第二王子の私信の行間、或いは、某騎士による報告書より その五
*残酷・流血を伴う表現がある為、苦手な方はご注意ください。
誰かの悪意が感覚に触れ、ラザロスは目くるめくモフモフワンダーランドから、現実に帰還せざるを得なかった。
まあ、敵地にも関わらず、トリップしたのがそもそも問題であろう。
しかしながら、ラザロスは、人生初のモフモフ天国に有頂天になってしまったのだから、もう仕方があるまい。
ラザロスが、モフモフに多大な未練を抱きながら、悪意を感じ取った方向に目を向けた時だ。
――蒼銀の光が、駆け抜ける。
時間差を認識できた人間は、どれ程いたのか。
アストゥラビに蹴り飛ばされた神官に、随行していた騎士の。
――騎乗していた馬の首が、無くなった。
首の根元の乱雑な断面から、夥しい鮮血が噴き出すも、遺された躰は奇妙に静止して。
乗り手の絶叫で、漸く、己の死を認識したのだろうか。
首を食い千切られた馬の躰が弛緩し、跨っていた騎士が、地面に転がり落ちる。
そして、騎士の手に握られていた弓矢も、番えられる事無く、折れ飛んだ。
血肉を、咀嚼する音。
その発生源は、大きな傷跡が残る、神の犬だ。
傷跡の獣は、咥えていた馬の首を地面に放ると、口に残った肉を飲み下した。
鉄製の鎖を食い千切ったその顎と牙の威力は、馬の首に対しても、遺憾なく発揮されたのだ。
哀れな馬の末路に己を重ね、その場にいた人間達は、迂闊に動けなくなってしまった。
口元に真っ赤な紅を差した獣は、恐ろしくも、美しい。
灰色に薄汚れた被毛に、ラザロスは、何故だか、修行の一環で師に叩き込まれた雪山の色を、思い出す。
凍えそうに綺麗で、世界からの拒絶を思わせる程に酷薄な、真白い六つの花を降らせるのは、何時だって、鈍色に汚れた雲だった。
巨躯の獣の、透明だった紫色の瞳には、絶対零度の炎が揺れる。
良くはない、と、思った。
さきにすすませるのは、かなしいことだ。
「止めろ」
静止の声を上げ、しかし、ラザロスは相手の呼び名を知らないことに気が付く。
ワンコ達を連れてきた神官は、『神の犬』や『あれ』や『それ』で彼らを指し示すものの、名前など呼びもしなかったのだ。
傷跡の獣が、ラザロスの方へ顔を向ける。
ラザロスの要望を、聞き入れてくれたらしい。
ラザロスは、獣に歩み寄ると、そっと、手を伸ばした。
馬を一瞬で絶命させた神の犬を、ラザロスは、恐ろしいとは、思わない。
人間と言うのは、死にやすい生き物だ。
毒で死ぬし、急所を刺されても死ぬ。
また、小さな傷からでも、感染症に罹患して死ぬこともある。
年端のいかぬ幼子でさえ、手段を選べば、大の大人を殺せるのである。
それなのに、ラザロスの言葉を聞き入れてくれる、聡明な獣と、凶器をむやみやたらに振り回す阿呆を、同列に並べたら失礼であろう。
耳の後ろを撫でてやれば、獣はほんの少し、目を細めた。
「怒ってくれたことには、感謝する。
だが、お前が手を下す必要はないのだ。
――そのような価値は、この者達には存在しない」
凪いだ紫色の瞳が、ラザロスをじっと見ている。
己を真っ直ぐ捉える眼差しに気を良くして、ラザロスは知らず、笑んでいた。
「お前の名は?
――無いというのなら、私が付けても良いだろうか?」
折角遭遇した、ラザロスに怯えない、貴重過ぎるモフモフである。
もっと、仲良くなったって、別にいいではないか。
ラザロスの提案に、傷の獣はその頭を、彼の手に擦り付けてきた。
これは、同意ととるしかない。
「うむ、これから、お前を傷跡と呼ぶぞ」
残念ながら、ラザロスは、ネーミングセンスもポンコツである。
……団長、スカーって、多分、雌……。
部下達の総ツッコミは、心の中だけに留まった。
当のスカーが、嬉しそうに尾を振っていたので。
如何な部下達が精鋭揃いであろうと、間違いなく神獣の先祖返りであろう個体の不興を覚悟で、上官に突っ込める剛の者は存在しない。
顔面で主張する傷跡のせいで、少々、と言うか普通に強面であるけれど、雄に付いている筈のモノが無いならば、去勢したのではない限り、きっと雌である。
雌ならば、花とか可愛らしい系統の名前があるだろうに、何故無駄に格好良さげな名前に落ち着いてしまうのだ。
でも、まあ、団長だもの。
部下達は、それを理由に、早々に自分を納得させた。
突っ込みが面倒になったが故の、思考放棄、でもあったが。




