次期大公、ブラッシングをする
*アレス君視点
蒼銀の輝きを有する白く長い毛へ、アレスは死んだ魚の目でブラシを滑らせる。
月光を連想させるどこか硬質な色の被毛は、思いの外滑らかで、――ふわもこワンコ程の中毒性はないものの――触り心地が良い。
その被毛の持ち主は、床の上に静かに身を伏せている為、生意気な一つ目ワンコとは違い、ブラッシングに苦労は無い。
目の前のワンコは、アレスが今まで出会った中で、一二を争うぐらい賢いワンコである。
顔の傷痕のせいで、凄い強面だけど。
――熊もペロリなワイルドワンコだから、うっかり怒らせたら、命が危なそうだけどもっ!
目の前のどデカワンコこと、スカーの事を、アレスは本当に良いワンコだと思っている。
実際、飼い主の某騎士団長が妹に虫を食べさせようとしたところを、身体を張って阻止した神ワンコだ。
蛇足であるが、――お前が最後の砦なんだっ!!! と、副団長を筆頭とした部下さん達から、狩猟や食料採取の諸々を仕込まれるようになり、アレスは自分がドコへ向かわされるのか、最近ますます分からなくなってきている。
しかしながら、狩猟も食料採取も、アレスは頑張るつもりであるのだが。
――アレス的に、何故か教本に紛れ込んでいた東方の物語集の、虫愛ずる姫はギリギリ許容範囲内だが、虫食う姫は完全にアウトである。
……もうこれ以上、夢を壊さないでくださいお願いしますっ!
アレスが半泣きになった理由を、由緒正しい筈の王子様は分かっていない様だった。
因みに、――団長なんだよ、大目に見てやって……、と、アレスの肩を叩いてきた副団長の目には、心の汗が滲んでいた。
――アレス君十四歳、夢を持ち続けるには、たゆまぬ努力が必要だと知った、今日この頃。
「アレス、お義姉様のドレスの刺繍に使うのですから、もっと心を込めて採取しなさい」
「……はい……」
アレスとは反対側で、せっせとブラシを動かしている、雇い主の言葉に、アレスの目はさらに虚ろになった。
何でも、次期大公様は、大公に就任した暁には、大好きなお義姉様に結婚式をプレゼントするつもりらしい。
諸事情により、旦那様と奥方様は、結婚式を挙げずに、書類の提出だけで婚姻を済ませてしまったそうな。
その為、女の子の夢である結婚式をお義姉様に体験してもらうべく、末姫様は色々と準備を行っているという。
ドレスもその一環で、お義姉様に最高の婚礼衣装を贈るべく、お姫様はその瞳に、やる気の炎を盛大に燃え上がらせていた。
でも、採取とか。
……仮にもと言うか、正真正銘の神獣の末裔を羊扱いって、どうかと思います……。
心に浮かんだツッコミは、しかし、口には出せなかった。
だって、末姫様は、大真面目にやっているのだ。
神の犬の先祖返りの、蒼銀の輝きを有する白い被毛が綺麗だからと言って、一体どうして刺繍糸にしようという発想に至ってしまうのか……。
この国の染色技術では、スカーの被毛の様な糸を作り出せないからという理由は、分からなくもないが、アレスは分かりたくはない。
そこは潔く諦めようよ、と言うのが、現在進行形でどデカワンコの抜け毛採取に駆り出されている、アレスの偽らざる本音だ。
と言うか、猛烈に凶暴な団長の愛馬の、鬣や尻尾の丸刈りをもろくみ、馬糞攻撃をくらいかけた上に、庇ってくれた団長から教育的指導(物理)を受けたのに、どうしてオヒメサマは懲りないのだろうか?
大好きなお義姉様から、お礼を言われる妄想が入ってしまったのか、鼻息荒く抜け毛採取に勤しむ雇い主に、アレスは乾いた笑みが浮かぶ。
スカーが、抜け毛採取を許してくれる、比較的穏やかな性質で良かった。
――まあ、言っていることは普通にひどいが、やっていることは、単なるブラッシングでしかないのだが。
ふと、目の前の末姫様は、壁の方へと視線を向けた。
その方向には、奥方様が、オヒメサマが呼びつけた職人達と打ち合わせをしている筈の部屋がある。
奥方様へのお土産に、まさかの原材料を選択した団長も団長だが、その原材料の加工の為に、職人の予定も聞かずに呼びつける、末姫様も末姫様だと思う。
一応護衛の嗜みとして、アレスは、大公家のお屋敷内の構造を、徹底的に頭に叩き込まれていた。
先輩曰く、一人前の護衛の道は遠いらしいので、一体いつまで自分は半人前のままなのか、ちょっと遠い目をしたくなるアレスであった。
「姫様、奥方様と一緒に打ち合わせをしなくてもいいの?」
慣れない内は構わないと、当の雇い主から許可を得ていたので、アレスは砕けた口調で、末姫様に気になっていたことを尋ねた。
普段のお姫様ならば、大好きなお義姉様にくっついているに違いないのに、どデカワンコの抜け毛採取をしているのが不思議であったのだ。
決して、アレスが、どデカワンコのブラッシングをサボりたい訳ではない。
が、じどっとした目を末姫様から向けられ、アレスは背筋が凍り付いた。
――質問を間違えたっ?!
お仕置きされるっ?! と、アレスが不吉な脳内予測に真っ白になるのを余所に、雇い主が溜息を吐く。
「お義姉様と一緒にいたいのは山々ですが、あの人達は、私の事が嫌いですからね。
むしろ、お義姉様だけの方が、いい仕事をすると思いますよ」
嫌われている自覚があったんだっっっ???!!!!
