ちえり白書
1
「メッセ」友人の畑中歌子が問い返した。「何それ」
相田ちえりは、歌子はメッセ(メッセンジャー)のことを知らないだろうなと思っていた。歌子は、パソコンもインターネットもやっていない。何より興味がそもそもない。それでも、かろうじて携帯電話のメールだけは使っている。ちえりは、今どき歌子のような人種も珍しい、と常日頃思っていた。
二人は昼下がりの喫茶店でケーキを食べている。きょうは四月の日曜日だ。
「文字で会話するんだよ。楽しいよ」言っても通じないだろうなと思いながら、ちえりは答えた。
歌子は、会話の流れにうわべだけ合わせてるのが明らかな様子で言った。「それが楽しいわけ」
「うん。メッセ友だちは五人くらいいるよ」
「へえ、それを『友だち』って呼んじゃうんだ」
「そう」
歌子はミルフィーユをフォークで一刀両断にしながら気のない返事を返した。「私には理解できない世界だな」
「そうかなぁ」
「だってさ、会ったこともないんでしょ。私だったら、それを友だちとは呼ばないよ」
ちえりは別段、驚きもしなかった。ネットをやっていない人間にはありがちな反応だ。実際、四、五年前のちえりも、いまの歌子と同じような考えだったのだ。
「しょせんパソコン越しの、文字だけのやり取りでしょ。言っていることが本心なのかなんてのは、実際に顔色見ながらじゃないとわからないもんじゃない」
まあ一理はある。
けれど、歌子は少しだけ理解の色を示した。「でもちえりは、リアル(実際の人付き合い)では、痛い目に会ってるからね。そういう方に走るのも分かるよ」
ちえりの元彼のことだ。去年の話になるが、あれはひどい体験だった。彼とは二年付き合ってきたが、別の女性と二股をかけられていた事が発覚。それもちえりと出会う前から。渦中にいたときは、彼のことを心底好きだったので、何事も良い方に解釈して、本当の気持ちは自分の方に寄せてくれているのだと思いこんでいた。いや、今なら分かる。あれはそれを自分に思いこませようとしていたのだ。なぜなら傷つくことが何より怖かったから。
一種の魔法のようなもので、すっかりそれが解けてしまったいまでは、当時の自分が滑稽に思える。彼は単にセックスだけが目的だったのだ。そう考えるとつじつまの合うことが、いくつもあった。
その反動で、前よりいっそうネットに閉じ込もるようになったのだろうと言われれば、そういう気がしなくもない。
歌子は続けた。「でもさ、文字だけのやり取りをあんまり信用しない方が良いよ。男の本性なんてさ、何度か寝てみないと顔を出さないよ」
ちえりは苦笑した。でも、ちえりよりはるかに恋愛経験の豊富な歌子の哲学だ。耳を傾ける価値はあるだろう。
2
ちえりはついでに歌子と夕食も一緒に済ませ、夜にアパートに帰った。
灯りを点けると、まずパソコンの電源を入れて、それから着替え始めた。パソコンの起動には少々時間がかかるので、そういう習慣が身についている。
メッセンジャーを立ち上げると、友人のアイコンが並んだ。
「あ、吾郎さんがオンラインだ」goroという名前の横に「接続中」という表示が出ている。
吾郎とは、一年ほど前に知り合った。とにかく親身になってくれる人だった。元彼との一件の時も、別れる前はちえりのまだ好きだという気持ちを応援してくれ、別れてからは元気を出すように励ましてくれた。
ちえりは、吾郎には不思議な気安さを感じていた。何が他の人と違うのか、よく分からないのだが、吾郎とメッセをしていると、ついつい、言うつもりのなかったことまで言ってしまう。
ちえりは当然のように、吾郎にメッセージを投げた。
『吾郎さん、いま、話してもいい?』
吾郎はちょっと間をおいて答えた。『いいよ』
吾郎はいつもゆっくりと返事をくれる。それがまた、ちえりに居心地の良さを感じさせる。
『きょうは晩ご飯、友だちと食べてきたんだ』
『うたこさん?』
『そう』
