その四・おうおうおうおうおう、ちょおおいと待ちな 後編
そりゃあ、仕方がないと思う。自分をネタにしたシモの話を目の前で堂々とやられたら、年頃の娘としては怒って当然だ。アタシだって流石に怒る。
興奮しすぎてそんな単純な事すら頭の中から抜け出ていたのだろうかあのお馬鹿さんたちは。
林檎に頬を張られた二人は、凍り付いていた。いや。
白い。漂白したかのように白い。
ショックの余り塩の柱にでもなったか。まあ気持ちは分かるけど、完璧に自業自得だね。しばらくそのまま反省しておいた方が良い。
などと考えていたら。
「今だ! 総員確保ー!!」
突然鬨の声が上がり、あちこちからわらわらと現れた警官の皆さんが一斉に馬鹿二人へ目掛け麻酔銃らしきものをぶっ放し、そして纏めて飛び掛かった。
「よーしふんじばれ油断すんなよ!?」
「重りも忘れないでください! 人一人くらいなら軽く引きずりますよこの人!」
「ドラム缶! あとコンクリ!」
何か容赦のない内容の会話が飛び交っているけど、考えてみれば確かにそれくらいしないと止められないよなあの人ら。納得して思わず深く頷くアタシたちだった。
と、その光景を涙目で睨み付けていた林檎が、ぐしぐしと荒っぽく袖口で目元を拭い、苛立った様子で身を翻した。
……どこへ行く気か知らないけれど、放っておくわけにゃあいかないよなあ。
「ゴメン、後任せた!」
仲間にそう声を掛け、アタシは林檎の後を追う。
肩を怒らせづかづかと歩む林檎の隣に並ぶ。何か声を掛けようか、あの馬鹿二人のフォローでも……と思って止めた。流石にフォローとか無理だアレは。アタシも端から見てちょっと腹立ったし。
騒動収まらぬ警察署の正門を出て、そのまましばらく二人して歩く。二人とも何も言わない。
がつがつ靴音を立てて進む林檎。その足が不意に止まった。
そして彼女は突然振り返りこう吠えたてる。
「なんかしばらく放置プレイされてたような気がする!」
「やりなおせ」
ごがん。
……そして彼女は突然振り返り、こう吠えたてる。
「見たか! アレが男という生き物だ! ちょっと期待を寄せてもすぐつけあがり、容易く裏切る! あんな生き物に期待するだけ無駄だ! そうだろう!」
半泣き。よほど恥ずかしかったのだろう。まあ自分が下ネタにされて喜ぶような人間は芸人くらいだ。気持ちは十二分に分かる。
せっかくこう、僅かにでも埋まりかけていた(かも知れない)溝がさらに深まってしまった。あの二人の自業自得と言えばそれまでだが、はてさてどうしたものだか。これはちょっとやそっとじゃ修正が効きそうにない。
しかし今の林檎をどうやって宥めたらいいのかアタシにはとんと見当もつかない。かといって放置しておけばこの子の態度は益々頑なになり状況は悪化していく一方だ。早いトコ手を打たないと。
つってもフォローしようがないバカさ加減だよなああの二人。青森さんなんか加速度的に頭悪くなっていってないか? それともアレか、今まで娘に関わるのを堪えていたのが限界を超えて、一気に人格が崩壊したとか。まあこの子の父親だしなあ、素が出てきただけなのかも知れないね。
……ん? 父親?
