皇太子殿下は大笑いする
「ところで、お前の前世の世界には日本語以外の言語はあったか?」
「え?はい。もちろんです。7000を超える言語がありましたよ。多いでしょう?まあ私がその中でなんとか話せるのは英語くらいしかありませんけれど」
はっ!寒気がっ!
そう言った瞬間、アルベルトがにやっと笑った気がして私の背中に謎の震えが走った。な、何だこの嫌な予感は……!
「ほぉ、なんとか話せる、ね。ということは一応そのエイゴとやらで読み書きができるんだな?」
「あ、あ〜、ど、どうでしたっけ〜?まぁ出来たようなできなかったような……」
斜め上を凝視する私の手にぽん、と新たなハンカチがのった。
「エイゴで何か書いてくれ」
「いやいやいや、本当に、率直に申し上げますけど、私は英語をそんなペラペラ話せる訳では無いんです!!外国人の前ではあわあわして逃げるタイプなんです!勘弁してください!」
「別に外国人の前で話せとは言ってないだろ。適当でもいいからとりあえず書いてくれ。なんでもいいから」
「え、なんでもですか?じゃあ自己紹介とかでもいいんですか?」
「ああ。どんな言語なのか見てみたいだけだからな」
えー、ほんとに?あんたの顔を見てるとそれ以上を求められている気がビンビンにするんだよ。疑わしげな目でチラチラと見上げていると、早く書け、と無慈悲に命令された。わかったよ!書けばいいんでしょ書けば!
私はハンカチに、私の名前はセリーナです。と、英語で書いて、アルベルトに渡した。ほらよ。これで満足か?
アルベルトはそこに書かれたアルファベットを見て、少し満足そうに頷くと、発音するように要求してくる。
マイネームイズ、セリーナと読んでやると、何かに納得したようだ。え、なに?
「日本語より英語の方がこちらの世界の言語に馴染みがあるな。文字の形もどことなく似ているし、言語体系…は分からないが近い気がする。……あくまで勘だが。これなら俺でも習得出来そうな気がしなくもない。試してみてもいいだろう」
「ええ、まあ、日本語はあっちの世界でも難しい言語でしたからね。その点英語は世界共通語でしたしまあ比較的……って、え?今なんとおっしゃいました?習得?」
聞き捨てならない単語がアルベルトの口から飛び出した。英語を習得……だと…?
「ちなみにそれは、誰に習うおつもりでしょうか」
「お前に決まってんだろ。他に英語を話せる奴はいない」
ええ、ですよね!!だが断る。無理。無理無理。英語教師じゃないんだぞ!無理に決まってるじゃん!
無言でブンブンと首を横に振る私。それを宥めるアルベルト。
「まあ落ち着け。英語はお前の第一言語じゃないんだろ?途中で1から習ったものだろう」
「はい、そうです。私の世界の学校で13歳から習います」
「だったら教えられるはずだ。第一言語を文法的に教える方がどちらかというと難しいんじゃないか?文法なんて普段意識して話していないしな。英語は一から習ったんなら、お前は全く英語に関する知識がない人間に施す授業を受けたということだ。授業で言われたことをそのまま俺に伝えてくれればいい」
「いや簡単に言いますけどね、授業の内容なんてそんなに覚えちゃいないんですよ。教師みたいにきちんと教えられるわけがありません!」
「そこまで期待してないから安心しろ。なんでもいいからお前が知っていることを言ってくれればそれでいい。まとめたり体系立てたりするのは俺がやる。別に順序だてて説明する必要は無いよ。
……そうだな、まずはこの世界の絵本を英語に訳してくれ。それでそこにでてきた文法とかを説明してくれればそれで十分だ。もし上手くいかなくても文句は言わない。それでどうだ?」
「ま、まぁそのくらいなら……」
交渉ごとに長けた皇太子の口車に私は見事に乗せられた。くっ、またやることが増えた……っ!いや、教える私よりも習うアルベルトの方が大変なのだから文句を言ってはいけないか……。はぁ。大変だ。まあ、英語は私の唯一の得意科目だったし、数学教えろとか言われるよりは数百倍マシだ。よし。私は運が良かったと考えることにしよう。その方が幸せだ。
「というか、なぜ英語を習いたいんですか?」
「こんなメモを誰かに万が一見られたらマズいだろう。だが日本語を読めるのはお前だけでそれは不便だ。俺たち2人だけが読める言語が望ましいが、正直習得しようにもそのカンジとやらを覚えるにはかなり時間がかかりそうだ。英語の文字の方がこの世界の文字に近くて覚えやすそうだし、それに……」
今更ながら訊ねる私に答えるアルベルト。だが段々とその話が耳に入ってこなくなった。私は先程から感じていた違和感が膨れ上がってくるのを感じて冷や汗をかく。
気のせいだと思い込んで無視していたが、やはりこれは気のせいじゃない。そろそろ現実を見た方がいいと私の頭が囁いている。
うん、だよね…。私はそっと手を違和感のする部分に当てる。そしてその感触に確信を持った。やはり…。これは現実だ。
ゔゔっ…、お腹がっ!お腹が苦しいっ!!!