吾郎は平仮名が好きらしく、ほとんど平仮名でメッセージを書く。そのせいか、文章がとても優しくやわらかな印象を与える。
『おれはカップめんだよ』
『だめじゃん。いつもそれじゃあ体壊すよ』
『あはは』
ちえりは、それからしばらく吾郎との会話を楽しんだ。時々ひとりでパソコンの前で笑いをこぼしたりして、誰かが見ていたら馬鹿みたいに見えるだろう。
『ごめん、おれそろそろねむくなってきた』
『あ、こんな時間だね。明日、会社、寝坊しちゃう。また話せる?』
『うん、またはなそう』
『それじゃあおやすみなさい』
『おやすみ』
ちえりはパソコンをシャットダウンした。
パジャマに着替えながら、吾郎の事を考えていた。吾郎は、何でも聞いてくれるけれど、あまり自分の事は話してはくれない。何の仕事をしてるのか尋ねた事があったが、はぐらかされた。
秘密の多い人。だけど、優しい人。ちえりは自分の心が動き始めていることに気づいていなかった。
3
金曜ともなると、仕事疲れで体もかなりくたびれてくる。ちえりは会社のパソコンに向かいながら、デスクの下で、むくんだ足を、幾度となく組み替えていた。それでも、いつもの金曜より気分がブルーではないのは、きょう、吾郎とメッセの約束をしているからだ。普段は、見かけたら声をかけるというのが多いが、きょうはお互いの都合がつくので、八時に時間を決めてじっくり話そうと約束していた。
なんだかデートするみたいな気分だな、ちえりは少しばかりわくわくしている自分に苦笑した。
天井のスピーカーから、定時のアナウンスが流れた。ふう。今週も何とか乗り切った。
帰り道を歩きながら、思っていた。吾郎は同じ都内に住んでいるという。どこにいるんだろうな。どんな部屋なんだろう。どんな子ども時代を過ごしてきたのかな……。
時間があれば吾郎の事ばかり考えている。夕刻の薄暮の道を行きながら、ちえりは気がついた。私、吾郎さんの事が好きなんだ。だからこんなに気になるんだ。こんなことどうして気づかなかったんだろう。
ちえりの足取りは自然と速くなった。急いだって約束の八時が早く来るわけではない。けれど、急がなくっちゃという思いがあった。
家に着くと、食事の支度を始めた。
パスタを茹でながら、マッシュルームとベーコンの入ったホワイトソースを作った。茹で上がったパスタにソースを絡めて出来上がりだ。
それを食べて、壁時計を見上げた。七時半だった。後片付けをして、パソコンを起動した。メッセンジャーを立ち上げておいて、八時まではまだ時間があるので、行きつけのホームページやブログを巡回して歩いた。
八時になった。ほぼ時間ぴったりに吾郎がログインしてきた。
『吾郎さん、こんばんは』
『こんばんは、ちえりさん』
『ねえ、きょうもカップ麺じゃないでしょうね』
『あはは、ごめんなさい。カップめんでした』
『もう。栄養失調になっても知らないよ〜』書きぶりは軽いが、ちえりは本当に心配していた。吾郎は一人暮らしなのに料理が苦手らしく、カップ麺ばかり食べている。それ以外といったら、時々冷凍食品を電子レンジで温めて食べるくらいだ。
『しまいには作りに行っちゃうぞ(笑)』最後に「笑」を付けておどけて見せてはいるが、できればそうしたいと本気で思っている。
『あはは、おれのへやなんか、ちらかっていて、きたないから、おきゃくさんはよべないんだ』
『そんなの話を聞いてたら大体想像できてますよ〜だ』
『やっぱりわかる?』
『私は想像力のたくましい女なの(笑)』
他愛のない会話は続く。実は、ちえりは、会社の帰り道の時から言いたい事があった。それをいつ切り出そうか伺いながら、ふざけ続けていた。
ふっと話のネタが途切れた。ちえりは打った。『ねえ』
『なに?』
ちえりは言いたかった話を切り出した。『私ね、吾郎さんに会ってみたいんだ』
間があいた。
やがて吾郎が書いて寄こした。『ごめん。それは、えんりょさせてほしいな』
