後付き合いなさい。調理スタジオを借りておくわ。そこでクロワッサンを作ってほしいの」

「はい……? さっきから思ってましたけど、なんでそんなに……」

「あなたが嘘をついているとは思わないけど、念のためよ。放課後は空いてるわね?」

「…………まぁ、空いてますけど。バイトは休みだし」

「じゃあお願いね。用はこれで終わり。貴重な昼休みを使ってくれてありがとう」


 詳細な場所と地図をスマホに送られ、あれよこれよという間に生徒会室を後にする俺。改めてスマホを見ると円城雪姫のLINEが映っていた。


「マジかよ……」


 学校一の美少女の連絡先が登録されているなんて、俺、今日死ぬの?

 もしくは俺が気づいていないだけでやっぱりドッキリ?


「いや、そうじゃないよな……」


 ドッキリを仕掛けるような性格には見えなかったし……

 そもそもドッキリを知らない様子だった。

 正直言って何が何だか分からないが、やる事はクロワッサンを作ればいいだけだ。

 まぁどうせ帰っても暇だしな。と俺は予鈴を聞きながら、教室へ向かう。


 ーーほらぁ! やっぱり『付き合って』ってそっちの意味じゃなかったじゃん!


 胸のドキドキは、しばらく止まらなかった。



 ◆



 調理スタジオというのは割とどこにでもあって、例えるな音楽のライブハウスに似たような感じがあると思う。知っている人は知っているし、注意して見なければそこにある事すら気付かない。お金はかかるし自宅から離れているのが面倒くさいが、綺麗なところも多いし場所によっては最新設備が置かれているから、撮影する時とかによく使われている。


 今回俺が足を運んだのは、とある雑居ビルにあるレンタルスタジオだ。

 円城雪姫が手配したのだろう。既にクロワッサンの材料が揃えられている。

 ご丁寧に五種類のバターと八種類もの小麦粉まで揃っていた。


「えっと……とりあえずクロワッサンを作ればいいって話だよな」


 目的も意図も何も分からないまま、ただ身体が覚えている作業に身を任せる。

 クロワッサンというのは安さの割に鬼のように手間がかかる、パン屋のブラック具合を代表するパンだ。

 最初にバターを薄く延ばして冷やしておくところから始め、小麦粉類と卵やイーストなどを混ぜて生地にしてから一、二時間ほど寝かせる。

 それからようやくバターを包む作業に取り掛かれるわけだが、ここからがまた長い。


 何度も生地を織り込んで、三〇分冷やし、織り込んで、三〇分冷やし……。

 そんな事を三度繰り返してから、縦に伸ばして切れ目を入れ、

 ようやく誰もが知っているクロワッサンの形になる。そこからオーブンで焼くのだ。


 こんな作業を学校終わりにやれという生徒会長はマジ鬼でしかない。

 そんな鬼に逆らえない俺はマジでチキン。

 惚れた弱みとはこのことか。惚れてないけど。

 ようやくクロワッサンが出来上がったのは夜の七時を超えたところだった。


 見計らったようにスタジオの扉が叩かれ、円城雪姫が姿を見せる。


「遅くなってごめんなさい。生徒会の活動が長引いて……」


 部屋の入り口でそう言った円城雪姫の声がだんだん尻つぼみになっていく。

 どうしたのかと首を傾げた瞬間、彼女の目は輝いた。


「クロワッサン!」

「は?」

「ふぁぁあああ、あの時の香りよ間違いないわやっぱりあなたがあの時の料理人だったのね!」

「ゃ、えっと」

「食べていいかしら? ねぇ食べていいわよね? いただきますっ」

「まだ何も言ってないんだけどっ!?」


 円城雪姫はクロワッサンにかじりついた。

 さく、と心地よい音が響く。味見をしていないけど我ながら良い焼き具合だ。

 食べた本人もご満足したようで、


「ん~~~! これよ、これを探していたのよ……! サクサクのバター生地に内側の何層にも連なる層がふわふわしてて塩気が絶妙。使ったのはフランスのエレシバターかしら? これは最高だわ無限に食べられるわこれ以外もう要らないわ……」

「ぇっと……」


 俺は思わず瞼を抑え、頬をつねり、もう一度円城雪姫を見る。

 どこをどう見ても完璧美少女生徒会長。なのにその顔は蕩け切ってる。


「…………誰?」

「お嬢様はクロワッサンには目がないのです。どうかご容赦を」

「誰!?」


 突然声をかけてきたのは、茶髪のメイドだった。

 初めて見る生のメイド服。コスプレとは違う、妙にさまになっている立ち姿。


「わたしは不動麻香。円城家に仕えるメイドです」

「はぁ……どうも。杜若零次です」

「存じております」


 不動さんは懐からタブレットを取り出した。

 ねぇ今どっから出したの?


