次期大公、失われた伝承を知る
笑い過ぎて瞳に滲んだ涙を拭って、長兄は長椅子に座り直した。
どうでもいいが、長兄は笑い上戸が酷い上に、笑いのツボが可笑しいのではあるまいか。
シャルロッティが次兄に担がれただけで、よく涙が出る程笑えるものだ。
「もう、隣国の彼にはお帰り願うよ。
流石に、人の妹を害そうとするような危険人物がうろついているとなると、ぞっとしないものだね」
結論を先に述べた長兄に、シャルロッティも次兄も頷く。
薄っすら微笑む長兄の瞳には、為政者の冷徹な光が浮かんでいる。
隣国の留学生は、許される一線を踏み越えた。
それを座視することは、シャルロッティ達が己の義務を、――ひいては権限を放棄することと同義だ。
「兄上、留学生殿は責任を以て、私が送り届けよう。 馬鹿な貴族の、馬鹿な行いに手を貸されても、面倒だ」
「――女神の末裔も、困ったものね。 我が物顔で『毒』を振り撒くのだから」
長兄の隣で、憂い顔の義姉が溜息を吐いた。
「でも、考えようによっては、女神の末裔の近くに、主神の子の子孫がいたことは他の国にとっての僥倖でしたわね。
――神々の御座を捨ててまで求めた男に振り向いてもらえず、その末にも神の力を拒絶された女神は哀れでしょうけれど」
「「「?」」」
義姉の言葉の意味が分からず、シャルロッティは兄達と顔を見合わせる。
そして、シャルロッティ達の様子を見て、義姉はきょとんとした。
義姉は少し考えた後、何かに思い立ったのか、口元に手を当てる。
「……あらまあ、こちらでは、失伝してしまっていたのかしら?」
「私の夜の女神は、何を知っているんだい?」
義姉を抱き寄せ、長兄は問いかける。
特に隠すことでもないと思ったのか、義姉は躊躇うこともなく口を開いた。
義姉が故国の神殿に保管されていたその記録を目にしたのは、長兄に嫁ぐことが決まってかららしい。
義姉は国外へ献上される娘として育てられたが、広く浅くの教育では、嫁ぎ先の知識をカバーしきれていないと考えた。
それ故彼女は、嫁ぎ先を学ぶ為の資料として、神殿などから書物を取り寄せたのである。
――とある資料の中に、それは紛れ込んでいた。
まだ、神々との関わりが今よりもずっと深い神代の事だ。
主神と人の娘との間に生を受けた半神の青年は、女神の求婚を退け、人として生きて死ぬことを望み、神々の御座より人の世に降り立った。
そして、最初に足を踏み入れた地に住まう一族の娘を見初め、一つの国を建国することとなる。
この時、半神の青年は、己の神としての権能と引き換えに、自分や自分の血筋が、神の力に惑わされることが無いよう、主神に願ったという。
青年の考えまでは記録されていなかったが、彼に求婚した女神の末裔が隣国に住んでいることを考えると、彼女の干渉を厭うたせいではなかろうか。
主神は青年の願いを叶えると同時に、溺愛していた我が子の為に、加護を与えた。
元は末子として生まれた主神の加護は、末の子に異才を有する者が生まれやすくなる、と言う形で現れることとなったという。
「――だから、この国の王族には、女神の末裔の『毒』は、効かないそうですわ」
「……はあ」
義姉の話に、シャルロッティはビミョウな気分になった。
隣国の血を引いた愚王のお陰で、失われたものは多い。
王家の威信やそれまでの貴族との関係、――知識や伝承もそうだ。
けしからんことに、彼の愚王は、戯れに神殿を焼き討ちするだけではなく、焚書なんかを行いもしたのだ。
神殿は、単なる信仰の場ではなく、独自に書物の収集も行っていた。
この国に多い、主神の神殿からの諫言を厭うた愚王のせいで、どれ程の知識や伝承が失われたことか。
……そんな貴重な伝承を、異国から嫁してきた義姉の口から聞くことになるとは。
嬉しくない訳でもないが、祖先に関連するとなると、シャルロッティは一層反応に困る。
奇跡なんぞ生まれてこの方起せたためしはないが、これでもシャルロッティは、神の末裔と言うことになっているので。
不自然な確率で出現する主神の寵児や、天馬の血を継ぐという次兄の愛馬の様な、不可思議の例がある為、一応、シャルロッティだって神と言うものを信じてはいる。
けれど、正直なところ、シャルロッティは、自分の祖先が神か否かについては興味が無いのだ。
神の血筋は、為政者としての箔としてはそれなりだろうが、ただそれだけで国を治められる訳が無いし、それ故の利点を実感したこともない。
ただ、シャルロッティ達の先祖が半神だろうが、徒人だろうが、言い伝えになる程度の事実はあったのだろうとは思う。
しかしながら、だ。
――己の神としての権能を捨ててまで縁を切りたいと、祖先に思われるなんて、女神はどれだけしつこかったのか。
地上に逃げても追いかけられ、親に願って干渉を排除しても尚、隣に国を作られるなど、祖先からすれば悪夢であろう。
ついでに言えば、神の力を拒否した我が子に、わざわざ加護を与える主神も主神だ。
シャルロッティにしてみれば、神の力なぞ、人の世に在っては厄介ごとの種でしかない。
……そして、意に沿わない上に、面倒臭い相手にひたすら粘着される先祖の様が、長兄の辛苦と重なった。
女神も女神でお近づきになりたくはないが、引っかける変態の数が無駄に多い点では、先祖よりむしろ長兄の方が、苦労しているかもしれない。
――長兄の性質は、実は先祖返りの結果であったのだろうか?
