最後の通信(信号訳)
こちらは、別の拙作、
https://ncode.syosetu.com/n7045gk/
の信号部分を訳したものです。
" " 内が信号部分ですので、それを踏まえてお読みください。
"応答願います。応答願います"
暗く、静かな部屋の中に、清らかな電子音が響く。
"こちらは、JA8QIOA局"
年代ものの檜の卓には、音を発する無線機と、接続された電鍵。半ばまで文字で埋まった紙と、一本の鉛筆。
"JA8QIOA局"
それに向かって椅子に座るのは、微かな光を受けて輝く黒髪に、白磁の肌の女性。
"JA8QIOA局です。どうぞ送信してください"
年は20ばかりだろう。無線機を見据え、その音に耳を傾けている。
繰り返し鳴っていた電子音が途絶えた時、彼女はその手を電鍵に宛てがった。衣擦れの音だけが、空気を震わせていた。
"JA8QIOA局へ、こちらはJL3RN4Z局"
彼女は電鍵を叩く。トントンと小気味良い音が、電子音と共に鳴りわたる。
"JL3RN4Z局です。どうぞ"
彼女は電鍵から手を離し、鉛筆を取った。
紙に何事かを書きつける。その時、無線機が明瞭な音を発した。
"JL3RN4Z局へ、こちらはJA8QIOA局です。おはようございます"
紙には新たに、「JA8QIOA 8:26」と記されていた。速書きの割に綺麗な文字は、彼女の几帳面さをよく表している。
"親愛なる貴殿へ、通信していただきありがとうございます"
窓から差し込む微かな光が、僅かに電子音に揺れる。
"改めまして、貴局の信号強度は599です。また、こちらの送信場所は箱舟、箱舟市で、送信者名は花、花です。聴き取れますか"
彼女は通信音を聴きながら、さらに紙に書き込んでいく。「599 箱舟市 ハナ」と。
その姿は、部屋の静けさと相まって、神秘的でさえある。
"JL3RN4Z局へ、こちらはJA8QIOA局です。送信してください"
音が絶える。既に彼女は電鍵に手を合わせていた。
"了解しました。JA8QIOA局へ、こちらはJL3RN4Z局です。おはようございます。貴女様、花さんへ、箱舟市からの素晴らしい報告をありがとうございます"
彼女は微笑みを浮かべながら打電する。部屋が暖かくなったかのように錯覚した。
"改めまして、貴局の信号強度は5、9、9です。こちらの送信場所は心星、心星町で、送信者名は鈴、鈴です。聴き取れますか?"
打電は明瞭で、その打文にも丁寧さが見て取れる。
まるで音楽でも奏でているようだ。
"JA8QIOA局へ、こちらはJL3RN4Z局です。送信してください"
彼女は次の通信を待つ。少しして、無線機が朗々と音を出し始めた。
"了解しました。JL3RN4Z局へ、こちらはJA8QIOA局です。改めまして、貴女様、鈴さんへ、心星町からの素晴らしい報告をありがとうございます"
彼女の笑みが深まる。卓の下で、足を揺らし始めた。
"こちらの天候は、雲に覆われていて、気温が約12°C。少し寒いです"
鉛筆を走らせる彼女。「Overcast 12°C 少しさむい」と書き入れる。
"ところで、交信証明書をNARA経由で送っていただいてよろしいでしょうか?JL3RN4Z局へ、こちらはJA8QIOA局です。送信してください"
更にそこに「NARA」と書き加えた直後、無線機は沈黙した。
彼女は楽しそうにしながら、再度電鍵を叩く。その音は、心なしか弾むようだった。
"了解しました。JA8QIOA局へ、こちらはJL3RN4Z局です。万事構いませんよ。花さん"
それを打ちつつ、彼女は窓の外を眺める。青空ばかりで、雲は欠片も見当たらない。
それは、どこか虚ろな空だった。
"こちらの天候は晴天で、気温が約7℃。とても寒々としています!"
外気の冷たさを思い出したのか、空いている右手で左手を摩る彼女。身体も少し縮こまっている。
"交信証明書はNARA経由で違いないですよね?JA8QIOA局へ、こちらはJL3RN4Z局です。送信してください"
部屋を僅かに震わせる音は、彼女の手で止められた。彼女は未だ楽しそうだが、少しだけ顔に翳かげりが現れていた。
"了解しました。こちらはJA8QIOA局です。素晴らしい今日最初の通信をありがとうございました"
翳りはさらに増した。別れが近づいたからだ。電子音が重く聴こえた。
"天国でもう一度会えることを願います。鈴さん、さようなら。JL3RN4Z局へ。こちらはJA8QIOA局です。ありがとうございました。さようなら"
彼女は寂し気な顔になる。しかし、別れを告げない訳にはいかない。いつにも増して丁寧に、彼女は電文を打った。
"JA8QIOA局へ、こちらはJL3RN4Z局です。素晴らしい通信をありがとうございました。それから、この星での良い最後の一日をお過ごしください。花さん、さようなら。送信を終わります。JA8QIOA局へ、こちらはJL3RN4Z局でした。ありがとうございました。通信を終わります。さようなら"
彼女は立ち上がった。椅子を引く音、衣擦れの音。
そのまま紙を持って、部屋の外へと向かっていった。扉が開け放たれた。澱んだ空気が散っていく。その外からは、こんな音が流れ込んできた。
「この星が亡ぶまで、あと3時間を切りました。接近するブラックホール周辺のガスや塵の影響で、電波障害が起こります。これが最後の放送となるでしょう。––––」