次期大公、運ばれる
次兄に頬を容赦なく引っ張られ、シャルロッティは涙目になった。
次兄は、真剣な表情でシャルロッティの顔を確認しているが、か弱い妹の頬を引っ張りながら、何をしているのだ。
「――はひふえ、にゃにほひゅるのへふひゃっ!」
シャルロッティは、次兄の腕を叩きながら抗議をするものの、頬を掴まれているせいで、まともな言葉が出てこない。
「――よし」
「良くないですっ!」
ナニカが及第点に至ったらしく、次兄は真顔で頷き、シャルロッティの頬を放したが、なにも良くはない。
シャルロッティは、じんじんする頬を両手で抑えながら、次兄に恋愛小説を送り付けようと、据わった目で固く誓った。
脳筋は、あれで女性の扱い方を覚えるべきなのだ。
勿論、新婚を全力で満喫している長兄に、次兄への懇切丁寧な解説をお願いしようだなんて、思ってはいない。
きっと長兄は、勝手に情報収集をして、勝手に女性のエスコート中の振る舞いなどを次兄に解説しに行くだろう。
嗚呼、麗しき哉、兄弟愛。
長兄夫妻のあまりの仲睦まじさに、次兄を始めとした多くの独身男性の心が折れかけているらしいが、それを糧に女性への礼節を学べばいいのである。
「――ふっ」
堪え切れない、とばかりに、大好きなお義姉様が笑い出した。
次兄にはイラッとしているが、お義姉様が楽しそうなのは全く構わない。
そのまま、後ろに突っ立ってる元婚約者を忘れ去ってしまえばいいのに。
「――ご、ごめんなさいね、シャルを笑ったわけではなくて……。 ラザロス殿下のご様子が、王太子殿下の仰っていた通りで、可笑しくて――」
普段は落ち着いた振る舞いが多い為、笑い過ぎて滲んだ涙を指先で拭っているお義姉様の姿は、ちょっと新鮮である。
次兄を許す気はないが。
長兄に嫁いだ義姉の話し相手になったり、シャルロッティを介した親戚関係になったりしている故に、お義姉様はそれなりに長兄とも交流があった。
その中でちょくちょく話題になるのが、次兄の恋愛下手――と言うか、女性への態度のあんまり具合であった。
神から与えられた才の殆どを、軍事方面に振り分けてしまった次兄は、軍事に絡まない分野はポンコツと言っても差し支えない。
具体例は数多あるが、直近で迷惑だったのは、長兄が笑い過ぎて使い物にならなくなったアレである。
ある日、次兄は長兄から、なんちゃって軍記物語的恋愛小説の感想を作者に書き送る、という課題を出された。
幼少時からの鍛練漬けで脳筋と化した弟が、少しでも一般的な女性について理解するようにとの、兄の心遣いである。
だが、――その結果作成されたのは、戦闘描写の不備や、緩々の戦術の改善点を山ほど指摘した、分厚い紙の束だ。
文脈から推測した詳細な地形図付の。
……次兄よ、長兄が求めていたのは、それではない。
予想の斜め上の行く弟の行動に、長兄の思い出し笑いが止まらなくなり、シャルロッティの方まで仕事が回ってきたのは、大変迷惑だった。
大好きな義姉と約束していたお茶の時間が、少々削れてしまったのだ。
因みに、長兄は次兄の読書感想文(?)を作者に送り付けたが、その作者は心が大変広く、いつの間にか次兄の文通友達になっていた。
しかしながら、人生初の異性の文通友達が、孫までいる老女とは、これ如何に。
――有名な小説家である彼女の新作は、これまで書かれなかった大河小説であり、詳細な戦闘描写と痛快な策略が好評を博していた。
長兄は愉快犯の気質があり、お義姉様に次兄の行動予想も色々吹き込んでいたらしい。
――修羅場を目撃したら、反応に困って、妹のほっぺたで落ち着こうとするとか。
