私もドストエフスキーについて書いてみました!
もう時代が変わってしまっているのかもしれない。
私がリアルワールドで文芸同人誌活動などをやっていた頃はポストモダニズムが当然の前提で、「テクスト」だとか「差延」だとか、抹消印つきの「ある」だとかを「軽やかに使いこな」せなければならなかった。
そしてドストエフスキーに関してはバフチンの「ポリフォニー」という用語が多少遅れて使われだし、それがやがて、当然の前提になっていった。とはいえ確か、クリステヴァによるバフチンの紹介がポストモダニズムの発火点の一つだったと思うから、それは案外、原点回帰的現象だったのかもしれない。
「ポリフォニー」という用語の流行については、たとえば、ドストエフスキーともバフチンとも取り敢えず関係がないイタリアのある思想家に関する本に、松田博・ 鈴木富久編『グラムシ思想のポリフォニー』法律文化社、1995 年などといった書名がつくなどといったことがあった。もっともこのグラムシ、戦間期に活動を始め第二次大戦中に獄中で有名なノートを書いたという思想家なので、ドストエフスキーについての言及がまったくないということは、むしろあり得ないだろうとも思うのだが……。
ところで最近、ここ『小説家になろう』のエッセイのジャンルでも、ドストエフスキーに関する投稿が増えてきているように思う。
そう思ったので私も背伸びし、ドストエフスキーに関して何か書いてみようと思い立ったのだが、私にとっては(苦々しく思いながらも)当然の前提だった「ポリフォニー」という用語には、まだ出遭っていないような気がする。
ただドストエフスキーを読んでいるひとなら彼のポーランド人に対する偏見などに触れたこともあるだろうと思うので(私の場合『カラマーゾフの兄弟』のグルーシェンカの婚約者の人物造形などに、強くその偏見を感じた。また余談だが、ポストモダン系のひとたちは右だけでなく左の全体主義に対しても警戒しているはずなのだから、このようにドストエフスキーの裡にもある、ロシア人のポーランド人に対する偏見に対しては、数度に渡る赤軍のポーランド侵攻などともからめ、もう少し意識的になってもらいたいとも思う)、以下引用によって説明するこの「ポリフォニー」という用語への違和感などについても、共感して頂けるのではないかと思う。
以下引用は主に『現代詩手帖』2011 年 11 月号に訳出されたアメリカのポーランド・ロシア文学研究者、クレア・キャヴァナの論考からになるが、どうやらこの企画(チェスワフ・ミウォシュというノーベル文学賞受賞者についての小特集なのだが)、上に苦々しく思っていると書いた「ポリフォニー」という用語を流行させた張本人、沼野允義氏の発案らしい。そう言えばJ・G・バラードのJ・ボードリヤールへの手紙などについても私は巽孝之氏の著書でしか読んでいないし、そんなひとたちの仕事に頼るというのは実に情けなく、つくずく英語ぐらいは読めるようになりたいと思う。それではまず問題の用語の定義的なものを、これは『Wikipedia』から──。
>バフチンはドストエフスキーの小説の画期性を、その登場人物があたかも独立した人格のように多面性を持ち、解釈の主体として振舞い、時には、独自の思想の主張者として振舞うことで、人物相互の間に「対話」が成立し、そのような対等かつ劇的な対話性において、小説以外のジャンルでは表現困難な、現実の多次元的・多視点的な表現が可能になっていることであるとした。
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>このような視点は、バフチン自身の、哲学的・言語学的な対話主義の思想に裏打ちされている。バフチンは、真理は、特定の視点によっては表現することはできず、どれほど複雑かつ高度なものであっても、つねに複数の認識の視点と、ひとつの視点との相違は還元不可能なままに残ると考えた。この相違を還元不可能なものと見る視点からは、複数の限定的な視点を、より高次の複雑かつ総合的なひとつの視点によって完全に汲みつくし、代替することはできないことになる。(「ミハイル・バフチン│対話主義とポリフォニー」『Wikipedia』2020 年 6 月 14 日閲覧)
思っていたよりしっくりした定義が見つからなかったのだが、「この相違を還元不可能なものと見る視点からは、複数の限定的な視点を、より高次の複雑かつ総合的なひとつの視点によって完全に汲みつくし、代替することはできないことになる」などといった部分は、ポストモダン系のひとたちがしばしば口にしていたニーチェのパースペクティヴィズムのようなものをも想起させ(またあのヘーゲル的総合に対するそれこそルサンチマンじみた敵意なども想起させ)、このバフチンというロシアの思想家と、フランス発のポストモダニズムとの類似性が、かえって強調される結果になっていると思う。というよりこれは、ポストモダン側からするバフチンに対するアプロプリエイトなのではないだろうか?