「……から卵子だけでも子供ができると証明され、しかも寿命は長く病気もしにくいと言う結果が出ている。つまり男など不要! この際男だけを絶滅させるウィルスでも開発してあの不浄なる生き物を絶滅させ女性だけの真の楽園エターナルクイーンダムを……」
「あー、ご高説のところちょっといいか?」
突飛な方向に話を持って行ってる最中だった林檎に声を掛ける。びしす! とノリノリで変なポーズを取りながら林檎が何かねと妙なテンションで問い掛けてくるがツッコまないぞ。少々腰を退きながら、アタシか続けて林檎に尋ねた。
「なあ気になったんだが……お袋さんは今回の事知ってんのか?」
そう、林檎の母親の方。それが今どうしているのか。状況によっては上手く利用できるかも知れない。さりげなさを装ったアタシの言葉に、林檎は少し不機嫌そうに唇をとがらせ愚痴るように応えた。
「む、そう言えば最近妙に浮かれているような……。あのクソの話なんぞ意地でもしなかったから知らぬものとばかり思っていたが、もしかして気付いているのかも……」
むむうと考え込む林檎。そうだろうね。旦那がアレなんだ、その奥さんだって“まともじゃない。”ほぼ絶対の確立でアタシらの想像の“斜め上”を行く。ならば――
「だったらさ、今回の事ちゃんと知らせてやった方がいいんじゃないか? ほれ、話聞いたら愛想尽かすかも……」
「よし行こうさあ行こう。思い立ったが吉日幸せは歩いてこないならばこの手でつかみ取る!」
――巻き込む。勿論愛想尽かすなんてのは建前だ。青森さんを見ている限り女房子供を嫌うなどと言うことは有り得ない。ならばその逆も然り。あの人の女房になる人が、旦那に愛想を尽かすなどと考えるはずがない。さらに言えばコイツの母親だ。まともな人間だというほうがおかしいだろう。
夫婦の愛の力にて家庭観の問題は勝手に解決して貰おうじゃないか。ぶっちゃけ押し付ける気満々なのだがその辺は気付かなかった事にして欲しい。
意気揚々と歩く林檎の後ろでアタシはくくくと後ろ暗く嗤う。後ろ手で携帯をいぢって仲間に連絡。林檎の家に赴く旨を伝える。
うん、色々あって相当参っていたと思うんだ。
よく考えなくても最悪の方向に事態は転がっていくって、分かっていたはずなのに。
「おかえりい林檎。……あらあら、そちらはお友達かしら?」
出迎えたのはごく普通の、どこにでもいるようなにこやかな主婦だった。
ほんわかした雰囲気にエプロンがよく似合う。これが林檎のお母さんなんだろう。
……第一印象で騙されないぞ? 心の中の警戒を表に出さないよう心掛けて、アタシは無難に挨拶をした。
「初めまして。林檎さんのクラスメイトで夏川 かりんと申します」
「あらあらこれはご丁寧に。林檎の母をやっております秋沼 静香といいます」
ぺこりと一礼。滲み出る雰囲気からもの凄くいい人そうだというふうに感じられるが油断はできない。なぜかふふんどうだねと胸を張って威張る林檎を横目に、表面上は笑顔で言葉を交わすアタシ。
「突然お邪魔して申し訳有りません。なんでも林檎さんが大事な話があるとかで、付き合って欲しいとのことでしたので」
「あらあらそれはそれは。わざわざありがとうございます。……それで林檎、お話って何?」
「うむ、ここではなんなので家に上がらないか母様。今日という今日は心ゆくまでとことん色々とぶちまけまくるから覚悟するといい!」
林檎の剣幕をあらあら何かしらと笑いながら受け流す静香さん。慣れているのか元々そうなのか。どっちにしろ長年これと付き合ってきてその余裕は、大物なのかと思わざるを得ない。流石は母親と言う事か。
