次期大公、馬車の中で
内装も外装も最上級の仕様であったため、ろくに整備されていない道を走っているにもかかわらず、馬車の中は快適だった。
ゆっくりと傾いていく太陽を視界の端におさめながら、シャルロッティは、問題の解決に時間がかからなかったことに、心底安堵した。
危うく、心底忌々しい元婚約者の家が開催するお茶会に、大事な義姉を独りで参加させるところだったのだ。
書類上は養母ということになっている大公妃は、シャルロッティと六歳しか違わない為、彼女は勝手に義姉ということにしている。
――シャルロッティの義姉は、二年程前に階段から転がり落ち、それ以前の記憶を綺麗さっぱり失ってしまった。
それ以前の義姉は、婚約者に近づく娘に手当たり次第に噛み付く、陰険な娘だと有名であった。
思えば、中位もいいところの伯爵令嬢でしかない『彼女』にとって、高位貴族の婚約者という立場はかなりの重圧だっただろう。
義姉が在ったのは、努力を当然のように求められながら、相手の家の心ひとつでいつ婚約が解消されるか分からない、不安定な地位だった。
だというのに、元婚約者も、義姉の家族も、彼女の病弱な妹にかかりきりで、義姉を見ようとはしなかったのだ。
『彼女』のせいではない記憶喪失を恥とした、己の実家にも当時の婚約者の家にも、あっさり義姉は見限られた。
だが、愛を求めた彼女が死に物狂いで身に着けた知識も教養も、失われてはいなかった。
そこに目を付けたシャルロッティの養父――齢八十越えの老大公は、万が一の際の大公領の為政者の繋ぎとするために、義姉を大公妃に迎え入れたのである。
なぜなら、シャルロッティが大公位に着ける成人を迎える時まで、養父の命が続く保証が何処にもなかったからだ。
大公領は国にとっての重要地であり、運営の難しい土地ばかり。
いくら王族の血を継いでいたとて、無能を政に関わらせていい地ではない。
少数民族の自治区が含まれるため、シャルロッティの父王や実兄達が後見となるのも、過干渉と捉えられかねず、具合が悪い。
無能な親戚にシャルロッティの後見を任せるくらいなら、有能な娘を養父の名ばかりの妻にする方が、遥かにましであったのだ。
真っ新になった義姉が、以前見た時とは違い、人が変わった様に穏やかになっていたのには、シャルロッティも驚いた。
……恐らく、記憶を失くしてからの義姉が、本来の彼女なのだろう。
中々消えなかった、目の下の隈。
若さに似合わず、荒れていた肌。
手放せなかったという胃薬。
それらは、以前の『彼女』が重ねていた無理を、示していた。
愛情だけではなしえない努力を続け、それでも、報われずに。
――きっと、少しずつ、義姉は歪んでしまっていったのだと思う。
養父の手を握り、幸せそうに微笑む義姉を見るにつけ、シャルロッティはそう感じた。
義姉は、愛されるのが似合う女性で。
だから、彼女を愛そうともしなかった、『彼女』の周りの人間達には、シャルロッティは虫唾が走る。
実家の方は、『陽輝姫』を無礼討ちした際に、手足を削ぎ落としてやったが、元婚約者の方が厄介だった。
今頃己の本当の気持ちに気付いたとかで、義姉に未練があるらしい。
――確かに、『彼女』は婚約者を愛していたし、いつか愛が返されることを、信じていた。
それは、全て、二年前の時点で過去の事になったが。
義姉は記憶と一緒に元婚約者への愛を忘却してしまった為、その男が取り戻そうとするものは、最早存在しないのだ。
シャルロッティは男の愚かさに冷笑したが、一つ、重大な問題があった。
彼女の養父――義姉の現夫は、いつぽっくり逝ってもおかしくない年齢だ。
実際、ここしばらくは季節の変わり目による体調不良が続いており、義姉を心配させている。
そして、未亡人の再婚の時の条件は、基本的に初婚の時よりも悪くなる。
……つまり、元婚約者にも、可能性はあるのだ。
義姉が有能過ぎ、その妹の『陽輝姫』が無能すぎて、改めて婚約者を選べない事態が発生しているだけ、元婚約者も切羽詰まっている。
侯爵とは言わず、高位貴族の夫人と言うのは、地位に相応の義務が付随しているだけに、守られるだけのお姫様には務まらないのである。
義姉が近々未亡人になる可能性について、シャルロッティも覚悟はできているが、再婚相手が元婚約者など受け入れられない。
記憶喪失前の義姉を幸せにしていなかった時点で、義姉の再婚相手としては不適格である。
いっそ、元婚約者の家を潰してしまえば、シャルロッティもスッキリするのだが、彼女の立場では、無用の混乱を引き起こすことは許されない。
腐っても侯爵家。
いきなり高位貴族の一つが潰れれば、その影響は大きい。
故に、元婚約者を潰すには、念入りな準備が必要になるのだが、元婚約者も無駄に有能な為、シャルロッティの準備を邪魔してくるのがまたムカつく。
寧ろ、裏から手を回して元婚約者の仕事を増やし、死ぬまで仕事三昧にさせるのがいい気がしてきた、今日この頃である。
――まあ、義姉を散々傷つけた代償は、彼女の実家共々、ゆっくり、ゆっくり支払ってもらうが。
シャルロッティは冷たい笑みを浮かべながら、大公夫妻から贈られたたクマのぬいぐるみをぎゅうっと抱きしめた。
義姉と同じ、赤毛混じりの金色の被毛に、薄闇を纏った空の青の瞳のクマのぬいぐるみは、抜群に手触りが良く、触っていると実に癒される。
因みに、義姉のところには、養父と同じ白い被毛と、薄い琥珀色の瞳のクマのぬいぐるみがある。
シャルロッティのぬいぐるみは、義姉のものと色違いのお揃いのものなのだ。
大事なことなので二度言うが、義姉とお揃いなのである。