杜若(かきつばた)零次、十六歳、両親は海外赴任中で一人暮らし。祖父母は既に他界しており、バイトに明け暮れておりクラスメイトとの交流は一切なし。両親は名のある料理人として有名でありつつも、育児放棄が目立つため児童相談所から注意を受けていた。料理に関しては英才教育よりも独学とバイトの両方で身に着けたと比重が大きいと思われ……」

「ちょ、待て待て待て、待ってください、なんでそんなこと!?」

「円城家の情報網を以てすれば朝飯前です」

「朝飯前です、じゃねぇよ! 個人情報どこ行った!?」


 叫ぶと、クロワッサンを食べ終えた円城雪姫が補足する。


「よく勘違いされるのだけど、個人情報保護法は個人の情報を商用的に使う事を防ぐだけであってアナタ個人の情報を守るという法律じゃないわ。恐らくプライバシーの侵害と言いたいのだろうけど、別に私はあなたの情報をみだりに言いふらしたりしないし、問題ないわね」

「問題しかねぇよ!」


 どこから突っ込めばいいんだよ、どこから!


「失礼しました。ですが、円城家の料理人として迎える以上、確認は必須ですので」

「はぁそりゃそうだ…………って料理人? え、何の話?」

「お嬢様、まだ話をしてなかったのですか?」

「だって……もぐもぐ……彼が本物か……もぐもぐ……食べて見なきゃ……ごくん。分からなかったのよ」

「喋るか食べるかどっちかにしろよ!」


 思わず敬語も忘れて突っ込んでしまった。いかん、冷静にならねば。

 幸いにも、円城雪姫は俺の言葉をスルーして話を続けた。


「おかげで分かったわ。合格、いいえ、百億点満点よ。あなたを本物と認めます」

「だから何の話ですか……」

「お嬢様はあなたのクロワッサンが気に入ったので、料理人としてスカウトしたいと仰っています。ちなみに給料はこれくらいです。なお、お話の如何に関わらず今日の分はすぐに振り込みますので口座を教えてください」


 不動さんがタブレットを操作して俺に見せて来る。

 俺が思っていた額と桁二つ違っていた。有名ホテルの料理長並だ。


「え、いや、これ、マジ……? 高校生に出す額じゃないですよ……?」

「大マジです。旦那様からも裁量権は得ていますので、高校生の貴方でも問題ありません」

「この私があなたにそれだけの価値があると判断したのよ。光栄に思いなさい?」

「……マジか。それは確かに光栄ですけど……」


 ちょっと、いや、かなり惹かれる内容だ。

 今働いているイタリア料理店のバイトより百倍以上いい時給である。

 あそこで身につくことは大体教えてもらったし……そろそろ変えようかと思っていたのだ。


「でも、俺なんかに……」

「もちろん、楽な仕事ではありませんよ」


 不動さんは指を三つ立てて、


「日の出前の出勤に加え、朝昼晩、三食の栄養管理、食材の仕入れ、調達、業者の選別、などなど多岐にわたる仕事をやっていただきます。毎日報告書を提出してもらいますよ。栄養価の計算は出来ますね?」

「まぁ……一応勉強してますけど」

「結構。ならば何も問題ありません。同意するなら契約書にサインを」


 契約書には今話した内容が書かれてある。

 見たところ項目に問題はないようだが、未だに俺の中でドッキリ疑惑が抜けきれない。


 だって、あの円城雪姫だぞ? 

 学年一の優等生で誰もが目を奪われる絶世の美女だぞ?


 今の今までクラスのモブAでしかなかった俺に、そんなうまい話があるものか。

 ほんとにこれ夢じゃないよね? 頬をつねる。めっちゃ痛い。夢じゃない……。


「もしかして、嫌なの?」

「嫌じゃない、ですけど……」


 確かに、確かにだ。円城雪姫の提案は嬉しい。

 自分の作ったものをあれだけ美味しく食べてもらえるのは作り甲斐があるし、

 これだけの価値があると言ってくれたのは、生まれて初めてだ。


 ーー本当に、自分にそれだけの価値があるのだろうか。


「……夜食は」


 めちゃくちゃ悩んで、口をついたのはそんな言葉だった。


「夜食は、作らなくていいんですか?」

「夜食?」

「はい。契約書には三食って書いてますけど……生徒会長。かなり勉強してますよね。いつも学年一位だし、全国模試トップレベルだし。生徒会活動も大変だろうし、晩御飯とは別に夜食も作ったほうがいいのかなって……」