ちょっと気まずそうだった。けれど、ちえりはそう言うかも知れないという予感があった。以前、すっかり仲良くなった頃、写真を交換しようか、と持ちかけたことがあった。しかし、その時も吾郎は断った。
だが、きょうのちえりは食い下がった。『ちょっとだけで良いんだけどな。吾郎さんに会ってみたいのよ』
吾郎はまた沈黙してしまった。
ちえりは思い切って書いてみた。『私ね、吾郎さんの事がすごく気になってるの。本音を言うとね、吾郎さんが好きなのよ』
吾郎は何も言わない。
ちえりは聞いてみた。『もしかして、吾郎さん、彼女いるの?』
『いないよ』
『私と話してて退屈なのかな?』
『そんなことないよ。いつもたのしいよ』
ちえりは本当はそこまで聞くつもりはなかったのだが、もう一歩踏み込んでみた。『私の事、好きか、嫌いか、と聞かれたらどっち?』
『すきだよ』
どきりとした瞬間だった。それまでちえりは、吾郎が自分に好意を寄せてくれていることはぼんやりと感じていたが、はっきり「すき」と文字で表されると急にどぎまぎしてしまった。だけど、同時に嬉しさがこみ上げてきた。
『ありがとう。私、すごく嬉しい。ねえ、会ってもらえないかな』
また少し間を置いて、吾郎が答えた。『あいたくないんだ。けっしてきらいなわけじゃないんだ。おれも、ちえりさんに、すきっていってもらってうれしいんだけど』
ちえりは少し悲しくなった。好きなのに、どうして会ってくれないのだろう。
4
季節は初夏を迎えようかというある土曜の午後、歌子がワインのボトルを抱えて遊びに来た。
話しながら二人でキッチンに立った。歌子は簡単なサラダと海老のコンソメスープを作り、ちえりはサイコロステーキをフライパンで焼いた。
歌子が動かす手を休めずに聞き返した。「え、会いたいって言ったの」
「うん」ちえりは、きっと歌子は諫めるだろうなと思いながら答えた。
歌子はさらに聞いた。「お互い好きだって言ったわけ」
「うん」
「順序が逆じゃないの?会ってみたら好きになった、と言うんなら分かるけど、会った事もない人が好きになっちゃうの」
歌子には到底理解できないだろう。けれど、現実にそうなっているのだから仕方がない。
「だけど、メッセでは散々話して来てるんだよ」
「そんなこと言っても、リアルでは会ったことないんでしょ」
ちえりは、メッセで次第に惹かれ合っていったんだということを言いたいのだが、メッセに何の価値も認めない歌子にそれを言っても無駄だろうなと思った。
歌子はコンソメスープの味見をして、あちち、と言いながら話を続けた。「でも会ってはくれないわけだ」
「そうなのよ。ちょっと押しかけ女房状態だったかな」ちえりはおどけて言いながら、焼き上がったサイコロステーキを二つの皿に盛りつけた。それに歌子がサラダを添え、料理はテーブルへと運ばれた。
二人はテーブルに着いた。
「ワインは何を買ってきたの。ああ、十勝ワインね」
「一本で足りたかな」
「それは歌子次第だよ」酒豪の歌子に笑いながら、ちえりは栓を抜き、二人のグラスにワインを注いだ。
歌子がグラスをかかげ、「何に乾杯しようか」
「私の恋の行方に、でお願いします」ちえりが笑いながら言った。
歌子は軽く鼻で笑って、それでも「ま、それについて言いたいことは色々あるけど良いでしょ。じゃ、乾杯」
「乾杯」
二人のグラスがぶつかって、かちんと涼しげな音を立てた。
今放送中のドラマの話や、互いの会社の愚痴など、二人はにこやかに、だけど、軽いジャブを交わすボクサーのように会話をした。話ながら、相手の様子をうかがっている、そんな感じだった。
ふいに話が途切れて訪れた沈黙。
歌子がテーブルを軽く拳で叩いた「ちえり、会うのはやめときなよ」
来た来た。うわ、歌子、目が座ってる。
ちえりがかわす。「歌子、酔ってるよ」
「酔ってないよ。ちえりが心配なだけだよ。どんな人かも分からないのに」
「人柄は分かってるよ。いっぱい話したもん」
歌子は、テーブルに肘を突いた方の手で顔を覆い、「あんたさあ」
「なによ」