さて、上がったはいいがこれからが大変だ。隣に座るバカの手綱を握り、話の制御をしなければなるまい。 いや、これだけ暢気そうな人だ、なまなかな事では腰を上げない可能性がある。だったら林檎にあることないこと喋らせて焚きつけるのも手か。
わずかに迷い、そして後の手を取ることに決める。正直アタシでは手を出す事でしか林檎を制御できない。さすがに母親の目の前でそれをするのは気が引ける。正直制御するのが面倒だというのもあるけど、ここはお手並み拝見といこうじゃないか。
そこから先の林檎は、まるで水を得た魚のようだった。
身振り手振りを交え、感情を露わにし、まるで舞台俳優のように堂々と、あることないことを交え青森さんの所行を細大漏らさずぶちまけて見せた。もしも二人の関係とキャラクターを知らなかったらアタシでもころりと騙されていたかもしれないほどの説得力。この子がこれほどに弁が立つとは思わなかった。普段適当なことばかり言っているのが嘘のようだ。これが本来……じゃないよなきっと。多分オチが待っている。
「……などとほざきやがった上に、公衆の面々の前で●●●を●●あげ、お●●の●をいぢり回したなんて変質者的な事を堂々と! 他にも年端も行かない幼女のお●●●したぱんつを●●●●……」
やっぱりか。思わず額を手で覆って天を仰ぐアタシ。いやあの嘘じゃないけどさ。女の子が堂々とシモの話を声高らかに吠えたくるのはどうよ。いくら相手が家族だからと言ってもさ。
が、予想通りというかなんというか、静香さんは欠片も動じなかった。
「あらあら。相変わらずねえあの人は」
うふふと笑みを浮かべて楽しそうに言う静香さん。
昔からああだったのかよ。そのどこに惚れたんだよ。条件反射でツッコミ入れそうになるのを堪える。やっぱり予想通りというか予想以上というか。この人もやっぱりおかしかった。
だがアタシはまだ甘かった。最悪というのは予想のはるか斜め上を行く。その事をすっかり忘れていたのだから。
「昔とちっとも変わらないわあ。“プロポーズの時も似たようなやりとりをしたのよ”」
待て。似たようなやりとりって何だ。とてつもなく嫌な予感が奔る。が、止める間もなく静香さんはぺらぺらと立て板に水を流したかのごとく喋り出す。
「あの人ね、プロポーズの時にたとえ君が●●●●●●ーとかになって●●●の処理ができなくなったりしても僕が●●●も●●●●も丹念に●●●●とか●●●とか皺の一つまで丹念に拭ったり洗ったりやもすれば舐めたりして懇切丁寧に世話をするから! とか必死になって力説してねえ……途中から福祉の話だか特殊なプレイの話だか分からなくなっちゃったわ」
「うおおおおおおおい!?」
ダメだあ! 何がダメかって、そういう話をいやんいやんとか超うれしはずかし的な態度で言うのがダメだああああ! いくらなんでもツッコまずにはいられるかってんだ! しかし静香さんはとまらない。アタシらごときでは止められない。そう、この人は確かに林檎の母親だった。
ぶっ飛び具合のレベルが違う。
「でもねでもね、おかあさんもそういうプレイはやぶさかでもないのよ? 実際幼児とか学生とか上司と部下とか色々なシチュエーションでお互いの●●●を●●●合ったり●●合ったりそれとか●●●を●●●して●●●●●の●を●たりするとあの人もすごく元気になったりしちゃってもうあーたスゴいってもんじゃなくなりましてよ? そうなるとおかあさんだって張り切ってお●●●●を……」
聞きたくねえええええええ!? 惚気なの? 惚気で良いのこれは!?
ちょ、すごい暴露ぶりっていうか聞いてませんからそういう事は! もんどり打ってひっくり返りながら、アタシはツッコんだ……つもりだったけど、
体は言うことを聞かず、びくびくと痙攣するだけだった。
……ってあぶねえええ! 幽体離脱してるうううう!?
