僕は俯瞰をやめて
とある高層ビルの屋上からぼんやりと街を俯瞰する。
「ここから飛んだら自由になれるのだろうか」
そんな思考が浮かぶ度に僕はいつも必死に否定の言葉を探す。
「いや、美しくないぞ、自分。人間は生身で飛ぶことはできない。このまま無様に落下してグロテスクなことになるだけだ。そんな最期は美しくない。」
死に美しさを求めるなんてナンセンスだ。そして死イコール自由とは限らない。しかしここから飛ぶ行為は否定しても死自体を否定しきれない僕がそこにいるのは確かだった。窮屈で仕方ない人間ライフ。いつからか死の世界に惹かれていった僕。特に高い所からの飛び降りには興味があった。だから毎日僕はここを訪れてはくだらない思考を繰り返す。
ある寒い日。その日はそこに先客がいた。僕より一回りは年下であろう白髪の少年。俯瞰せずにただただ空を見上げていた。視線に気付いたのか少年はこちらに振り返る。 「こんにちは、お兄さん。会いたかったよ。また話したかったんだ。」
「え……………。」
言葉をなくして立ち尽くす。僕はどこかでこの少年に会ったことがあるのだろうか、必死に思い出そうとしたが記憶にない。いや、向こうが一方的に僕を知っているだけ、という可能性もある。
「アハハ、戸惑わせちゃってごめんね。知らない人に話しかけられてびっくりしちゃったよね。」
「え、あ、あぁ、まぁ」
子どもにこんなキョドってる姿を晒すなんて…あぁ、恥ずかしい。
「実はね、ボク、ずっと前にお兄さんに助けられたことがあるんだ。お兄さんは覚えていないかもしれないけど。」真っ直ぐにこちらを見つめる少年。
「え、僕が君を?人違いじゃないかな…本当に、僕?」「うん、間違いないよ。」
「助けたって、いつ、どんな風に?」
そもそも僕が人を助けるなんてそんな大層なこと、出来るわけがない。
「ずっと前だよ。このビルの屋上から落ちそうになったのを助けてくれたんだ。」
全くもって記憶にない。やはり人違いなのではないか。「えっと、ごめん。僕、今まで生きてきて、そんな事した覚えがないんだけど…やっぱ、人違いじゃないかな?」「人違いじゃないよ、絶対に。」
本人が違うって言っているのに、全く頑固な少年だ。どうしたものかな…
「お兄さんにお礼の気持ちを伝えに来たんだ。」
目の前の少年は頬を赤らめて微笑む。
「今日、やっと話をすることが出来た。ずっとこの時を待ってた。」
「いやいやいや、ちょっと待って。僕、全然話しについていけてないからね?!どういうことかな?さっきも言ったけど僕は君の事を知らない。」
「知らなくて当然だよ。」
……………は?いよいよ訳が分からなくなってきた。これ以上この少年と話していても埒が明かない。
「あ、あの。僕、帰るね。じゃあ「どこに帰るの、お兄さん。」
ヒヤリと背中に寒気が走る。この少年は、一体?
「どこって、家に決まって…というか、いい加減にしてくれないかな?さっきから訳分からないことばかり言って。随分壮大なイタズラだね。最近の子どもってこんな手のかかるイタズラが流行ってるの?いい迷惑だよ。」
少年は途端に俯く。
「ボクはただ、あの時ボクを救ってくれたお兄さんにお礼が言いたかったんだ。それと、謝りたかった…」
「謝る?何を。」
少年の肩がビクリと震える。
「ボクはあの時と姿が違うから、知らないと思われるのは当たり前なんだ。」
コンクリートに涙をパタパタと落とす少年。
「え、えっと、なんで泣くの。何か僕が泣かせたみたいじゃん。誰かに見られたら気まずいんだけど。てかなに、姿が違う?は、やっぱ意味わからない。」
「ごめんなさい、ごめんなさいお兄さん。」
泣き止まない少年。僕は訳も分からず少年に謝られ、泣かれている。どうすればいいんだ、この状況。暫く傍にいると少年は落ち着きを取り戻した。
「取り乱してごめんね、お兄さん。ボク、決めた。話すよ。話して、やっぱりちゃんとお礼が言いたい。でも、お兄さんには嫌な思いをさせてしまう。それでも、聞いてくれる?」
未だにこの少年が何を言っているのか分からない。でも真剣に僕を見つめている。真剣に僕のことを考えているのが伝わってくる。
「……分かった。君の話を聞くよ。」
ボクは生まれた時から病気でいつも病院のベットの上で過ごしてた。毎日毎日、病室の窓から同じ景色を眺めてた。そしてついに医者から余命を告げられた。余命を告げられた後1日だけ外出が許されたんだ。そして来た場所が、この高層ビルの屋上だった。この街で一番高い所に行きたいって言ったらお父さんがここに連れてきてくれた。空が近かった。感動した。病院に戻った後もずっとその景色が脳に焼き付いたままだった。
最期の日が明日に迫ってきた。怖かった。このまま白い部屋で無になるのが嫌だった。だから、病院を抜け出した。向かった先が、この高層ビル。せめてこの景色のもとで終わりを迎えたいと思ったんだ。
