閑話 半神の末裔には関係の無い、彼の話
*ガチでシリアスな上、残酷な描写がありますので、苦手な方は、ご注意ください。
全てを喪った日の記憶は、彼の網膜に焼き付き、未だ薄れることはない。
赤く、紅く、赫い。
地面に広がる、母の血。
我が家を舐める、炎。
悍ましい程、鮮烈な、黄昏の空が。
――平民の分際で、女神の末裔からの愛を、拒絶したから。
――王族の寵愛を受けた娘に、手を出したから。
――女神の血筋に背いた、愚かな咎人共を、匿ったから。
そんな理由で、あの地獄は作り出された。
いっそ無邪気な悪意は、天災と変わりなく、だが、彼は受け入れられなかった。
己と同じ、紫眼の血筋を、――どうしても、赦せなかったのだ。
故郷が壊滅した中、彼が生き延びたのは、蒼銀の獣に、護られたから。
澄んだ紫色の瞳の、彼よりも大きく、美しかった獣。
主だった人間の命に背き、その美を損ねられても、獣の瞳が濁ることはなかった。
護ってくれた獣に、だが、彼は感謝できなかった。
自分を守るならば、彼の大切な人々も、護ってほしかった。
彼の故郷を救う気が無いならば、自分もまた、死なせてほしかった。
八つ当たりだと、頭では理解して、心から湧き上がる憎悪を、止めることはできずに。
……あの、美しかった獣を、拒絶せずにいられたのならば、自分は、違う道を選ぶことが出来たのだろうか?
――絶息した銀髪紫眼の青年から、力を入れ過ぎて強張った指を引き剥がし、彼は静かに息を吐いた。
愚にもつかないことを、今更ながらに思うのは、戻れない一歩を踏み出したせいなのか。
苦しませ、苦しませ死なせた青年の顔は、生前の高慢が嘘のように、ぐちゃぐちゃになっている。
それを見て感じるのは、後悔では、ない。
心の底からの、暗くどろりした愉悦と爽快感、そして、凍てついたと錯覚する程に、白熱した滾りだ。
賽は振られた。
――もう、行きつくところまで、行きつくしかない。
彼に対するは、彼の血の源流たる女神。
恋に狂い、自らの血統に呪いを遺した、愚かなる堕神だ。
――我が祖よ、貴女は、同族殺しを想定していたのだろうか?
女神の末裔を害した者を仇為す、祖神の加護は、果たして、同じ女神の末にも効果があるのか。
彼は知らない。
だが、それでも、踏み出さずには、いられなかった。
……復讐は、何も生まないと、善人面をした者達はよく言うが。
それに縋りつかなければ、彼は息もできなかったし、今も全身を舐め続ける怒りと憎悪を、彼の中に押し込め続けることもまた、出来なかっただろう。
だから、ずっと、ずっと、何十年もの間、待っていた。
彼の悲願を、確実に果たす機会を。
――女神の血筋を守り続けた神の犬達は、半神の末裔と共に、この地を去った。
もう、銀髪紫眼の者達の傍らに侍るのは、守護者などではなく、その紛い物でしかないのだ。
青年を縊り殺す前に斬り捨てた、淡雪の様な被毛の犬の遺骸に、彼は憐みの目を向ける。
美しい見目とは裏腹に、その内側に先天的な障害を抱えた故に、余りにも薄弱な獣は、しかし、主を護ろうとして死んだ。
隣国への留学へ連れていくこともできない程、か弱かった青年の愛犬の有様は、だが、獣自身の咎では、決してないのだ。
主に望まれるままに在り続け、遂には、主を護るという己の望みすら、満足に果たせなくなった、神の犬の残り滓。
彼等の弱さが罪だというのなら、その罪を作り出したのは、主に他ならない。
加護に目を曇らせ、己へ向かう怒りや憎しみを理解しない女神の末は、唯一忠実であり続けた僕を、自ら手放したのだ。
神の犬が去った時の光景を思い出し、彼は少し、苦笑した。
神の犬達を連れて行った青年は、傍に侍らせた獣達を、神獣の末だとは欠片も認識していなかったようなので。
彼の周囲では、野蛮人、蛮族と評判の隣国の第二王子は、大公領の少数民族出身である『戦鬼』が、直々に後継者として育て上げた人間だ。
少なくとも、己よりも大きな体躯の獣を、あっさりと受け入れるあたり、女神の血筋よりは器が大きい。
まあ、頭の中まで、筋肉が侵食しているだけかもしれないが。
ただ、青年について行った神の犬達が、道具として使い潰される可能性が無い事だけは、少しばかり、彼の救いになった。
憎み、恨み、でも、否定することだけは出来なかった、女神の僕。
……彼に関係の無い場所へ行くのなら、せめて、幸せになってほしいと、ただ祈る。
彼の祖神ではなく、主神に祈った。
乾きかけた血に彩られた、凄惨な部屋の中で、彼は立ち上がる。
幸いにも、彼の身に、女神の裁きが落ちる気配はない。
さあ、行こう。
転がり落ちた先の、奈落の底まで。
だが、彼だけ堕ちる気は、毛頭無い。
――女神が遺したものなど、全部、全部、壊れてしまえばいいのだ。
血に染まった神官服と、薄汚い黒に染めた銀髪を翻し、彼は歩き出す。
僅かに残っていた温もりは、その紫眼からは消え失せ、異様な輝きだけが、目に付いた。