慌ててエクトプラズムを口の中に押し込んで、アタシはがばりと起きあがる。予想外かつなんちゅう攻撃力だ。家族揃って総出でダメかこの一家は? どうしたもんだよこの人達。と、とにかく話を止めよう。このままだと気が狂いそうになる。そう思い動きだそうとしたその前に、隣でがたりと椅子をひっくり返したような音が響いた。
いや、実際ひっくり返ったのだ。突如立ち上がった林檎のおかげで。
彼女は俯き、ふるふると身を震わせている。あ、やべと直感したと同時に林檎はぐわっと面を上げ、泣きわめいた。
「うわああああああん! 変態ばっかりだああああああ!!」
全く自覚のない訴えをドップラー効果で残し、林檎は脱兎のごとく駆けだして部屋を飛び出した。
拙い。考えるより先に後を追う。くそったれ、色々ありすぎて判断が甘くなっているのか。家族巻き込むなんて考えなきゃ良かった。スゴいレベルの変人だと予測できただろうに。
靴を履くのもそこそこに表に飛び出る。すでに林檎の姿は見えないが、もうもうと巻き上がる土煙がその所在を表していた。追跡するのは難しくない。
追う。普段なら林檎に追いつく事などわけもないが、今の暴走状態にあるあの子を追うのは少々きついかもしれない。面倒なことこの上ないが、自分のまいた種だ、刈り取らなきゃいかんだろうさ。
「あらあら、あの程度で錯乱するなんてウブねえ。鍛え方が足りなかったかしら?」?
そういう問題じゃないと思いますが!? こんなときまでマイペースな人だなまったく……。
「ってなんじゃああああ!!??」
「あらあら、驚かせちゃったかしら?」
ぎょっとして横を向いてみれば相変わらずのほややんとした静香さんの姿。
いやちょっと待て、全身全霊で待て。アタシ全力疾走してんだぞ? なんでこの人“すたすた歩いて併走してんの!?”
「前を向いていないとあぶないわよう?」
「え? は、はいい」
強引に顔を前へ向ける。静香さんの気配はそのまま、併走しているというか、アタシの隣から離れる様子はない。変な人だ変な人だとは思っていたけれどここまで変か。青森さんといいこの人といい、似たもの夫婦だったてことかい。泣くぞ理由もなく!?
現実逃避気味に疾走を続けるアタシに向かって、静香さんは気にしたふうもなく語り掛けてくる。
「あの子はちょっと抑えが効かないところがあるから、学校でも色々と面倒を起こしているんじゃない? もう少し堪えるように育てたかったのだけど……やっぱり父親が留守がちだと捻くれるものなのかしら?」
いーえ素直に育った結果がアレだと思います。自覚というか自重して頂きたいんですが色々な意味で怖くて口に出せません。藪をつついて蛇が出まくるような気がひしひしとするし。
「妄想は普段頭の中だけで展開してこそ練り込まれていくものなのに。垂れ流していたら熟成する間がなくなっちゃうわ、本番で迸らせなければ意味がないというのに」
蛇が藪をつつく前に襲い掛かってきた場合にはどーしたらいーんでしょーか。
こりゃいかん。とっとと林檎回収しておさらばしよう。このままこの人に付き合ってたら精神ががりがり削られてしまう。正気を保てるうちに……っ!
背中に氷柱が突き込まれたような悪寒。考える前に身体が反応しアタシはその場からとびすざる。地面に、壁に、アタシの後を追うように突き刺さっていくのはありとあらゆる刃物の群れ。
まさかっ!
「…………nz……:q3……」
ぬたりと嗤う、気配。
突然日が落ちたかのように暗い空気が周囲に満ちる。闇と化した路地の向こうから、ひたり、ひたりと、湿った足音が響いてきた。
現れるのは、人の姿をした闇。三日月の形に口元を歪め、両手の指の間に刃物挟み持つそいつは、ゆっくりとこちらに歩いてくる。
ちい、この忙しいときによりにもよって。狙ってたんじゃなかろうね?
存分に叩きのめしたくもあったが、生憎と余裕はない。すぐにでも林檎に追い付かないと。場合によっちゃあ向こうにもコイツの仲間が現れているかも知れないのだ。だがどうする、簡単には通してくれないだろうし、なにより静香さんを庇いながらやりあうってのは無茶が過ぎる。
構えを取ったまま、迷う。しかしそれは、予想外の形で無意味と化した。
「……ふ~ん、あなた達が、ねえ?」
全く調子が変わっていないのに、底冷えのするような“何か”を秘めた言葉。そうだった、この人……。
全力疾走のアタシに、徒歩で追い付いた変人だった!