 もちろん晩御飯でお腹いっぱいになるよう努力はするが、夜食が必要な時だってあるだろう。

 頭を使うような事は糖分を消費するし、アイスも作ったほうがいいかもしれない。

 そんな俺の提案に、円城雪姫はゆっくりと微笑んだ。


「やっぱり私の目に間違いはないわ。そう思わない、麻香?」

「……そうですね。確かに」

「? 意味が分からないんですけど」

「夜食はたまにで結構よ。杜若くん……いえ、零次くん」


 円城雪姫は立ち上がり、俺の方に近付いてきた。


「疑問はそれだけかしら。これから私のものになってくれる?」


 悩ん出てきたのがそんな言葉だった時点で、俺の答えは決まっていたのだ。

 ……まぁ、騙された時は騙された時か。

 こんな美少女に騙されるなら、それも悪くない。なんつって。


「……分かりました。そのバイト、引き受けます」

「やった! これであなたは私のものね」

「いや待って。あなたのものになった覚えはありませんけどっ?」


 しれっと何言ってんの!?


「冗談よ。あぁ、それと敬語は要らないわ。もっとフランクに話して頂戴。雪姫と呼んでいいわよ」

「いやさすがにそれはレベルが高い……じゃあ、円城先輩で」

「雪姫でいいのに。まぁいいわ。よろしくね」


 季節は瞬く間に過ぎていく。

 円城家の料理人として雇われた俺は当初こそ料理が専門だったが、不動さんが風邪で休んだことをきっかけに円城雪姫を起こす仕事が増えたり、ゴミ部屋の掃除なんかもするようになった。この時点で先輩としての威厳は丸つぶれで、先輩と呼ばず敬語を使わない事にも違和感が無くなっていった。

 こんな俺のどこが気に入ったのか知らないが、なぜか雪姫がぐいぐい来るというのもある。



 ーーそして話は冒頭に戻る。



 着替え終わった円城雪姫が、俺の前でベッドに腰かけていた。

 よほど俺をからかうのが楽しいのか、ニヤニヤ笑っている。


「それにしても、零次くんは草食系男子ね。すぐに手を出してくれてもいいのに」

「いやいや、円城家の一人娘に手を出したら後が怖いだろ」

「嘘つき。手を出す勇気がないだけでしょう」


 ぐうの音も出ない正論である。言葉も出ねぇとはこのことか。


「……そう言えば聞いてなかったのだけど」

「なんだ突然」


 改まった問いに眉を顰めると、雪姫はくるくると髪をいじりだした。


「あなたは……お付き合いしている人はいるの?」

「別にいないけど」

「まぁそうよね。周囲に溶け込んで見えなくなってしまいそうなほど影の薄いあなたの事だから、付き合っている人なんているわけないわよね」

「辛辣すぎる! 事実だけど!」


 むしろ事実なのが余計にタチが悪い。

 伊達に空気の薄さに定評があるわけではないのだ。

 思わず漏れてしまったため息に、雪姫はなぜか安心したように笑った。


「まぁ大丈夫よ。誰もあなたの事を見てくれないだろうから、私が面倒見てあげるわ、一生ね」

「ただのヒモじゃねぇか! やだよそんなの」

「何が不満なの? こんな完璧美少女と一つ屋根の下で暮らせるのよ? あなたにはそれだけの価値があると、この私が決めたのに」

「お前な……揶揄うのもいい加減にしろ」

「あら、バレた?」


 雪姫はくすくすと笑って、ぽつりと一言。


「En fait c'est vrai」

「……なんか言ったか? 悪いが日本語で喋ってくれ」

「あなたなら分かるでしょ?」

「……何のことだか分かんねぇな」


 本当は分かる。フランス語で「全部ほんとの事だけど」と言ったのだ。

 フランス料理店でのバイト中に勉強したので、フランス語やイタリア語はある程度分かる。

 だが、自分でそんなことを認めるのは恥ずかしすぎて口に出せない。


「本当に分からない?」


 そんな俺の心を見透かしたように雪姫は笑っている。

 恥ずかしいから口に出さないと、そこまで分かっているのだろう。

 今の今まで冗談だと思っていたが、さすがにここまでくると認めざるおえなかった。



 ーーどうやら俺は、クーデレお嬢様の胃袋を攻略してしまったらしい。



「それとも零次くん。あなたは私の事を異性として魅力的に思わないのかしら? 好きじゃないの?」

「……ねぇよ。ないない。好きじゃない」

「えぇー」


 ぷっくりと頬を膨らませる雪姫から目を逸らす。


(……そりゃあ、魅力的に思うか思わないかと言われれば、思うけどさ)


 どれだけダメ女でも、この何か月かで俺は雪姫の事を知ってしまった。

 良い所も悪いところも含めて、円城雪姫を魅力的な女だと思う。

 ただ……。


(俺なんかが、お前に釣り合わねぇよ)