そんな事を考えながらシャルロッティが長兄を眺めていると、色気のある笑みを返された。
「なんだい、シャルロッティ?」
「何でもありませんが?」
笑っていない長兄の瞳から、シャルロッティはさり気なく目を逸らす。
まあ、先祖返りであろうが淫魔の呪いであろうが、今現在、長兄は義姉のお陰で幸せいっぱいであるから、問題無かろう。
首を捻っていた次兄が、義姉に問いかけた。
「義姉上、女神の末裔の『毒』とは、どのような類のものでしょうか?
あれらは、存在するだけで空気が悪くなる人種ですが、妙な薬物を使用している様には見受けられませんでした」
「……ラザロス兄上は、そこまであの方々とそりが合わないのですね……」
「……お前のような、空気を読めない人間にそんな評価を受けるだなんて、相当だろうね」
己の言葉に生温い笑顔になったシャルロッティと長兄の態度に、次兄は訝しそうな顔をする。
「――兄上も、シャルロッティも、何も感じないのか?」
「「?」」
各々の見解に相違があることに気が付き、シャルロッティは、長兄と共に次兄の顔を凝視した。
次兄は、困惑したように頭を掻いている。
「お前は、何を感じ取っているんだい?」
「だから、空気が悪いと」
目を細めた義姉が、口を挿んだ。
「それならば、他の方々はどのような空気を身に纏っているのかしら?」
「そう、ですね、兄上やシャルロッティは普通ですが、――」
己の感覚を、他者にも分かる様に表現する事を、考えあぐねるように、次兄は少しばかり言葉を途切れさせた。
「……例えば、義姉上のものは深みがあるし、ヨアナ殿のものは温かい。
――特に分かり易いのが、敵意がある人間のもので、ざわついた空気を纏っていますね」
「……結局、野生の勘ですか? それは」
「さてな」
シャルロッティの突っ込みに、次兄は肩を竦める。
か弱い妹からすれば、何故無事に成長できたのか、むしろ謎な鍛練のお陰か、次兄の感覚がシャルロッティ達よりも遥かに鋭いことは事実だ。
行軍演習中にも、次兄は、死角から襲ってきた獣を、難無く切り捨てていたし。
義姉が、ぽってりとした唇に、人差し指を当てた。
「空気云々に関しては、ラザロス殿独自の感覚でしょうね。
――『毒』と言うのは、魅了、いえ、暗示の様なものかしら?」
義姉曰く、『毒』に中てられると、女神の末裔の言葉を疑わず、彼らの思い通りに行動するようになるらしい。
関係無い人間には、ひたすらに迷惑な代物だ。
勿論、お隣にはた迷惑な女神の末裔が住んでいる、シャルロッティ達には嫌と言う程覚えがある。
「……暫くすれば、醒めるのが救いだよね」
嘗ての砂糖菓子の姫の来襲を、笑顔の仮面で乗り切った長兄が、虚ろな瞳で呟いた。
その折は、シャルロッティも可能な限り長兄の助太刀をしてみたが、……あれは無い。
隣国の末姫の、気持ち悪い程のお花畑な思考回路に、大の大人が同調するのだ。
滑稽を通り越して、最早怪奇現象である。
こちら側にも可笑しくなった人員が発生したが、速やかな隔離措置のお陰で、大きな問題が発生することはなかった。
昔からの経験則で、女神の末裔の狂信者化したとしても、ある程度の期間近づけなければ元に戻ることだけは、知識として共有されていたのだ。
まさか、神の力が関わっていたとは、夢にも思わなかったが。
「――なら、首を落とすことに、何も問題はないのか」
不意に落ちた次兄の独り言は、ただ事実だけを連ねた声音であった。
ああ、それもあった、と、シャルロッティは思い出す。
シャルロッティを害そうとした、狂信者。
もう、その死を以てでしか、落としどころをつけられない人間は、女神の末裔の所有物であるが故に、害すれば理不尽な代償が跳ね返って来るはずだった。
けれど、女神の末裔の所有物を損ねた罰が、神の力に由来するならば、――それを拒絶した半神の血を引く自分達には、何も起こらない。
「もしかしたら、彼の愚王は、半神の血族こそを恐れたかもしれないわね」
義姉の考えは、シャルロッティにもしっくりきた。
だからこそ、愚王の治世、王族は大きく数を減らし、主神の神殿も弾圧を受けたのだろう。
隣国の血を引いた愚王の父親は、歴代でも随一の好色家で、呆れることに、百に近い数の子供が生まれた。
――だが、愚王は異母兄弟達の殆どを血祭りに上げ、生き残った者は、シャルロッティ達の先祖を含め、片手の数にも満たない。
「あり得そうだね、それは。
そもそも、私達の祖が生き残れたのは、母親が平民出身で、男娼の真似事までして命乞いをしたからだというし」
長兄が、苦笑交じりに義姉に同意した。
命の為に誇りを捨てた弟に、愚王はわざわざ手を下す程の価値を見出さなかった。
愚王と同じく、王家の権威を貶めることになった祖先の行為を、だが、シャルロッティは非難しようとは思わない。
人としての尊厳を踏みにじられても、生き抜き、愚王を放逐する為の旗印となった祖先は、結果、圧政に喘いでいた多くの民を救うことになった。
それは、誇りの為に安易に命を捨てた人間達よりも、ずっと、誇るべき在り方に思えたのだ。




