すれ違いの日記
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――月――日。晴れ。
今日はなぜだか妙にあいつの姿がいじらしいというか、はっきりいって、可愛らしく見えた。可愛らしいなんていう感情を異性に対して持ったのは、たぶん初めてのことだと思う。少なくとも記憶の中を掘り返してみても該当するものはなさそうだ。たとえ過去に誰かに対して可愛いと感じたことがあったとしても、それは一過性の儚い印象に過ぎず、決して残ることはない。残っているとするなら、回顧した時に思い出せるはずだ。
玲のことだ。あいつは、別におれと幼馴染というわけではない。去年うちの中学に遠方より越して来た時に、たまたま俺の隣の席が空いてたからとそこに座ることになって、しかもどうにも不安そうにするものだから、すぐそばにいる身としては何とも居心地が悪いので、いろいろと世話を見てやったという経緯で、仲良くなったのだ。どうせ他の女子が助けるだろう、こういう時面倒見のいいのは女なんだとすっかり決め付けていたものだが、誰も見向きもしないので、しびれを切らしておれが、学校の周りのこととか、この地域のこととか、お買い得なスーパーのこととか、話してやったのだ。
やや茶色く見える玲の長いしっとりとよく手入れのされた髪は、思うに染めたのではないだろう。あいつは確かにおしゃれに気を遣う方で、都会出身らしいから、その辺の瀟洒な着飾りのすべは心得ていると思う。しかし校則で染髪は禁じられているし、校則を平気でゆるがせにする連中は当たり前のように金だ茶だ染めているが、定期的に朝通学時、校門で先生に呼び止められて、強制的に直させられる。不良どもはぶつくさ言いながらも従って戻すのだが、髪染め特有の不自然な真っ黒になっているのが、いつもおかしく思う。玲の髪が真っ黒になっていないのは、やっぱり、地毛だからなんだろう。実際のところは分からないが。
今日おれがどきっとさせられたのは、ひとえにあいつの不意打ちが原因だ。7時限まである長い授業を終え、帰り支度を済まして帰ろうととすると、視線を感じた。見れば隣の玲が――すでに同様に帰り支度を済ましている玲が、おれを見てにっこりと笑っている。その笑いは、からかいの色は帯びておらず、とても純粋なものだった。しかしあまりにも時宜にかなっていないというか、どうして笑顔なのか、おれは分からなかったので、ぽかんと呆気に取られているしかなかった。だが別にどうでもよかった。どうせいつも通り別々に帰るのだ。途中まで下校路は一緒だが、どちらかが前になるか後ろになるかの違いがあるだけで、 毎日お互いにばらばらに帰っていた。
それが今日――。
上履きをしまって昇降口を出ると、こんこんと背中を優しく小突かれた。振り返ると玲だ。
「もう遅いよ~」
はじめ何のことか分からず、きょとんとしてしまった。また不意の遭遇に内心面食らってもいた。
「??」
きょとんとするおれに、玲は小首をかしげていたずらっぽく目を覗き込む。
「一緒に帰ろ」
学生用の革のバッグを両手で前に持って、いくぶん前かがみになりながらそう言った。まるで約束でもしていたかのように、玲は俺を待ち伏せて、そして現れ、頼みごとをする風でもなく、帰ろうと誘った。
「あ、あぁ」
とそう答えるおれの声は、浮ついていたに違いない。
歩き出して最初、会話がなかったのは、何だか周りの同級生たちの目が何となく自分に注がれている気がして、また、その目が、おれが女子を伴って歩いていることに驚きそして隅に置けないなとでも感心しているように見えたからだ。おれは年頃の学生で、成るほど性に関しては人並みに興味があるつもりだ。しかし実際に誰かに興味を持つということはなかった。――ひょっとしたら、苦手意識からあえて遠ざけていたのかも知れないが。
玲に関していえば、あまり性を意識したことはなかった。口をきいた相手がたまたま女子だっただけのことで、それ以上でも以下でもなかった。
だが、そう、女子なのだ。玲は女子。親の仕事の事情か何かで他府県より引っ越してきて、おれの隣に座り、慣れない諸事でおれを頼りにし、おれは助け船を差し出した。
昔からおれはそういうのが得意だった。それは時折傲慢さに繋がって友達を不快にさせるようだが、つまりおれは、ひとの困惑をすぐに察知出来るのだ。道で途方に暮れているひとを見れば道を教えるし、ころんで怪我をしているひとにはバッグの絆創膏を上げる。眠そうにしていれば背中を撫でてやるし、喉が渇いていれば水筒を目の前に突き出してやる。
そういう風にして、おれは玲に対しても援助の手を差し伸べたのだ。そして玲はそのおれの手を受け取った。
今おれは遅れて、手を繋いでこそいないものの、玲の心がおれの心に通じているのを感じ取る。
そのおれに懐くさまが、あからさまに気を許している様が、可愛らしいという感情を芽生えさせたのだ。
正直、気持ち悪いと思った。これまでの悪例同様、ひとの謝意や好意を見透かして愉悦を感じている自分が気持ち悪いとまず思ったし、それにこの心中でむずむずと疼く生ぬるい恋の感覚もそうだ。
おれは玲のことが好きなのだろうか。成るほど決して嫌ってはいない。好きだと思う。だがその好きは、恋愛に発展するものなのか?
その自問に、おれは解答を与えられなかった。あるいは考えたくなかったのかも知れない。恋のチャンスを逸するかも知れないという天使のささやきはおれの耳には届かなかった。
おれは横目で玲を見る。何ともくつろいだ風に前を向いて歩いている。おれより少し低い背。茶色がにじむロングヘアはつやがあって綺麗だ。その手を握れば、玲は拒絶せず受け入れてくれるのだろうか。
おれは頭を左右に振った。そして妄念を打ち消そうとした。
すると悲しみが跡に残った。
それは、玲を裏切ってしまう予感からくる悲しみだった。
(終)