 一個人の幸せとして考えたとき、彼女が自分と居て幸せだと思えない。

 もっと成績が良くて、運動が出来て、将来有望な男と結ばれるべきだ。


「……もう。素直じゃない男ね」

「うっせ。さっさと降りるぞダメ女。せっかく作った料理が冷めちまう」

「それは一大事だわ! 何してるの早く行くわよ零次くん!」

「うわ、ちょ!?」


 風のように通り過ぎた円城が俺の手を引く。

 ふわりと香る花の匂い、柔らかな女の手が俺の手を包んでいた。

 ふと見れば、雪姫の耳は僅かに赤くなっている。


「……恥ずかしいならやるなよ、馬鹿」


 そんな事を言いつつも、まんざらではない自分を自覚する。

 執事でもなければ友達でも恋人でもない、ただの雇い主と料理人の関係。


 けれど、悪くはない。


 こんな日々が、永遠に続けばいいのにと願った。


 ーーそんな事、叶うわけがないのに。










 ◆








「お嬢様に縁談の話が来ています」


 そんな話を聞いたのは、円城家で雇われ始めて半年ほどたった時だ。

 一緒に晩飯を食べて、さぁ帰ろうかという時に、不動さんは言った。


「高校生で縁談って……そんなのあるんですか」

「お嬢様のお立場だとこの年で許嫁が決まっている事も珍しくはありません」

「……そうなんですね」

「今度は誰かしら?」


 雪姫がつまらそうに訊いた。

 というかめちゃくちゃ落ち着いてんな。やっぱ珍しくないのかこんな話。

 なぜかモヤモヤした俺をよそに、麻香さんはタブレットを操作する。


「今回は大手自動車メーカーの御曹司で、オックスフォード大学を卒業された方です。年齢は二十四歳。大学在学中に若くして起業しており、それなりの成功を収めています。以後は会社を売却し、日本に帰国。親の会社を継ぐために就職予定。今回のお見合い次第では出来るだけ早く結婚したいとのことです」

「……そう。条件は悪くないわね」


 写真を見せてもらうとかなりイケメンだった。

 雪姫の反応も悪くはなく、むしろ興味を惹かれているように目を光らせている。

 そりゃそうだ。富裕層のトップで親の七光りではなく自分で会社を興せる逸材なんだから。


「あなたはどう思う?」

「え?」


 なのに俺は、雪姫が向けた質問に咄嗟に応える事が出来なかった。

 いいんじゃないかと、喉まで出かかった言葉が形にならず消える。


「……なんで俺に訊くんだ。自分で決めりゃいいだろ」

「いいえ。これはあなたが決める事よ、零次くん」

「はぁ?」


 雪姫の目はいつになく真剣だった。

 居心地が悪くなって目を逸らす。胸のモヤモヤが気持ち悪い。

 晩飯の時には楽しく話していたのに、ついさっきの事が遠い過去のようだ。


「ねぇ、あなたはどう思うの?」

「……好きに、すればいい」


 一度ひねり出した自分の答えは、ストン、と胸に落ちた。

 そうだ。これでいい。これがコイツの為だ。


「人に聞くな。お前の人生はお前が決めろ。ただの料理人の俺には、関係ない」

「……そう」


 雪姫はそう呟いたきり目を瞑った。

 重苦しい沈黙があたりを満たしている。やがて雪姫は瞼を持ち上げ、


「麻香、この縁談受けようと思うわ」


 不動さんは一瞬何かを言いかけたが、やはり首を横に振る。


「かしこまりました、では、準備をいたします」

「えぇ。それと、零次くん。今日はもう上がっていいわよ。楽しかったわ」

「あぁ……じゃあな」


 これでいい。これでよかったんだ。

 そう言い聞かせながら俺は円城家を後にする。

 いつも閉じている扉がやけに重く、ばたん、と閉じた音は冷たい音色だ。


 ーー本当にこれでよかったのか?


 そんな疑問が鎌首をもたげるが、やはり、何度考えても俺と円城雪姫が釣り合うとは思わない。


 俺は陰キャで影が薄くて成績だって赤点ギリギリだし、会社経営もできない。

 何か努力してもいつも中途半端で、何をやっても上手く行かず諦める。

 ただ少しばかり料理が出来るだけ。たまたま出会ったモブA。それが俺だ。



「杜若様。あなたは今日でクビになります。お世話になりました」



 ーーだからきっと、こうなるのも必然だった。



 慇懃にお辞儀をする麻香さんの頭を、俺は半ば諦めまじりに見つめていた。


「……どうしてか、聞いてもいいですか?」

「お嬢様の縁談が決まったからです」


 やっぱり、そうだよな。


「縁談をする相手が居るというのに年頃の男女が同じ屋敷に出入りするのは良くありません。例えお二人がただの友人だったとしても、外から見ればどういう関係か分からない。世間は意味もなく騒ぎ立て、お嬢様を、そしてあなたを悪者にするでしょう。これはあなたの為でもあるのです」