私は少し前かがみになった。今になって大量に食べたご飯が水分を吸って胃の中で膨らんできたのである。うがぁああああっ!!苦しいよおっ!!
限界まで張るお腹を容赦なく締め付けてくるドレス。ギリギリと私のお腹の肉にドレスが食いこんだ。コルセットをしていないのが唯一の救いだ。だが十分にキツい。うっ、吐きそう。ひっひっふー、ひっひっふー、こんな時はラマーズ呼吸法だ。あれ、違うかも。うぇえ、気持ち悪いしくい込みすぎてお腹が痛くなってきた。泣きそう。
そうして、なんとか適当に相槌を打ちながら冷や汗をかく私の異変に、アルベルトが気がついた。気がついてしまった。
「おい、どうした?気分が悪いのか?」
少し前かがみになったまま微動だにしない私の顔をアルベルトが覗き込んでくる。動けない…。ちくしょう!くるしい!くるしい!自業自得なんだけどね!くそ!調子に乗って食べすぎた…!
顔が真っ青だぞ、と言われて力なく首を横に振った。大丈夫です、と答えると、鏡を見てから言え、とピシャリと返される。
眉根を寄せたアルベルトが自分の上着を脱いで私の肩にかけてくれた。そのままゆっくりと背中をさする彼が心配の色をにじませた声で聞いてくる。
「どこが痛い?それとも気持ち悪いのか?誰か人を……」
そう言いながらアルベルトが立ち上がりかけるのを私は全力で阻止した。やめろ、やめてくれ。それで医者を呼ばれて原因が食べすぎ、なんてなったら私はもう生きていけない。社会的に死ぬ。おめでとうヒロイン。君の勝ちだ、なんてことになってしまうっ!ほら見ろ!破滅フラグはどこにでもいるんだ!……いや、これは私のせいだけど!
死んでも離すものかと腕にしがみついて、絶対に嫌、と拒否する私にアルベルトが困った顔をする。だがな、と、説得しようとする彼。首を振る私。
ついにはアルベルトがベンチに座って苦しむ私の前にしゃがんで顔を見上げてくる。両手をとって軽く握りながらの、ガチの説得スタイルだ。
「いいか、信頼出来る者に頼むから大丈……」
その時、彼の真摯なセリフを遮ってピシィっと嫌な音が響き、アルベルトの顔に向かって何かがすごい勢いで飛んでいった。瞬時にその正体に気づいた私の顔から更に血の気が引いた。あぁあああ!!!終わった……っ!最悪だ…………!
ものすごい反射神経を発揮して顔スレスレで物体をキャッチしたアルベルトがゆっくりとその正体を確認した。絶望する私。首を傾げるアルベルト。
1拍後、その正体に気づいた彼はゆっくりと顔を上げて私を見ると、そのまま視線を落とした。―――――私のお腹に。
「…………………………………………」
「…………………………………………」
空気がピキピキと凍りつき、私は冷や汗を垂らしながらそっぽを向いて、そっと、お腹を手で隠す。そう。ちょうどドレスの前を留めていたボタンが弾け飛んだ部分を…………。
なんで今日はこのタイプのドレスを着てしまったんだろうか…。今日の私のドレスは前部分、ちょうどお腹のあたりをキラキラ輝く宝石のボタンで何ヶ所か止めるデザインである。最近流行りのデザインで、斬新で可愛いのだけれど……。うぅ……っ!
