13話:幻惑のノベリア
水のエレメントを操り水と氷の魔術を得意とする魔将ノベリアだが、ほかに恐るべき二つ名を持っていた。
『幻惑のノベリア』。
その幻術は空気中に拡散した水蒸気の密度を自在に変え、ノベリアが望む虚像を相手に見せる特殊な能力を根源とする。
しかも虚像を見てたじろいだ相手の視覚野から認知領域にまであっという間に侵入し、単なる虚像を重さや痛みまで感じる、『限りなく本物に近い幻覚』へと上書きする精神魔法も得意としていた。
それは高度かつ強力な精神支配でもあり、魔将ディセリーヌと言えど魔力が万全ではない今の状態では抵抗することは難しい。
ノベリアが魅せる幻術の鎖で身体中を縛られてしまうと、たとえ何もされていなくても指一本動かせなくなる。幻術から覚めぬまま自分が死ぬ幻を見てしまうと、それが幻であるにも関わらず実際の死を迎えてしまう。
例え肉体は生きていたとしても心が死を迎えると、ほどなく肉体も滅びてしまうのだ。
さらに恐ろしいことにノベリアの幻術と精神支配は、視力を持たない魔族にも有効なことだった。
ディセリーヌは実際には床に転がされているだけだったが、壁の中に埋められて身体が動かない幻術に支配されていた。最初に食らった掌底も次に食らった回し蹴りも実は壁にめり込むほどの威力はなかったのだが、ディセリーヌの身体には相応のダメージが入っていた。
同じダメージになるなら、幻術で十分でしょ?
這いつくばり身動きできないディセリーヌを見下ろしながら、ノベリアは薄く笑った。
だがまだ気は晴れない。
前から、この赤毛女は気に入らなかったのだ。
粗野で短気で、魔将に相応しいエレガントさもない。
魔力の浪費家で、自分の領域の魔物を狩り尽くした挙句、ノベリアの領域へと自分勝手に越境してくる。
序列も実力も底辺。
なのに最後の魔将というだけで魔王様に気にかけられていたことも気に入らない。
そんなディセリーヌが自分の使い魔を殺した。
実は尾行させていたことも忘れていたくらいどうでもよい使い魔だったが、勝手に殺したのは許せない。
きっと魔核欲しさにバカなことをしたのだろう、とノベリアは考えていた。
「いいざまね、ディセリーヌ。でも悪いコのあなたには、もっとお仕置きが必要ね?」
ノベリアは優雅に微笑みながら、ソファーの上で寝ている人影に気づいた。
近寄ってよく見てみると、薄汚い格好をした人族の少年--リオンだ。黒髪はあまり見かけないが、「鑑定」で探ってみても特にこれと言った特徴はない。ノベリアはすぐにリオンに対する興味を失ったが、傍らに隷属の水晶が落ちていたのを見て、ディセリーヌが何をしようとしていたか理解した。
「ディセリーヌ。あなた私の使い魔にひどいことしたくせに、自分は新しいペットが欲しくなったの?」
ノベリアは拾い上げた隷属の水晶を拾い上げ、床に這いつくばるディセリーヌに数瞬見せつけてから軽く握りつぶした。ノベリアの手のひらからバラバラと緑の細かい欠片が落ちてくる。魔将に相応しい、凄まじい怪力だ。
「…よ、よせ。やめろ。その人族には…手を出すな」
何とか起き上がろうとするディセリーヌの周りに、大小さまざまの氷の粒--雹が浮かんできた。
凍雹獄--ノベリアの魔力が作り出した、決して溶けない氷の牢獄だ。これは幻術ではない。
その極低温の雹に肘が一瞬触れただけで、ジュワッという静かな音とともに肘周りが白く凍る。
ディセリーヌは舌打ちしながら、魔力を駆動する。
「…炎帝鎧!」
ディセリーヌの身体が赤いオーラにも似た炎の膜につつまれる。