 そう言って、不動さんは鞄を渡してきた。


「こちらは手切れ金の一千万となります。お持ちください」

「いっせ……! いや、そんなのもらえませんよ!」

「退職金代わりです。いいからお持ちください。あって困る物ではないでしょう」


 有無を言わさず鞄を持たされ、ずしりとした重みが手の中に生まれる。

 中身を見てみると、びっしりと紙束が敷き詰められていた。

 本来は嬉しいはずのものなのに、今は忌々しいものに思えてくる。


「こんなの……」

「これが、あなたの選んだ答えでしょう?」

「……っ」


 ぐさり、と冷たい言葉が胸に突き刺さった。

 確かにそうだ。俺は選んだ。こうなるかもしれないって分かってたのに、あの時、何も答えなかった。

 この一千万はその代償で、金輪際一切近付くなという円城家の脅迫。


「……あなたと出会ってからのお嬢様は、とても楽しそうにしていましたよ」

「……」

「そんな二人を見るのが、私も楽しくて……まぁ、全ては過去の話ですが」


 追い出されるようにして円城家を後にした後も、俺はしばらく門扉の前に佇んでいた。

 広い中庭の向こうに佇む屋敷の窓。雪姫が居るはずの部屋をじっと見つめる。

 もしかしたら俺の事を見ているのではないかと思ったけど、現実はそんなに甘くない。

 カーテンで仕切られた部屋の中は、何も見えなかった。

 縁談の話が来てから、一度も喋っていないのに。


「……でも、これでよかったんだよな……」


 そうだ。不動さんが言ったように、これは俺自身の選択だ。

 どれだけ無情だろうと、選択の代償は甘んじて受け入れなければならない。


「ははっ、一千万だってよ。何に使う? いっそのこと実家出て家買ってバイト暮らしするか?」


 一千万あれば田舎なら余裕で家を買える。

 しばらく食っていくのに困らないし、どこへなりとも行けるだろう。

 美味しいものを食べて、見たいものを見て、行きたいところに行って。


 ーーそこに、アイツはいない。


「……っ、こんなもの……!」


 衝動的に塀の向こうへバッグを投げ入れる。

 すぐに警報が鳴って、俺は逃げるようにその場を後にした。


「はぁ……」


 心にぽっかりと穴が開いたみたいだった。

 家の中でベッドに転がっても何もやる気が起きず、何を食べても味がしない。

 俺の料理はこんなに不味かったのか? こんなものを食わせてたのか?


「どうすれば、良かったんだよ」


 出口の見えない暗闇の中をやみくもに走っている気分だった。

 庶民と令嬢、立場が違いすぎる俺がお嬢様のアイツに近付いていいはずがない。

 そう頭では分かっているのに、目を閉じて浮かぶのはアイツの顔ばっかりだ。


 振り払おうと、首を振る。

 無理だ。どうやっても消えない。

 ぼんやりと眺めるスマホの画面には、円城雪姫のLINEが映ってる。

 突然、通話音が鳴り響いた。


「わ!?」


 もしかしてとスマホを見るが、映ったのは半年前にバイトをしていた店長だった。

 何だよ……と少しだけ残念に思いつつ、応対ボタンを押す。


「もしもし」

『ハロー、レイジ! 元気にしてるかい?』

「あぁ。まぁ。元気だよ。アレックスは相変わらずだな」

『そりゃぁネ! コッチは大忙しだよ~……ってか、そっちは元気ないネ?」

「まぁ、ちょっと色々あってな」

『ォウ。まさか恋人に振られたのかい?』


 俺は一瞬言葉に詰まり、絞り出した。


「……恋人じゃない」

『ハッハー! これは悪いことをしタ。片思い中だったけど失恋しちゃったパターンかナ?』

「別に、片思いしてたわけじゃ……」

『あー。なるほド。離れてからようやく自分の想いに気付いたパターンか。青春してるネ~』


 なんでそこまで分かるんだよエスパーかよ。

 俺はスマホを離して通話先の金髪碧眼の男を思い浮かべる。

 アレックスは、円城家でバイトをする前にバイトをしていたところの店長だ。

 イタリア料理店を営んでいて、ピザの作り方やイタリア料理のなんたるかを教えてもらった。


『そりゃあ短くない付き合いだからネ~。レイジのことならなんでも分かるさ』

「気持ち悪いこと言うな」

『モヤモヤしてるんでショ?』

「……!」


 息を呑んだ。


「なんで」

『だから分かるって。好きだけと自分には相応しくないとカ、どうせ俺なんか~とか言ってウジウジ悩んでんだロ?』

「……それは」

『レイジさー』


 アレックスは呆れたように、俺の心を深く抉ってくる。


『色々言ってても、本当は自分が傷つくのが怖いだけデショ』

「そんなこと……!」

『ないって? 本当にそう言えるのかい?』

「……」


 問われて、咄嗟に反論できない。

 それが答えだった。


『自分が傷つきたくないからそこで悩んでんジャン。そこでウジウジ諦めていれば無限に言い訳が出来て傷つかなくて済むもんネ。自分は相手に似合わない~とカ、そんな価値ない~とカ。そういう生き方は楽だよね。分かるヨ。でもさ、』