無言のアルベルトの方を見れない。私はそっぽを向いたままじっと固まっていた。沈黙がずっしりと私の肩にのしかかってくる。うっ、吐きそう……っ。お腹の痛みがさらに酷くなった。
うわぁああっ!やめてっ!今見た事は全て忘れてっ!!今のアルベルトの気持ちを想像しただけで頭が痛くなる。ごめんなさいホントごめんなさい。
「………ふっ、く、……はははははっ!」
と、そこで、くっと笑いをかみ殺すような声が聞こえたと思ったら、私の前にしゃがんだアルベルトが、私の手を握ったままの自分の手の甲に額を押し付けて大笑いしていた。ぷるぷると彼の肩が震えている。どうやらこれでも必死に笑いの衝動を抑えているらしい。
「あ、あの……」
恐る恐る声をかけたが彼は笑ったままだ。涙が出るほど笑っている。冷たい表情の多い彼にしては珍しい、邪気のない笑顔を見て、声をかけるのも忘れて思わずぽかんと見とれてしまった。
「はー……っ、悪い悪い。笑い事じゃなかったな」
ようやく笑いの衝動が収まった様子のアルベルトが目の縁に浮かんだ涙を拭いながら立ち上がる。
私は気まずくて目をそっと逸らした。
「ドレスであんなに食べるからだ…っくくっ。まあ腹が減るのはわかるがな」
くすくす笑いながら、耳まで真っ赤にした私の頭を軽くなでると、「ほら、あと2個くらい外せ。苦しいだろ?」と言ってくる。は?なに?なんだって?
え?と聞き返すと、しゅるりと自分の胸元のスカーフを外しながらアルベルトがもう一度繰り返す。いや、外せって何言ってんの!?外したら困るでしょ!?
はぁ?と眉根を寄せた私に仕方ないなと言わんばかりの表情でアルベルトが手を伸ばしてきた。止める間もなく、器用に私の腹部のボタンをドレスの形が崩れない程度に残してあとは全て外すと、開放感に感動する私を促して立たせた。
ああっ、息ができるっ!感動顔で深呼吸を繰り返す私をよそに、足元に膝をついたアルベルトが自分のスカーフを私の腰に巻いて外れたボタンの部分を上手く隠し、前で緩く蝶結びにしてくれた。
おおっ!すごい!なんか可愛い!腰の部分にリボンがついたようになって可愛い。え、え、なにこれ!ありがとうアルベルト!!
「あ、ありがとうございます!!本当に、なんとお礼を言ったらいいか……!」
「どうだ、楽になったか?」
「はい!それはもう…!」
前のめりになってお礼を言う私に軽く頷くアルベルトの顔にはまだ笑いが残っている。
……そんなに面白かったか?まあでも良かった。ドン引きしないでくれてありがとう…。うっ、恥ずかしい…っ!今更ながら恥ずかしさが再び込み上げてくる。
食べすぎて膨らんだお腹で弾き飛ばしたドレスのボタンを婚約者の顔面に飛ばした女はきっと私が初めてに違いない。うわぁあああっ!顔が上げられないっ!!
「十分笑わせてもらったから礼はいい。それよりそろそろ終わりの時間だ。行こうか」
くっと笑いを噛み殺したアルベルトが私に腕を差し出してくる。顔をあげられないままその腕を取って、エスコートされて会場に戻った。
◆❖◇◇❖◆
顔を真っ赤にした私と、楽しそうに笑うアルベルト、そして私の腰に巻かれたアルベルトのスカーフを見て、周りがざわめいているのが分かる。
まぁっ!いいわねぇ、初々しいわぁ。
じゃないんだよそこのマダム。現実はもっと残酷だ。私の頭の中で先程の惨劇が何度も繰り返し再生される。もう嫌だ……っ!頭から消えてくれぇっ!!
ひたすら頭を抱えているうちに、いつの間にか皇帝陛下の閉会のお言葉は終わり、帰る時間となっていた。時が進むのが早い。
出口に向かう途中で、私たちの様子とスカーフの場所を見たナタリアが顔を真っ赤にして目をつりあげ、こちらに飛びかかってこようとしたが、寸前で父侯爵に捕獲され、じたばたしながら自分の馬車に消えていくのを見かけた。勘違いするな。代わりたいなら代わってやるよ。お前も味わうがいい、この羞恥をな!!
顔をあげられないまま今日のお礼を述べて挨拶をし、両親に続いて馬車に乗り込んだ私に、アルベルトの穏やかな声がかかった。
「じゃあ、またな、セリーナ」
「……えっ?」
振り向こうとした時には既にもう馬車が動き出していた。え?今、私の名前……。
窓から顔を出して後ろを見ると、珍しく緩い笑みを浮かべたアルベルトが軽く手を上げる。
ガタゴトと馬車が曲がり角を曲がり、その姿は見えなくなった。