「私には吾郎さんの反応の方が正常に思えるな」
「そうかな」ちえりにはピンと来ない。
「誠意のある人なら分かるけど、そんなのメッセで感じ取れるの?吾郎さんだってちえりがどんな人か分からないから、会うのをためらってるんじゃない?」
「誠意か」ちえりは懐かしい言葉を聞いてしんみりした顔になった。
男の誠意なんてものには、とんとご無沙汰だ。元彼二股事件の時に、嫌というほど不誠実を見せつけられ、男を信じられなくなった時期もあった。もう金輪際、男はごめんだ、と思っていた頃、吾郎にメッセで何度も慰められ、励まされ、思っていたより早く立ち直る事が出来た。
吾郎は優しい人だ。打算が一切無い。ああいう人を誠意のある人って言うんだろうな。
歌子がフォークで宙に浮かせてちえりを指した。「ちえり、まずは、おはよう、おやすみ、のメールを毎日交わすところから始めれば」
「え」
歌子はフォークを少し振りながら言った。「そうやって外堀から順々に埋めていくのが恋愛ってもんだよ」
一体何人の男をそうやって落としてきたんだろう、と思いながら、ちえりは苦笑いし、首を振った。「吾郎さん、携帯持ってないんだ」
歌子は驚いた。「ええ?パソコン音痴の私でさえ携帯くらいは使いこなしてるのに、吾郎さん、持ってないの」
「うん」
「いまどき珍しい人だね。便利なのにね」
しかし、ちえりはそれを、何だか吾郎らしいな、と思っていた。吾郎は、まわりの世界とは別の、ゆったりとした自分の時間を持っていて、その流れの中で生きている。どこか超然としたところがあるのだ。それが、メッセをしていると伝わってくる。吾郎と接していて感じる居心地の良さはそんなところから来るのかも知れない。そしてちえりが惹かれるわけも、その辺りにあるのだろう。
5
お互い、相手を好きだということを知り合ってからも、二人のメッセの中身はそれほど変わりはしなかった。違いらしい違いと言ったら、最後に「すきだよ」と言い合って落ちるくらいだ。
しかし、ちえりにとっては、吾郎とのメッセは、以前とは完全に違うものになっていた。好きな人と過ごせる大切な時間。心の庭の一角に植えた朝顔のように、日々、吾郎への思いが育っていくのを感じていた。
ちえりはその後も何度か、会って欲しいと言ったが、吾郎は断り続けた。
それでも、少しずつ掘り起こしていくと、「ルックスに自信がない」という答えを引き出すことが出来た。
ちえりは打った。『そんなこと言ったら、私もだよ。吾郎さんのはいらないから、私の写真送ろうか』
すると吾郎は、いらないと言った。
『見たくないってこと?』
『そんなことないよ』
『私のこと好き?』
『うん、すきだよ』
『じゃあ、どうしてよ』
吾郎は少し沈黙した後、書いて寄こした。『ごめん。せつめいできないんだ。おれのことを、よくしったら、ちえりさんは、はなれていくとおもう。いまのままがちょうどいいんだよ』
ちえりは強く打ち消した。『そんな事、絶対ないよ。安心していいよ』
文字の向こうでどんな表情をしているのかは分からない。しかしちえりには、何となく、吾郎が少し怯えているような気がした。
今まで色々な話を聞いてきて、吾郎の生活は、ちえりにはとても寂しいものに映っていた。両親はすでに他界して、兄弟もいないという。身よりもなく一人でアパートで暮らしていた。今まで女性と付き合ったことがなく、ちえりが初めての彼女らしい。もっとも、たぶん歌子に言わせれば、会ったこともないちえりは彼女とは言えないのだろうが。
吾郎は寂しいとは言わない。しかし、ちえりは本当は寂しいのではないかと思っていた。吾郎に温もりを分けてあげたい。言葉だけではなく、体温を伝えたい。そうちえりは思った。
6
秋が来た。
ちえりはある日、歌子に電話をかけた。「歌子ぉ」声に力が入らない。
「ちえり、どうした」
「吾郎さんが全然メッセに姿を現さないんだ。もう二週間も話せてないの」
歌子も少し驚いた。「二週間」