微かな金属音。アタシの前に出るついでに壁に突き刺さったカッターナイフを引き抜いた音だ。それをくるくると片手で弄び、猫がネズミをいたぶるかのような素敵な薄笑いを浮かべ、静香さんは目の前の闇に語り掛ける。
「あっちこっちでオイタして、うちの旦那を引っ張り回してるみたいじゃない? そんな悪い子には……どんなお仕置きが妥当かしら?」
怖えェ! 超怖えェ!? トラの尻尾を踏ん付けたような恐怖感が、アタシの背中を駆けめぐる。うわああん、やっぱりタダモンじゃなかったよこの人!
ビビりまくりアタシに対し、静香さんは顔を向けることなくこう言った。
「さ、ここはおばさんに任せて、かりんちゃんはうちの娘をお願いね」
「え? あ、あのでも、流石に一人じゃあ……」
そう、コイツらはアタシらが束になってかかっても倒しきれなかったほどの相手だ。静香さんがどれほどのものかは分からないけど、一人で相手をするのは危険だと思う。けどそんなアタシの考えを吹き飛ばすかのように、静香さんは軽く笑いながら応えた。
「大丈夫よ。時間稼ぎくらいなら余裕だから。これで旦那と同じ元警官、昔取った杵柄は伊達じゃないわよ?」
た、確かに大丈夫そうではあるんだけど……。
「それに長いこと旦那とご無沙汰だった間に溜まった滾るモノをぶつけまくるには丁度いい相手だしねえ」
うん間違いなく大丈夫だ。なんか怪しい笑顔で舌なめずりなんかしてる静香さんの横顔を見てアタシは確信を得た。心なしか対峙している闇のような人影もドン引きしているように見える。勝てはしないかも知れないが、後れを取る事はまずないと感じられた。
お願いしますと軽く頭を下げ、その場を駆け出す。ロスは僅か。しかし人に害を与えるのであれば十分な時間だろう。
無事でいておくれよ、林檎。
「どおおりゃああああ!」
吠えながら全身全霊の跳び蹴りをぶちかます。
狙いは違わず。直撃を喰らった人影はあっさりと吹っ飛ばされた。
予想通りの展開だった。以前林檎が逃げ込んでいた公園。そこで同じようにしょぼくれていた彼女の前に、ヤツは現れた。まさに今襲い掛からんとしていたその寸前。ぎりぎりのタイミングであった。
何が起こったのか理解できずに目を丸くする林檎を背に立ちはだかる。とりあえず一発ぶちかましてみたものの……まずいねえコレは。脇目も振らずに林檎かっさらって逃げようかと思ったけれど、この野郎やってくれやがった。アタシはちらりと右足に視線を向ける。
一筋の紅い線。そこからじわりと血が流れ出てきていた。手応えがあっさりしていると思ったら、どうにもわざと蹴りを受けて、刹那の瞬間にアタシの脚へと斬りつけていたらしい。
「味な真似をしてくれるじゃないか……」
「ちょ、かりん!? これは……」
「黙って大人しくしてな」
脅すように低い声で林檎を黙らせる。この脚ではこの子を連れて逃げ切る事は無理だろう。ケンカだって、今のところは支障はないけれどそう長くは保たない。まともなやり方じゃコイツ相手に短期決戦なんて無謀に過ぎる
……殺るしか、ないか? 危険な思考が沸き上がる。普段ならそれを抑えようとするが、今はそんな余裕もない。殺らなきゃ、殺られる。そういう二者択一な状況だった。
構えをとる。迷いを振り切った……というより本能的なものだ。ここは開き直った方がいいかも知れないと思う。いや殺る覚悟ができたわけじゃないけれど、全力を尽くさなきゃこっちが危ない。死んだら事故とまでは言い過ぎだけど、それぐらいじゃないと後れをとる――
「――っと、考えてる間もないかっ!」
