閑話 しんまいじじょアレスくんの受難 前編
*「次期大公、家族計画を語る」辺りからのアレス君視点
「――お、お義姉様~っ?!!!! 体調が悪かったのなら、もっと早くに仰って下さればよろしかったのにっ?!!!!!!」
奥方様の体調が悪くなったのは、たった今だと思う。
慌てた様な雇い主の悲鳴に、死んだ魚の目をしたアレスは、胸の中で突っ込んだ。
アレスの雇い主である少女の、拗れに拗れたシスコンの対象となっている女性は、普通に良い人である。
彼女の考え方も、アレスからしてみれば至って普通であったため、雇い主のぶっ飛んだ家族計画を受け入れ損ねてしまったのであろう。
……と言うか、絵本のお姫様を眺めていた時に抱いた夢想を、頼むから返してほしい……。
アレスの雇い主は、次期大公にして、王位継承権第三位と言う、正真正銘のお姫様である。
が、綺麗な赤毛のお姫様は、アレスが持っていたお姫様像を尽く粉砕する存在であった。
育てるってなんだよ。
旦那を尻に敷く気満々だし。
そもそも、家族計画に夢が無さすぎる。
オヒメサマが直前まで主張していた家族計画は、近所の女友達が語っていたそれとは、まるでかけ離れていた。
平民出身で、政略結婚とは無縁であったアレスには、雇い主が語る家族計画は理解不能であった。
彼の中では、結婚は好きな人同士でするものなのである。
お姫様怖い。
いや、怖いのは雇い主だけなのか?
元貴族のお姫様の奥方様は、怖くないし。
アレスが脳内で自問自答を繰り広げている間に、奥方様は休憩室で休憩することになっていた。
少し離れた場所に控えていたアレスは、内心慌てて、かつ淑やかな所作を心がけながら、ふらつく奥方様を支えた。
元々身体で覚えるタイプであったので、突貫講習ながら、侍女に求められる立ち振舞いは完璧だと、家令のソティリスさんには褒められたものである。
くれぐれも口は開くなと、念を押された上で。
残念ながら、アレスは勉強がそれほど得意でなかったので、会話については落第点を取っていた。
まず、今いる場所が、何侯爵家の屋敷なのかも怪しいくらいだ。
取り敢えず、家名にサだかスだかが付いていた気もしなくもない。
案内役として奥方様の方へ寄ってきた侍従に、アレスが会釈をすると、相手に頬を赤らめられた。
やめて。
そんな目で見ないで。
……俺、――男だから……。
雇い主の無茶ぶりにより、侍女の格好をさせられたアレスは、吐き出せない葛藤を胸に、奥方様の補助に徹する。
服装が似合っていると言われたし、大公家と言う滅多にない好待遇の職場に就職できたと言うのに、全くもって嬉しくない。
そして、奥方様大好きな雇い主の視線が痛い。
男装の姫君の眼差しは、雄弁であった。
――お義姉様に粗相をしたら、……分かっていますよね?
アレスは現実逃避の為、記憶の中の先輩侍女へ、特殊メイクは完璧でした、と報告しておく。
アレスをじじょへ仕立て上げた彼女のやり切った笑顔は、とてもイイものであった。
そうして、奥方様と一緒に歩き出した時、薄い臭いが鼻につき、アレスは顔を顰めそうになってしまった。
新米故に貴族の流行はサッパリなアレスには、謎でしかないが、滞在している屋敷では、変な臭いの香を焚いているようなのだ。
場所によって、濃い薄いはあるものの、それは、爛熟した果実の甘い腐臭に、よく似ていた。
果物は歯応えも楽しみたいアレスには、ちょっと受け入れにくい臭いだ。
そんなものより、大公家で使用されているハーブ系や柑橘系の香りの方が、アレスは好ましいと思う。
他の貴婦人方から漂ってくる花の匂いは、あんまりも濃すぎて、変な臭いとの相乗効果でアレスは軽く眩暈がしてきた。
奥方様の気分が悪くなったのは、会場の変な臭いのせいもあるのではないかと、アレスは勝手に邪推する。
ふと周りを見ると、人々の表情に奇妙な既視感を覚えた。
周囲にいるのは、貴族や彼らに仕える者達ばかりで、少し前までのアレスの世界とは無縁だった人種しかいない。
雇い主とは何かと顔を合わせるものの、貴族というものが基本あの腹黒少女的なものだと嫌すぎるので、それは考えないことにする。
甘さを含む臭いを嗅いでいるのに、どうしてか舌に苦みを感じ、アレスは早くこの場から立ち去りたくて堪らなくなってしまった。