衝撃の事実に、アレスは、大事なナニカが口から飛び出すかと思った。
いつもやりたい放題やっていたから、末姫様は、他の人間の気持ちが分かっていないかと、アレスは考えていたのだ。
と言うか、分かっているなら、気遣い下さい。
似合うって各所から褒められても、女装はもう嫌です……。
アレスの顔を見たお姫様は、呆れた様に半眼になる。
「あのですね、アレス、為政者には、確かに人気も重要な要素ですが、客商売ではないのです。
民の声に耳を傾けることと、民の望むことを何でも行うのは違います。
そもそも、批判することは、何かを為すことと同じではないのですよ。
――極論すれば、私達が行うことは、誰に負担を押し付けるか判断することですから、誰かに好かれる嫌われるに一喜一憂したって、仕方がありません」
でも、女装をする負担って……。
突っ込もうにも突っ込めずに、パクパクと口を開け閉めしながら、アレスは間の抜けた顔を晒す。
傍から見れば、侍従見習い兼末姫様の専属騎士は、口から出てはいけないモノが飛びかけていた。
そんなアレスに構わず、王家の姫君は、ぽすりとどデカワンコに倒れ込むと、物憂げに頬杖をついた。
「まあ、あの人達が私を嫌っているのは、私があの人達の期待に応えなかったことが一番でしょうね。
あの人達の故郷の王族の血が、一番強く見た目に現れていたのは、私ですし。
私って、あの人達の故国から嫁いで来た姫君と、瞳の色以外そっくりですから。
――それだけで、自分達を手厚く保護してくれると期待されても、困りますけど」
雇い主が屋敷に呼び出したのは、しばらく前に西の方から流れてきた移民でもあった。
昔々、この国の王家に嫁いで来たお姫様の生まれ故郷は、今までずっと、戦争が続いていて、大変らしい。
戦争が続くと、生活ができないとかで、平和なこの国に、沢山の異国の民が流入してきて来ているのだ。
ただ、人種的に赤毛の多い異国の民達は、すんなりとこの国に馴染めるわけではない。
アレスも大公家に雇われてから知ったが、新しい生活を始めるにも、ある程度のお金が必要なのだ。
また、某騎士団長の様に野生化生活が板についていない限り、生きていくだけで、お金は消費されていく。
簡単に仕事を見つけられたら良いのだが、何事にも限りがあるし、見知らぬ人間を、はいそうですかといきなり受け入れるのも、抵抗があるのだ。
アレス自身、赤毛の人達は何だかよく分からないし、なんとなく怖い感じがするな、と思っていたので、他の人達もそうなのだろう。
そして、仕事が無ければ、生きていくことが出来ないし、死ぬよりはと、犯罪に走る人間も出てきてしまう。
幸いにも、アレスの故郷でそのような事件は無かったが、西の方では、昔、赤毛の男達に沢山の人が殺されたという話を、聞いたことがある。
勿論、皆が皆、犯罪者になる訳ではないのだが、そう言う話を聞くと、赤毛の民に対して身構えてしまうのが人情だ。
末姫様は、団長のお金を元手に、異国から来た人達に仕事を作っている最中であった。
アレスにはよく分からないが、職人達は、仕事だけしか貰えないことが不満なようだ。
それにしても、仕事をしていれば生活できるのに、どうして雇い主を嫌いになるのだろうか?
末姫様は性格が悪いが、少なくとも、異国の民を生活させる為に仕事をさせているのだから、生活できるだけのお金は稼げている筈なのだが。
首を傾げるアレスに、お姫様は肩を竦めた。
「人間、楽をしたがる生き物ですからね。
下手に甘やかすと、どこまでも甘えてくるのです。
考え無しの貴族が、彼等に物だけを与えていたようですから、それで味を占めてしまったらしいですね。
資金も物資も有限なのですから、働ける者には働いてもらわないと、こちらが困ります」
楽をしたいのは、アレスも分かる。
あの小憎らしい一つ目ワンコのお世話は、本気で誰かに代わってほしい。
ふわもこワンコこと、シルキーのお世話は、貴重な癒しの時間である為、このままでいいけれど。
「下の者を効率的に動かすには、飴と鞭の使い分けが大切になるのですよ。
お義姉様が飴の役ですから、私が鞭の役になるのですっ!」
グッと、拳を握った雇い主に、アレスは成程と深く納得した。
確かに、奥方様は飴の役だと思う。
シルキーと並び、奥方様は、アレスにとっての数少ない癒し枠であった。
ただ、オヒメサマは確かに性格も悪いし、やたらと無茶ぶりをかましてくるが、鞭の役と言うには、正直ビミョウだ。
だって、アレスの周囲の評価が、お兄さんのポンコツが移ったふびんな子なんだもの。
某副団長は、十二年間団長の妹をやっていて、今までポンコツが移らなかったことが奇跡なんだっ! と、力説していた。
どうやら、某騎士団長は、『種族性別:団長』、『習性:脳筋・残念』で認識されているらしい。
いい人なんだけど。
……悪い人では、無いんだけど。
――明らかに特別なオーラが漂う神剣を、万能調理器具扱いするあたり、団長は、末姫様とやっぱり兄妹だった。
でも、ポンコツでいいと思うよ、怖くないから。
そんな思考に至るあたり、アレスも相当に某騎士団に毒されているのだが、悲しいことに、本人にその自覚はなかった。