 一拍の間を置いて、アレックスは言った。


『キミの価値は、キミ自身が決めるものなんだゼ?』

「……俺の、価値。そんなの、俺なんか……」

『人が決めるものじゃないんだよナー。俺なんかって言ってたら、それがレイジの価値。キミは、自分でまずいと思う料理を客に出すのかイ?』

「出すわけねぇだろ」

『そうだロ。でもそれって最初に決めるのはお客が決めたことじゃないジャン。キミが『美味い』って決めた事だロ』

「……」

『上手く言えなくて悪いネ。……本当はレイジに店に戻ってきてくれないかなーと思って電話したんだけどサ。今の腑抜けたレイジなら要らないかナ。出会った頃の、ボクの技術を全部盗んでやろうってギラギラしてたレイジの方がよほど好きだったヨ。……なぁ少年、キミは自分にどんな価値をつけるんだイ?』


 アレックスの通話が切れた後も、俺はしばらく何も言葉を発せなかった。

 頭では理解していたのだ。アレックスの言う事が正しいんだって。

 陰キャだとか成績だとか色々言い訳をしてみたけど、俺が本当に嫌いなのは俺自身だ。

 俺が嫌いだと決めた俺自身の価値が嫌だった。


 ーーずっと、特別なナニカが欲しかった。


 両親は基本的に家に居なくて、気まぐれに料理を教わる関係でしかなかった。

 誰も俺を見てくれなかった。誰も俺の事なんて気にも留めなかった。

 だから、小学生の家庭科で料理を褒められて、これだと思った。

 俺が特別なナニカになる為には、これしかないんだって。


 でも、ダメだった。


 たくさんバイトしたし、たくさん勉強した。

 でも、料理の事を知れば知るほど、上には上がいると思い知らされた。

 挙句の果てにバイトを転々としている噂も回っていて、

 いろんな国の料理を節操なく勉強しているどっちつかずだと陰口を叩かれた。


 料理でも俺は特別になれなくて、

 料理しかしていなかったから、学校の勉強にも付いていけず落ちぶれた。


「俺の価値なんて、そんなの……」


 ない、と言おうとした俺の脳裏に過る、雪姫の言葉。


『あなたにはそれだけの価値があると、この私が決めたの』

「ぁ」


 もしもアレックスの言うことを信じるなら、アイツの言葉は無意味だ。

 俺の価値は俺が決めるというなら、俺に価値なんてない。

 俺は陰キャで、影が薄くて、クラスの端っこで携帯をいじってるのがお似合いのモブAだ。


 それでも(・・・・)


「……俺が、アイツの言葉を嘘にしちまうのか?」


 あの完璧美少女を演じる、円城雪姫の言葉を。

 美味しそうにクロワッサンを頬張る、女の子の言葉を。


「……それは、嫌だな」


 正直なところ、まだ俺は自分に自信が持てないけれど。

 あの婚約者のステータスに勝るナニカが自分にあるとは思わないけど。

 俺にとって円城雪姫は、初めて自分を見てくれた特別な相手だ。


「…………ははっ、あぁそうか。俺はとっくに……」


 あぁ、アレックス。認めてやるよ。

 モブAだろうが陰キャだろうが、俺は円城雪姫が好きなんだ。

 どれだけ高嶺の花だろうと、アイツを好きになってしまったんだ。


 財閥令嬢として並々ならぬ努力をしているところ。

 本当は怠け者だし甘えたがりなのに、いつも気丈に振舞って生徒会長の役目をこなしているところ。

 影の薄い俺をいつも見ていて、ことあるごとに話しかけてくれるところ。

 こんな俺の作った料理を美味しそうに食べてくれるところ。


 好きなところを挙げればキリがない。

 ゴミ部屋の主だしダメ女だし寝坊助だけど、そこも含めて好きなんだ。


 だから傷つくのが嫌で、これ以上近づくのが怖かった。

 

 俺は自分を信じられない。

 でも、円城雪姫ならこの世の誰よりも信じられる。


 あいつが俺を信じるなら、俺を信じたあいつを、俺が信じなくてどうする!