白く凍っていた肘周りが融け、腕が自由になることを確認したディセリーヌはそのまま浮かぶ雹の檻の一角を力任せに殴りつけた。
ガキーン。
似つかわしくない金属音が響き渡る。だが、ゆったりと宙に浮かぶ小さな氷の欠片は儚い外見ながら微動だにせず、檻はびくとも揺らがない。
逆に炎帝鎧をまとい殴りつけたディセリーヌの拳が白く凍っていた。しかも握りしめた拳の先から白い氷がどんどんと腕全体に広がってきて動かなくなる。
「ぐぬぬぬ」
ディセリーヌは気合で炎帝鎧の出力を上げ、何とか凍化を食い止めたが分はかなり悪い。
50фほどに回復したとはいえ、今のディセリーヌの魔力量では物理的な脱出も不可能だ。序列11位と12位。ノベリアとディセリーヌの序列はたった一つしか違わないが、現在の両名には絶望的な差があった。
「くそうノベリアめ、これほどとは…。オレの魔力がもう少し回復していれば…」
もっともディセリーヌ討伐を決意したノベリアは、万が一にも後れを取っては恥とばかりに秘蔵の魔核を取り崩し、魔力を65фまで回復させてこの場に臨んでいた。元々の地力が違う上に、残存魔力の差も大きい。ディセリーヌは詰んだも同然だった。
ノベリアが勝ち誇る。
「その中で100年ほど反省しなさい。そして罪人のあなたには、ペットなんかいらないわよね?だから私が始末してあげるわ」
ブワッと顔を焼くような殺気がノベリアからリオンに向かって放たれた。
それを受け、気を失っていたリオンの身体がビクンビクンと反応する。
リオンは2・3度目をパチパチさせながらすぐに身を起こし、キョロキョロとあたりを見回す。
どうやら自分がどこにいるか、どういう状況か分からないようだ。
「リ、リオン!その女から離れろ。逃げるのだ!」
悔しさに身を焼きながら、檻の中のディセリーヌが絶叫する。
その様子を不思議そうに眺めながら、リオンは「よいしょ」と立ち上がった。
「誰がお前に立つことを許した?」
自分の殺気にひるまない人族の少年に、ノベリアは内心腹を立てた。
床から生えたとてつもなく太い鎖がリオンの首に巻き付く。ノベリアの幻術だ。
だがリオンはそれをものともせず、のんびり歩きだす。
もともと水蒸気だった幻の鎖は、リオンの歩みとともに再び霧に帰る。
「…ちっ」
自分の幻術が通じなかったことにノベリアは舌打ちした。
実はノベリアの幻術は生命力の弱い相手にかけると、すぐにショック死させてしまう。ノベリア自身、生まれて600年近いが人族に幻術をかけるのは初めてだった。加減が分からないため最弱で術を駆動したのだが、この様となった。
「ディセリーヌの泣き顔を眺めたかったのだけどね…」
ノベリアはリオンが幻術で苦しむ様子をディセリーヌに見せたかったのだが、方針を変えて即死してもやむなし、と手加減なしの幻術をリオンにかけた。
床から極太の鎖が4本延びて、リオンの手足に絡みつく。それは幻ながら、檻の中のディセリーヌされ見ることができた。鎖に巻き取られ、ふらついたリオンを見て、ディセリーヌは目をつぶり思わず顔をそむける。リオンが理不尽に殺されるところを見たくなかったのだ。
だがリオンは倒れなかった。
ちょっと驚いた顔はしたものの、いつものにこやかな顔をして雹の檻に閉じ込められたディセリーヌに向かって、トテトテと何の気負いもなく歩き出した。
「あ、これ借りるね」
そしてリオンは幻術にかかったラフラカーンが一心不乱に支える椅子をヒョイと取ったかと思うと、それに腰かけてディセリーヌに向かって話しかけた。
「ねえ、それ楽しいの?」