顔面目掛けて放たれた銀光を弾き飛ばす。ちっ、今ので手の甲がちょいと切れた。脚と違って手は使い慣れていないからねえ。かといって今無闇に脚を振り回したら出血が酷くなって鈍るのが早まる。できうる限り使わないのが得策だ。
このまま受けに回っていては手詰まりになる。ならば。
「ふっ!」
踏み込んで、前に出る。
肩の力を抜き、拳には必要以上の力を込めない。あくまで腕は相手の攻めを捌くためのもの。いなし、隙を作る事のみに集中する。
全ては最高の位置、最高のタイミングで、最上の蹴り技を打ち込むための伏線。動きを抑え、無駄を省き、ただその時を迎えるためだけに全身全霊を傾け、技を組み立てていく。己を律し、相手の動きを制し、狙うは唯一、その一撃。
飛来する全ての刃を捌く――前に刃物を振りかざした闇が迫る。林檎の方に向かうものだけを弾き、後は最小限の動きだけで回避。いくつかが服や肌を掠めるが気にしない。踏み込み、振るわれる腕をかいくぐって懐へ。相手の勢いを利用し鳩尾に肘打ちを打ち込む。もちろんこんなもの効きはしない。だが流石に物理法則とかまでは完全無視できなかったらしく僅かに身体が浮く。そこへフック気味のアッパー。半ば宙に浮いている状態の闇は回避できない。
重い手応え。真芯を捕らえた。吹き飛ばされる闇。体制は崩れた、だがまだ。さらに踏み込む。視界の端にきらめく銀光。
が、と刃物を持った手首を掴む。体勢を崩しながらも抜き打ちで斬りつけようとしたのだ。ほぼ同時に反対の腕も掴んだ。油断も隙もない。相手は構わず力で押し返そうとするがつきあってられないっての!
「どっせい!」
「t"Z!?」
間髪入れず眉間と思わしき場所へ頭突きを叩き込む。一発じゃあ済まさない。続けて二発、三発。仕留めるまでは行かないが、流石に辟易したかよろりと傾く闇。
勝機。
「ふっ!」
短い呼気と共に身を沈める。雷打蹴とは違い半ば精度を無視して、全身のバネを限界まで引き絞る。
骨が微かに軋み、傷口がずきりと痛む。それを無視して引き絞られたバネを瞬時に解放。ごく短く、地表ぎりぎりを旋回しながら飛翔し、打ち抜くつもりで蹴り付けた。
直撃を喰らった闇は、為す術もなく吹っ飛びゴミ置き場に頭から突っ込んで動かなくなる。そうでなきゃ困るね。今のは単なる打撃ではなく浸透力と貫通力を重視した、アタシが放てる最大威力の蹴り。砲弾のようなそれは、絶好調であれば一抱えもありそうな太さの立木を蹴り砕ける。名付けて――
「――龍吼脚。ちったあ、効いたろ?」
ざざざと擦過音を立てて着地しながら、にいと不敵に嗤ってみせる。と、同時に脚の傷から血が噴き出してきた。
「か、かりん!? ちょっと、血がっ!」
「あーもー、騒ぐんじゃないよ。見た目が派手なだけさね」
ハンカチを取りだして応急処置。脚だけじゃなくあちこちに細かい切り傷ができているけれどそっちの方は支障ない。しかし林檎には何でもないように言ったが脚の傷、以外と深かった。血管や筋肉には届いていないのが幸いだけど、この様子じゃ龍吼脚を放てるのはあと一発か二発。今の一撃で仕留められてれば何の問題もないけどね……。
そう上手く問屋は降ろさないだろうさ。
「ひっ」
林檎が短く悲鳴を上げる。案の定、ゴミ置き場の中で闇がゆらりと身を起こしてくる。骨の一本も折れていてくれれば御の字だと思ってたけど……あの様子じゃあ致命的なダメージを負っているようには見えない。だが。
「eqe…………eqe964…………uyw"vs"ebsr.k9666666…………」
「効いてないわけじゃあ、なさそうだね」