「馬鹿か、俺は。いや馬鹿だ。くそ。俺は……!」


 スマホをタップ。いつの間にか朝の四時だ。

 不動さんに連絡するとすぐに返事が返ってきた。


『現在移動中。朝の十時、最寄りの国際空港へ迎えに行く予定』

「不動さん……ありがとうございまずっ」


 本当は教えていいはずがない情報。

 最後のチャンスだと言われている気がして、俺はコートを掴んで飛び出した。






 ◆






『杜若零次くんはいるかしら?』

『はぁ……俺ですけど』


 頼りなくて陰気でどこにでもいる男。


 杜若零次に初めて会った私の印象は、そんなものだった。

 彼を探していた理由は他でもない、謝恩会に出したクロワッサンの作り手を特定するためだ。


 私はこの街のパン屋さんは全て調べ上げ、網羅している。

 一年ごとに新しい店舗が出来たら真っ先にクロワッサンの味をチェックするし、

 新しいクロワッサンを求めて海外へ旅行に行くこともある。


 だが、そんな中でもあの謝恩会に出たクロワッサンは格が違った。

 今まで食べた味を全てアップデートする、既存の物の価値を新たに更新する一品。

 それを作ったのが彼だと分かった時の私の驚きたるや、誰にも想像できないだろう。


 でも、そんな印象はすぐに塗り替わった。


 確かに彼は少し自信なさげだし、人間不信だし、成績も芳しくない。

 けれど、彼は肩書や噂で判断せず、私という人間をまっすぐに見てくれた。


『生徒会長。かなり勉強してますよね。いつも学年一位だし、全国模試トップレベルだし。生徒会活動も大変だろうし、晩御飯とは別に夜食も作ったほうがいいのかなって……』


 天才だの、生まれの出来が違うだの、

 影で色々なことを言われ続けてきた私にとって、

 血のにじむ努力を天才の一言で片づけない、あの一言にどれだけ救われたのか……

 きっと彼には想像できないだろう。


 その時はまだ、自覚していなかったけれど。

 朝昼晩とずっと彼の料理を食べているうちに、彼の見えない気遣いが嬉しくなった。


 例えば、パーティーに出席した翌日は胃に優しいものを作ってくれたり、

 例えば、調子が悪い時は身体が温まるようなものを作ってくれたり。

 例えば、一人で食べている私と一緒にご飯を食べてくれたり。


 言葉は少ないけれど、彼から感じる優しさが心地よかった。

 財閥令嬢だからとか、天才だからとか、見目麗しいだとか。

 そんな外面じゃなく、ただ一人の人間として優しくしてくれたのは初めてだった。


 ーー恋をするのに、時間はかからなかった。


 私の胃袋は完全に彼に掴まれていて、心を惹きつけられていたのだ。


 ……けれど、それももうおしまい。


「本当によかったのですか? お嬢様」

「しつこいわね麻香。仕方がないじゃない。これが彼の選択なのよ」


 空港のラウンジを歩きながら、私は麻香に言い返す。

 彼は私を選ばなかった。選択することを放棄した。

 何がいけなかったのかな。もう少しおしとやかにするべきだった?