ディセリーヌだと思い込み超重量を全力で支えていたラフラカーンは、急に解放された反動でゲフゲフと仮面の下で血を吐きながら床に倒れている。だがそれは擬態だ。ピクリとも動かないローブの下で、すでに幻術から覚めたラフラカーンは怒りに燃えながら急速に生命力を回復させている。
ドクン。
あっけに取られていたノベリアの頭の中で、大きな心音が響いたような気がした。
「…ありえん。何奴?」
ノベリアはそうつぶやくと、目の前で起きている信じられない出来事に衝撃を受けてヨロヨロと2歩下がった。
ただの人族相手に、自分が得意とする幻術が効かなかった。
しかもディセリーヌの配下にかけた対魔族級の幻術をも解呪してのけた。
その事実を理解しがたい。
一瞬呆けたノベリアのその隙を、見逃すラフラカーンではなかった。
神速の踏み込みで肉薄し、細身の剣でノベリアに突きかかる。
「ちっ!」
ノベリアは再度舌打ちして、右腕に瞬着させた氷の籠手でその刃の切っ先を防ぐ。
だがそれも織り込み済みか、ラフラカーンはすぐさま剣を引くと、無言で12連突をぶち込んできた。
それらをすべて捌き切ったノベリアだが、ラフラカーンの剣圧に負けて思わず飛びのき、距離を取ってしまう。
一度破られた幻術はしばらく使えない。何よりも魔将でもないただの従者の剣をこの身に触れさせたのが腹立たしい。しかも憎きディセリーヌの従者ごときに!
その忌々しい事実がノベリアから冷静さを奪った。
「ねえ、それ楽しい?」
リオンの死を見たくない、とばかりに目を閉じ顔をそむけていたディセリーヌは穏やかで優しい声を聞いて驚いた。
自分が攫ってきたリオンが、すぐ目の前で椅子に腰かけながらワクワクした目でディセリーヌを眺めている。
「…いや、楽しくないぞ。何しろここから出られんのだ。下手に触ると身体が凍ってしまうのでな。リオン、お前も触らないよう気をつけろ」
「うん、知ってる」
そう答えたリオンは少し思案顔になり、その後でチョイチョイと指先だけでディセリーヌを呼んだ。
ディセリーヌが顔を近づけると、氷の檻越しにリオンも顔を近づけてきた。
そしてにこやかな顔をして、小声でこう伝えた。
『ティナ。愛しきわがティナ。お前には自由奔放こそ、相応しい』
ガガガガガーンッッッッ!
その優しげな声にディセリーヌは轟雷に貫かれたような大ショックを受けた。
交戦中だというのに、意識が数瞬跳ぶ。身体は硬直して身動きが取れない。
そして何よりも、頭の中が真っ白になって何も考えられない。
その衝撃は、あの夜とまったく同じものだった。
ティナ。
それは『あの方』だけが知っている、『あの方』が二人っきりの時だけ呼んでくれる、ディセリーヌの真名の一部だった。
心に受けた衝撃で歯をガチガチと鳴らすディセリーヌは身体を硬直させたまま抗うこともできず、雹の檻へ後ろ向きに倒れこんだ。雹に触れた身体の各部がたちまち凍り始める。
だが。
愛しきわがティナ…。
愛しきわがティナ…。
自分をそう呼ぶ声がディセリーヌの頭の中でこだまする度、ディセリーヌの身体の芯が熱く疼き、不思議な力が湧いてくる。
今まではディセリーヌの身体を覆う薄い膜に過ぎなかった炎帝鎧がズンと音を立てて分厚くなり、次の瞬間にはありえない分厚さでディセリーヌを球状に包み込んでいる。そして今までは炎帝鎧をまとっていても触れた身体が凍り付いていたのに、今は逆に永遠に融けぬはずの魔法の雹が、ジュワーと音を立てて触れた端から融けてゆく。
なかなかブクマとか頂けず、苦戦しております。
心が折れそうですが、26話まで投稿したので「続き読みたい」と思われたらブクマや感想をお願いいたします。それが励みになります!