長兄よ、貴方の弟の評価は、一体どうなっている。
当たっていたけども。
笑っていたお義姉様が、不意に立ち眩みをしたようによろけ、シャルロッティはぎょっとした。
シャルロッティよりも先に次兄が動いて、お義姉様を支える。
「申し訳、ございません」
次兄に縋りつくような格好のお義姉様が、困った様に微笑んだ。
顔色の悪いお義姉様をどう扱えばいいのか分からないらしく、次兄が眉間に皺を寄せた。
「ヨアナ殿、気にする必要はない。 ――それにしても、この屋敷は空気が悪いのではないか?」
「そうですね、もう帰りましょう。 一刻も早く」
拳を握るシャルロティをよそに、ほんの少し考え込んだ次兄は、おもむろにお義姉様の腰に手を回した。
「ヨアナ殿、失礼する」
「!! ラザロス兄上、お義姉様に何をするのですかっ?!」
片腕でお義姉様を抱え上げた次兄に、シャルロッティは慌てて駆け寄る。
「お姫様抱っこと言うものを知らないのですか、この脳筋~っ!! お義姉様は体調が悪いのですから、硝子細工よりも繊細に――ふぁっ?!」
「シャルロッティ、病人の近くで騒ぐな」
次兄の腰をぽかぽかと殴っていたシャルロッティは、空いた片手で首根っこを掴まれた。
宙に浮いた足がぶらんと揺れるのは、本日二回目である。
妹の扱い方が、本当に雑過ぎではあるまいか。
次兄には本気で物申したいのだが、兄妹のやり取りをおかしそうに見守るお義姉様の顔色が悪化しているので、これ以上騒ぐこともできない。
「お待ち下さい」
お義姉様の体調が回復するまで休ませるべきだと、この期に及んで引き留めようとする元婚約者に、シャルロッティは殺意が沸いた。
もう、黙っていればよかったのに。
「――貴殿は」
口を開いた次兄の声は、妙に低い。
「在学中も思っていたが、最後まで、ヨアナ殿に求めるだけだったな」
次兄の言いたいことは不明であるが、シャルロッティは重大な事に気づき、心の中でのたうち回った。
この国には、貴賤を問わず学問を学ぶことが出来る学園があり、貴族の中でも爵位を継ぐ人間やそれに近しい者は、十四歳から十七歳まで学園に通う義務がある。
これは、国の法を爵位に就く人間に浸透させる為であり、その他は年齢に関わらず優秀な人材が望む学問を探求しているが、今は置いておき。
――現在二十歳の次兄と十八歳のお義姉様は、学園の在学期間が被っていた。
と言うことは、次兄は学生時代のお義姉様を目撃したことがあるのだっ!!
キャッキャウフフ、していたかどうかは不明だが、今よりも初々しいだろうお義姉様のご様子を、次兄から根掘り葉掘り聞く機会を放棄していたとは……。
シャルロッティは、蹲って床を叩きたくなった。
なんて、勿体無いことをっ!!!!!
お義姉様に在学中の記憶は無いし、当時お義姉様に近しかった人間に聞きに行くなど論外だ。
苦しんでいたお義姉様に、何もしなかった者の顔など、見たくもない。
まあ、次兄の語彙の仕様が脳筋であるのは、シャルロッティも承知の上だ。
伊達に、十年以上も妹をやっている訳ではない。
脳筋語の解読は可能である。
シャルロッティが、勝手に今後の予定を立てていると、次兄は踵を返して扉へ向かった。
淑やかな姿で佇んでいたアレスが、慌てた様についてくる。
元婚約者がこわばった表情で、動こうとする素振りを見せたが、不自然に固まった。
何だか知らないが、ついて来なくてよろしい。
「失礼する」
次兄は言い捨てると、お義姉様を片手で抱き上げた状態で、空いていた扉を通り抜けた。
――兄よ、一つ言わせてほしい。
貴方は、か弱い妹をぶら下げたまま、王城まで移動する気なのか?