 分からない。

 けれどこれが自分だ。


 受け入れられないなら、それまで。

 どっちつかずの日々を過ごすよりも、はっきりさせた方が何倍もいい。


「最後に……会いたかったなぁ」


 円城家をクビになった彼とは、縁談の話が来てから一度も喋ってない。

 だって一度会ったら愛おしくなって、絶対に離れくなくなるから。

 抱きしめて、手を握って、鎖で縛りつけて、彼を困らせてしまうから。


「だから、これでいいのよ」

「……そうですか」


 いつも私の事を一番に考えてくれる麻香はそっと嘆息した。

 そして顔を上げ、その仏頂面が、僅かに緩む。


「……しかし、相手はそう思っていないようです」

「え?」

雪姫(ゆき)ッ!!」


 聞きなれた声。

 振り向けば、彼がそこに居た。


「はぁ、はぁ……おう。間に合ったな」


 黒髪が汗で肌にへばりつき、息を荒立てている。


「零次、くん」


 会いたくて仕方がなかった彼が、そこに居た。



 ◆



 ーー間に合った。


 ようやく出会えた雪姫を見て、俺はほっと胸をなでおろした。

 実を言えば空港にはだいぶ前から着いていたのだが、国際空港とあって空港は広い。

 そこら中を駆けずり回って、雨に濡れたみたいに全身がびしょ濡れだ。


 けど、


「何しに来たの?」


 雪姫は、吹雪のような冷たい声で言った。


「ぇ」

「あなたは選ばなかったでしょ。何しに来たの?」


 ……そう。俺は選ばなかった。

 何度も何度もチャンスを与えられていて、それでも踏み出せなかった。

 だから見限られて、捨てられて、今、みっともなく足掻いてる。


「……俺は」


 口を開こうとして、閉じる。

 その一言を言おうとしただけで、こんなにも鼓動が脈打つ。

 どくん、どくん、どくん、と心臓の音が周囲の喧騒を塗りつぶしていく。

 そんな意気地なしの俺に、円城雪姫は容赦なく背を向けた。


「用がないなら、行くわ。人を待たせてるの。それじゃあ……」

「……っ」


 俺は咄嗟に雪姫の腕を掴んでいた。


「行くな」

「……!」


 雪姫は立ち止まり、振り向かないまま問う。


「……どうして?」

「それは」


 言え。

 早く言え。

 そのために来たんだろうが。


 ここで踏み出さなきゃ、いつ踏み出すっていうんだ!




「『Mi piace(好きだ)』」




 瞬間、周りの全てが遠のいていくような気がした。

 世界の中に俺と雪姫だけが取り残されて、周りが見えなくなる。



「『Non andare(だから行くな)』」



 アレックスが電話をかけてきたせいだ。日本語で言えなかった。

 いや正直に言えば日本語で言うのが恥ずかしすぎるから言えなかっただけだけど!

 こんな時に得意のヘタレっぷりを発揮してしまう俺に、雪姫は振り返った。


「……なんて?」


 にまぁ、と口元をもにょもにょさせながら。


「ねぇ零次くん。私、イタリア語は分からないの。もう一度言ってくれる?」

「イタリア語って分かってるじゃねぇか……!」

「発音が悪すぎて聞き取れなかったわ。日本語でお願い」


 こいつ……!


「……だ」

「なんて? なんて言ったの?」

「…………きだ」

「聞こえなーい。もう一回言って? ほらほら、聞こえないわよ~?」

「あーもうッ!」


 伝わらなさにイライラして、思いっきり叫んだ。


「好きだって言ってんだろこの馬鹿女! 俺は確かに庶民だけどっ! お前とは住む世界が違うかもしれないけどっ! お前の全部が好きなんだよ! 俺以上の料理人なんてたぶんいくらでもいるけど! お前の胃袋をずっと幸せにしてやれるのは、俺だけだ! それだけは、約束するから……だから、さっさと返事しろぉ!」


 やけくそ交じりに叫んでから、ハッと我に返る。

 ざわざわと、公衆の面前で告白した俺に周囲は興味津々だ。 

 や、やっちまった……!


「……そう、そんなに私の事が好きなのね」


 呟き、満開の花が咲き誇るように、雪姫は笑った。

 くるくると髪をいじりまわし、頬を赤らめて。


『私もあなたが好き』


 わざわざイタリア語で返してくる。

 やっぱり分かってんじゃねぇか……。


『あなたの人生、私にちょうだい?』

「……ん」


 否と言えるはずもなかった。

 俺はお嬢様の胃袋を掴んでいたけれど。

 俺の気持ちは、とっくの昔にこいつに掴まれていたのだ。


「まぁ、そもそもの話ね」


 雪姫は腕を組み、どや顔で言った。


「私、とっくに零次くんの料理ナシじゃ生きていけない身体になってるんだから。あなたは私のものだけど、私はあなたのものなのよ? そこのところ、ちゃんと分かってる?」

「いや、その、ね。そろそろな、周りの目がな。そういう恥ずかしい事を言われると……」

「もっと恥ずかしいこと叫んだ人が何言ってるの?」


 いや全く仰る通りです。十秒前の俺、何言ってんだ……。


「あー、その。悪い。縁談……」

「気にしなくていいわ。元々断っていたから」

「は?」


 え、どういうこと?


 ぎぎぎ、と首を巡らせれば、不動さんが溜息を吐いて、


「例の方は事業や経歴は優秀ですが、女癖が悪いことで有名でしたので。元々断る前提のお話でした」

「はぁああああああああああああああ?」


 つまりあれか? 空港にまで来たのは全部芝居?

 俺は見事に引っかかったって事か?


「お、ま、えな……!」

「ねぇ麻香、今の録音してくれた?」

「最初から最後まで全部録音済みです。バックアップも今取りました。『お前の全部が好きなんだよ!』」

「ば……ッ、おま、消せ! 今すぐ消せ!」

「ふふ。やーだ」


 タブレットをひったくろうとする俺と、ちょこまかと逃げる雪姫。

 ともかく、俺は再び円城家の料理人として返り咲くことになった。

 でもまぁ、不思議と嵌められた事に対する怒りはなくて。


「大好きよ、零次くん!」


 この笑顔を、ずっと見ていたいと思った。



 fin.


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