螺鈿の箱
私は母方の祖父母の家に来ていた。玄関から入って、廊下の途中にある階段を上がったところに、祖父の部屋はあった。中には家具も小物も少なく、無駄なものはいらないという性格がよく表れている。あまり掃除されていなかったのか、いたるところに埃がたまっていた。
祖父は普段からこまめに片づけるような性質ではなかった。祖母が先に亡くなってからは母が時折帰ってきて家中を掃除をしていた。だが、祖父から自分の部屋だけは必要ないと言われていたらしい。いかにも頑固者らしいエピソードだ、とほほえましく思う。
あまりにぱさぱさと乾いた空気が嫌になって、窓を開けることにした。鍵を外してすりガラスの窓を開け放つと、春っぽい暖かい風が部屋の中へと入ってくる。気持ちがよくて、つい伸びをしてしまった。ずっと座り込んで凝っていた身体が喜びの声をあげているようだ。もう一息ついたら作業に戻ることにしよう、と決めて窓際の椅子に腰かけた。
椅子とセットになっている祖父の片袖机にはレトロなオルゴール箱が一つ置いてあった。天板には、細くうねった川と側に水鳥が一羽。周りには草花が描かれている。側面にも同じように模様が続いている。全体を螺鈿細工できれいに仕上げられた、いかにも上等そうな骨董品だった。つい一週間前に亡くなった祖父の遺品である。螺鈿は貝殻の内側から切り出して作るらしい。こんなに綺麗なものが自然界に存在するのかと思うと不思議な気分になるのは私だけだろうか。
祖父は厳格な人だったと母からはよく聞かされていた。一方、私の持つ祖父のイメージは、孫娘には優しいな少々頑固者のおじいちゃんといったところ。私と話すとき、母や祖母にからかわれてプンプン怒っていたことを考えると、実際に厳しい昭和の頑固おやじみたいな人物だったのだろう。私にとっては、そんな頑固さも、人間味にあふれていて好きだった。
ただ、どんなに甘やかしていても、一つくらいは秘密にしておきたいことはあるようだった。祖父の場合は、このオルゴール箱である。本人に似合わない華やかな宝物。どうして持っているのかを話してくれたことはなかったし、こんなに派手で目を引くのに、私がいくら見たいとせがんでも中を見せてはくれなかった。
あれだけ見たがっていたものが目の前にある。祖父が亡くなったことは当然悲しかったのだけれど、封印されていた秘宝をついに手に入れたかのようなワクワク感も同時に抱いていた。
骨董品らしく、どこか懐かしく感じる機械仕掛けの箱。飾り付けられた螺鈿が七色に輝いている。私は天板を持ち上げた。蝶番が錆びており、軋んで乾いた音が響く。
オルゴール箱なのに音楽は流れてこない。残念ながら古くて動かないのだろう。中を見ると、無造作に重ねられたいくつかの紙束が最初に目に入った。劣化してちぎれかけた輪ゴムで止められている。輪ゴムを外すと、角が少しほつれた紙を一つ一つ開いていった。
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おじいちゃんへ
おたんじょう日おめでとう
いつもあそんでくれるからおじいちゃんのこと大すきだよ
またあそぼうね
かたたたきけんをあげるからつかってね
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おじいちゃんへ
おじいちゃん、60才の誕生日おめでとう!
中学の入学祝でくれた財布は大事に使ってるよ、ありがとう!
最近会えてないから少しさびしいです……
でも、今度のお盆はお父さんお母さんと一緒に遊びに行けそう!
部活に入ったり学校で面白いこといっぱいあったから、またたくさんお話ししてね!
あと、お母さんにおじいちゃんの好きなおでんの作り方を教えてもらったから作ってあげるね
楽しみにしていてください
これからも元気でいてね
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おじいちゃんへ
おじいちゃん、元気にしていますか?
おばあちゃんがいなくなってからはずっと一人で過ごしていると聞いたのでとても心配です。
お葬式のあと、お隣の坂本おばさんが心配して、「困ったことがあったらいつでも声をかけてね」と言ってくれてたんだよ。
一人でいるときっと暗く考えてしまうし、坂本おばさんでも他のご近所さんでもいいから、お話するといいと思う!
私の方はもうすぐ部活を引退して大学受験の勉強を始めます。
そうしたら土日に時間ができるし、ときどきおじいちゃんに会いに行けそうです。
ご飯はちゃんと食べて、家に閉じこもりすぎないようにしてね。
健康には気を付けて!
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おじいちゃんへ
階段でこけて骨折したと聞いてびっくりしました。
本当はすぐに病院に顔を出したかったけど、行けなくてごめんなさい。
再来週になるまでは仕事が忙しくて……。
それにしてもあんなに足腰の強かったおじいちゃんが……と思うと、かなりショックです。
でも、年をとったらしょうがないことだし、落ち込まないように。
それよりも病院にいても油断しないで、身体を動かす時は気を付けてね。
病院での生活はいろいろ大変だろうけど、看護師さんとも仲良くするように!
お見舞いに行ったとき元気に話せるようにしようね。
私も仕事あるし、お互いがんばろう!
追伸
再来週には買っていくつもりです。
何か食べたい物があったら教えてください。
病院にいたら好きな物食べられなくてストレス溜まるだろうし。
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見覚えのある、私の字。
思い出が次々と頭に浮かんだ。読んでいる間、私は表現しづらい、複雑な気分に浸っていた。恥ずかしさ、懐かしさ、何と言えばよいだろう……。心の中は螺鈿のようにキラキラといくつもの色が混ざりあっている。くすぐったくて暖かくなるような。どこかに穴があいてさびしいような。新種の生き物を発見しみたいに興奮しているような……。
紙束の下、オルゴールの底にまだ何か入っていることに気づいた。染みで真っ黒になった白黒の写真。歯がボロボロになった櫛。錆びて表面が何も見えないバッジ。他にも年季の入ったものが出てくる。どうやら全てが祖父の持ち物というわけではなさそうだ。祖父のお父さんお母さん、私からみて曾祖父母のものが混じっている気がした。あとはどこかのお土産や、記念品のようなものらしい。
祖父一人の思い出だけではない。私の知らない誰かの思い出がたくさんつまっている。博物館みたいだな、と思った。ある時代、誰々が作ったとかは分からない。それでも、一つ一つの作品にこめられた物語を想像すると面白いところは似ている。
私はこのオルゴール箱を自宅に持って帰ることにした。私の元から旅立って、帰ってきた手紙たちをもっと眺めていたかった。他にどんな色の気持ちがわいてくるのかと待ち焦がれていた。
家に着いたら、入っている物が何なのか調べてみるのも良さそうだ。インターネットで調べてみればヒントくらいは見つかるはずだ。もしかしたら本当に宝物が入っているかもしれない。そんな皮算用をしてみるのも楽しみの一つだった。
それに、私もこの小さな博物館に自分の作品を遺したくなった。いつか誰かが同じように見物してくれるかもしれない。観客は私の子供でも、孫でも、友達でもいい。全くの赤の他人でもいい。祖父の遺したプレゼントを、私も誰かに渡して繋ぎたかった。