声には確かに苦悶の色が含まれている。動きも多少鈍ってきているようだ。まあ普通なら内臓破裂じゃ済まない、交通事故並みの打撃を喰らってその程度かって意見もあるだろうが、コイツらに対しての攻撃なら十分以上の成果だろう。あとは……こいつが戦闘不能になるか、アタシの脚が使い物にならなくなるか。その勝負となる。
「かりん……」
「大丈夫だ。任せろ」
不安を押し隠して断言する。まったく、そんな蚊の泣くような声出すんじゃないよ。可憐すぎて調子が狂っちまわあ。
アタシゃ未来永劫こんな声出せやしないだろうなあと、僅かに羨ましく思いながら苦笑。一瞬ちらりと誰かさんの顔がよぎるが今は気にしている場合じゃない。気合いを込め直して再び踏み込――
『おるあああああああああああ!!!』
――む前に、横合いから隕石のごとく突っ込んできた何か“たち”が、闇を思いっきりぶん殴った。
ぶおんぶおんと縦回転で吹っ飛ばされる闇。雑伎団もびっくりなその芸当をやってのけたのは。
「大丈夫か林檎怪我はないな押し倒されてないなぱんつは無事だなほぶればっ!?」
即座に林檎に迫って殴り飛ばされている馬鹿と――
「ゴメン遅れ……って怪我! また怪我してるじゃないかかりん!」
――アタシの様相を見て、泡を食って駆け寄りハンカチを取りだして傷口を拭い始める夕樹。
えっと、来るかもとは思っていたけど、ホントに来ちゃったよ。ご、ご都合主義ってヤツ?
「言ってる場合じゃなくて、ほら、絆創膏。他は……うわ、脚と手凄い傷じゃない!」
言われて初めて手の甲から激しく出血していた事に気付いた。あ、そうか、投げつけられた刃物を弾いたり、そのまま相手をぶん殴ったりしたんで傷口が開いたのか。あちゃあと眉を顰めるアタシを「呑気なこと言ってないで!」と小さく怒鳴りつけ、夕樹は躊躇なく裂いたハンカチを手早く手に巻き付けて止血を行う。
なかなか上手いじゃないか。手慣れたその様子に少し感心して呟くと、夕樹は口をとがらせて言い訳がましくぽそぽそと応えた。
「好きな子が怪我ばっかしてるから、ちっとは覚えようって気になるよ……」
正直、萌えた。
……っていかーん! 立場逆! そっち乙女の立ち位置! アタシの立つ瀬とかなくなるじゃないのさ!
「見事な拳だ無事なようだな。重畳重畳、林檎には丈夫な子を産んでもらわねばならないからな」
「待て貴様どこまで話を飛躍させているかボクの何が目的だ――」
「全て。秋沼 林檎の全てが欲しい」
「――っ!!!」
人が苦悩している横でなにラブコメぶちかましてくれやがりますか。いや人の事は全く言えませんが。その名の通り真っ赤に顔を染め「うう……」とか呻いている林檎を横目に、同じようにのぼせ上がったアタシはちょっと現実逃避していた。ええいくそ、話題を、話題を変えよう。
「と、ところで青森さんは? 真っ先に飛んできそうな気がしたけど」
「さんざ迷った挙げ句奥さんの方に行った。血の涙を流しながら娘を頼むとか言われちゃったよ。手ェ出したら死なすとか釘刺されたけど」
「あ、そ」
互いに引きつった笑みを見せ合うアタシと夕樹。もう何も言うまい。
とか油断していたら。
「bk/r2"qs"mt"3333333! pehyiatz"hyd"',555555555!」
耳障りな雄叫びを上げながら、闇が再び襲い掛かってきた。ち、ひつこいな。再び迎撃しようと構えたら、額のあたりからぶちびちと音を響かせている野郎二人がアタシらの前に立った。
「あ゛あ゛? 人の嫁になに手ェだしてやんだコラ」
「…………死なすよ?」
ヤンキーばりにガン付ける北畑と、にっこり殺す笑みで笑いかける夕樹。誰が誰の嫁だと難癖を付ける林檎の声を背に、二人は一歩踏み出した。そして拳を振りかぶる。
『とりあえず殴られとけ!!』