ここでいよいよキャヴァナの論考からの引用に入っていきたいのだが、実は同氏も、上記「ポリフォニー」という用語に対する違和感を感じているのではないかと思えるのである。
>ミウォシュは西欧におけるバフチン的なドストエフスキー読解の危険にとりわけ敏感だった。ミハイル・バフチンはその有名な論考『ドストエフスキーの詩学』(1928 年)において、ドストエフスキーの小説が本質的に「ポリフォニック」であること、その登場人物たちが自分自身の言葉をしゃべり、たとえば『戦争と平和』のように、物事の進行を司る権威ある全知の神のような存在に干渉されていないと論じた。ドストエフスキーは各々の登場人物に特定の考えを書き込むことはせず、それぞれに自由を与えた。そのため、小説の個々の声のどれともドストエフスキー自身を同一化しえない、と論を進める。それは誤りだ、というのがミウォシュの見解であり、それは正しい。「[ポリフォニーの]背後には熱狂的な信奉者が隠れているのだ。」ミウォシュいわく、西欧の批評家はバフチンの理論を使って、彼らの敬愛する作家をその登場人物たちの不快な見解から切り離そうとしている。「彼ら批評家たちはそうした不快な見解を視界から除こうと試みている。その時にドストエフスキーの小説の『ポリフォニー性』という仮説が助けになるのだ。」(「ドストエフスキーとサルトル」)
(クレア・キャヴァナ「倒錯的な快感──ドストエフスキーを読む ミウォシュ ポーランド詩人とロシア」加藤有子訳『現代詩手帖』思潮社、2011 年 11 月号、p.118.)
それではなぜ、「ポリフォニー」という用語を流行させた張本人が、自身の企画にこの論考を取り上げようと決めたのだろうか。単純に学問的誠実さからと受け取ってしまって良いものだろうか。沼野氏はこの論考に改題をよせ、その中で以下のようなことを言っているのだが──。
>ミウォシュの詩学や世界観を理解するためにロシア文学は避けて通れない重要な要素だが、ポーランドとロシアの関係は宿命的に複雑であって、第三者が容易にアプローチできる問題ではない。それをキャヴァナはポーランド文学とロシア文学の両方に通じたアメリカ人として明快に解きほぐしてくれるので、非常に貴重な論考と言えるだろう。(同上解題、p.121.)
ところでこの解題はキャヴァナの論考の末尾に付されているもので、その直前が論考自体の結論部分になっているのだが……。
>帝国に対する解毒剤は植民地である。国民国家に対する解毒剤は地方であり、地方はミウォシュの詩的想像力のなかで地域的にも超国家的にも天国となる。ミウォシュは何度もエッセイで「リトアニア大公国」に由来するというドストエフスキーの系譜の問題に立ち戻る。おそらくミウォシュはポーランド人、ユダヤ人、リトアニア人、ドイツ人、ベラルーシ人、そしてもちろんロシア人のいる理想化されたリトアニアにこのロシア人作家をいやおうなく送り返すことによって、別の「倒錯的快感」を味わっているのだ。これこそ、ドストエフスキーの執拗なまでのロシア中心主義的宇宙に対するミウォシュの応答なのである。(同上、pp.120-121.)
「ポーランド人、ユダヤ人、リトアニア人……」と列挙される諸民族の多様性に着目すれば、要するに、なんのことはない、ドストエフスキーの「ポリフォニー性」がふたたび提示され、それを作家自身の「系譜の問題」から引っ張りだし、さらにそれを完成させるのがもう一人の作家、ミウォシュだということなのだ。これなら沼野氏にとっても想定内の着地点だっただろう。結局問題はポストモダン的に回収されてしまった。
とはいえこの「理想化されたリトアニア」になんらかの総合的立場を見るというのは、誤読だろうか? 解題にある「ポーランド文学とロシア文学の両方に通じたアメリカ人」という言葉などから推しても、それが私自身のひねくれた見方による誤読だとは思えないのだが……。
たとえばキャヴァナだってミウォシュだって誰だって、そうした形而上学から逃れることはできないのだ、などといったいつもの逃げ口上が聞こえてきそうだが、それではなぜ、ドストエフスキーだけが、この論考の中で断罪されなければならなかったのだろうか。ポストモダン系のひとたちに対し、私が常に感じている疑問である。
すぐ上の引用文中に「別の『倒錯的快感』」とあるが、つまりそれは、「別の」ではない「倒錯的快感」に、すでに触れられているということなのだ。
>「ドストエフスキーについて講義しながら、自分がドストエフスキーにとって特に我慢のならないタイプに属している事実に倒錯的な快感を覚えた。」(「今、ドストエフスキー」、1992 年)。ポーランド出身であることが有利に働いた、とミウォシュは言う。なぜなら、そうでなければ見過ごしたままだったかもしれないこと、つまり、精神的自由の擁護者が最高度に外国人嫌いであり、西欧世界、ユダヤ人、そしてもちろんポーランド人に対して特別な憎しみを抱いていることに気づかせてくれたからだ。(同上、p.118.)
確かにこれは「倒錯的快感」だ。敢えてルサンチマンという言葉を投影してみてもいいだろう。あるいはヘーゲル的な、主人と奴隷の弁証法的場面を……。
さらにそのポーランド人もまた、当然のことながらイノセントではない。
「スラヴ的な歴史哲学好みはなんとも危険だ」とフィユトにミウォシュは語る。集団性を不健全なまでに強調すること、そして利己的な民族神話への傾きは、帝国の特徴であり、その犠牲となる国民の特徴でもある。(同上、p.118.)
「利己的な民族神話への傾き」? 「理想化されたリトアニア」などという代物は、やはり眉唾ものだ。そのようなな理想郷も、「ポリフォニー性」も、私としてはご免こうむりたい。