その日は今日みたいにとても寒い日で、そして、風が強かった。
「………あ、れ?」
頭の中にザザーっとノイズが走る。僕は、この少年と、あの日、この高層ビルで…
屋上の淵に立ってボクは考えた。どうせ死ぬならここから…脚がガクガク震える。やっぱり死ぬのは怖い。どうしよう。動けない。ここから飛んで死ぬことも、真っ白な病室で死ぬことも嫌だ。誰か助けて。
ガチャり
屋上の扉が開く。そこに現れたのが、
「あぁ、思い出した。僕、思い出したよ、君はあの時の」「そうだよ、お兄さん。」
あの日も僕はここを訪れていた。死を否定することに疲れた僕が最期の思考をするために。でもその日はそこに先客がいた。黒髪で、線の細い、僕よりも一回りは年下であろう少年。自殺志願者?あんな子どもが?少し近づくと何やら様子がおかしいことに気づいた。少年は震えていた。何をしているんだ?怖いならあんな所に立たなければいいものを。
「ぁ、お、お兄さん」
視線に気付いたのか少年は震えながらこちらに振り返る。その時だった。風が少年を攫うようにして強く吹き付ける。
「危ない!!!!」
少年のもとへ走り手を引っ張る。間一髪少年は落ちずに済んだ。
少年は気を失っていた。病衣を着ているということは病院から脱走してきたのか。救急車を呼ぶと成り行きで僕も同伴することになった。病院に着くとその子の親らしき人にお礼を言われた。そして、少年の病状を聞かされた。あぁ、なるほど。そういうことか、と。僕は病院から去った。少年も大変だな、と他人事のように思考しながら。そして思った。明日死ぬ命を僕は今日救ったのか、と。複雑な気分だった。少年はどう思うだろうか。死ぬつもりであそこに居たのだとしたら申し訳ないことをした。でも少年は震えていた。僕は、少年にとってどんな存在となったのだろうか。僕は何のために今日、あそこに行ったんだっけ?
何故忘れていたのだろうか。平凡な僕の人生の中ではインパクトのある出来事だったはずなのに。
「あの後君は…」
「うん、宣告通り、僕は次の日死んだ。」
笑うでもなく、泣くでもなく、ただただ淡々と少年は話す。
「そうか……え、てことは、君、その、幽霊??髪が白いのって幽霊になった証??!」
僕のリアクションに少年はくすりと笑う。
「そう、いうことになるかな。」
「驚き!!!まじか!僕いつの間に霊感を…」
「あの時助けてくれたお礼、言えずにボクは死んじゃったんだ。だから、ずっとずっと言いたかった。ありがとう、お兄さん。」
綺麗な顔で微笑む少年。
「僕さ、あの日君の邪魔をしたんじゃないかなって思ったんだ。ずっとぐるぐる考えて、考えて、考えて。そしたら次の日にはもう記憶がなかったんだ。本当全く僕ったら情けないったらありゃしない。」
涙が自分の頬を濡らしていることに気付いた。泣いているのか、僕は。
「お兄さん……」
「実はあの日、僕はあそこから飛び降りるつもりだったんだ。君を思い出したのと一緒に僕自身を思い出したよ。もしあの日君と出会わなかったら死に取り憑かれていた僕は躊躇もせず飛んでいた。」
涙がとめどなく流れ落ちる。
「お兄さんも苦しかったんだね、きっと。」
考えもしなかった言葉にさらに涙腺は刺激される。
「僕が…苦しかった?」
「うん。ボクはあの日"死"に怯えていたけど、お兄さんは"生"に苦しんでいた。死んだボクが言うのもなんだけど、生きる事って死ぬ事よりも何倍も怖いと思う。どんなに幸せでも生きている限り不安は付き纏う。自由になりたくても何かに縛られてしまう。お兄さんはだからいつもここに来て自分と葛藤していたんでしょう?死んで、お兄さんの事を知ったよ。」
涙ながらに僕は思った。この少年は本当に子どもなのか。いや、死んだら色々分かるとどこかのスピリチュアルカウンセラーが言っていたのをテレビでみたことがある。侮れない。
「ボクはお兄さんに助けられた。それは紛れもない事実。お兄さんに非はないよ。ただ純粋にボクを救ってくれた事を嬉しく思う。だから、お兄さんに恩返しをしたくて、苦しむお兄さんを助けたくて、…そんな事を思っていたら幽霊のはずのボクが今日、お兄さんに会うことが出来た。」「想いの力ってすごいね。つまり僕が霊感を手に入れたのではなく、君が実体化したのか……」
「そうだね。でももう長くはもたないみたい。最後に言わせてもらうね。お兄さん、下じゃない。上を見て。すごく、綺麗だから。俯瞰はもうお終いだよ。苦しかったら空を見上げるんだ。きっと世界なんてちっぽけに思えるから。」
そういって少年は静かに消えた。
とある高層ビルの屋上で、僕は今日も空を見上げる。ある少年との不思議な出来事を胸に抱き、ただただ空を見上げる。俯瞰せず空を見つめる。
Fin
生きることが苦しい時は俯瞰をやめて、上を見上げる。