「そう。なんでだろう。何かあったのかな。それとも避けられてる?歌子、どう思う」
「何か気に障ることでも書いた覚えないの」
「ううん。ないと思う」ちえりは記憶をたどったが、特別なことは何もなかった。ある日を境にパタリと消えたのだ。吾郎は携帯電話も持っていないので、メッセだけが繋がりだった。こうなると全く手の打ちようがない。
「しつこく会いたいって繰り返したからかな」
「そんな事ないんじゃない。だって向こうもちえりが好きだって言ってたんでしょ」
「うん」
「だけど、どうして吾郎さんはちえりに会いたくないって断り続けてたのかな」
「何かね、ルックスに自信がないから、会ったら私が離れてくって言ってたよ。それは何回か繰り返してたな。でも私、何度も言ったんだよ。外見は全然気にならないって。大事なのは中身だと思ってるってさ」
「ちえりは外見重視派じゃないもんね。言っちゃあ悪いけど、今まで付き合った人も、わたし的にはパスって感じだったし」歌子は口性がない。ただ言っていることは当たっていると、ちえりも認める。「他に連絡手段がないっていうのが痛いよね」
「ほんとだよ。最初の三、四日は我慢してたんだけど、今じゃ私、夜も寝れなくって」誇張ではなく本当だった。
歌子は気の毒そうに言った。「そりゃ、待つしかないね。ちえり大丈夫?」
「大丈夫とは言えないな」ちえりは力なく答えた。
* * *
歌子に電話してから三日後。仕事から帰ったちえりがメッセンジャーを立ち上げると、そこに吾郎がいた。
ちえりは息を呑み、バッグを投げ出してその名前をクリックした。砂漠を歩いていて何十日ぶりかにオアシスを見つけた旅人のようだった。
『吾郎さん!どうしてたの。もしかして私が何か怒らせるようなこと書いた』ちえりは涙ぐんでいた。
『ちがうよ。ごめん。ちょっといえをあけてたんだ』
『私、辛かったよ。吾郎さんがどれだけ自分にとって大切なのか、この二週間で良く分かったよ』
『ごめん。おれもちえりさんと、はなせなくて、つらかったよ』
ちえりは涙をぽろぽろこぼした。『もう話せないのかと思ったよ。ごめん、ちょっと時間ちょうだい。泣いてしまって、キーボード打てないの』
ちえりはティッシュペーパーの箱を膝に乗せ、気持ちが落ち着くまで、十数枚のティッシュを費やした。
十分ほど経って、吾郎が書いた。『おちついた?』
『うん、ごめんね』
『あのさ、たのみがあるんだけど』
吾郎が頼み事なんて初めてのことだ。ちえりは少し緊張しながらキーを叩いた。『なに?何でも言って』
『あってくれないかな』
驚いた。あれほど拒んでいたのに、吾郎の方から会いたいと言う。
ちえりは不思議に思った。『もちろん大歓迎よ。でもどうしたの。あんなに会えないって言ってたのに』
『そうだよね。へんにおもうよね。ちょっと、きが、かわったんだ』
『ありがとう。私嬉しいよ。いつが良いの』
『こんしゅうの、どようびのごごは、どう』
『いいよ。どこへ行けばいい』
『○○こうえんの、ひがしがわのベンチ、っていったらわかる?』
『うん、行ったことがあるよ』
『じゃ、そこで』
その後もメッセは続いた。ちえりは、話したいことが、この二週間の分だけたっぷりとあった。ほとんど一方的にちえりが書いて、吾郎は相づちを打っていた。
ちえりは、ああ、これだ、と思った。この居心地の良さが私を温かくしてくれる。吾郎じゃなければもらえない温かさ。久しぶりにそれに包まれる気持ちよさを、心ゆくまで楽しんでいた。
7
その日、ちえりは極端に早く目が覚めてしまった。ああ、気持ちだけじゃなく体も緊張してるんだな、と思った。
吾郎に会える。ずっと願っていたことがきょう実現する。目覚めてから鼓動が早鐘のように鳴り続けて、何とも落ち着かなかった。
午前中は気を静めようと、洗濯に掃除と家事に取り組んだが、なかなか手に付かない。いずれも中途半端のまま支度の時間がやってきた。
着ていく服に迷い、メイクに時間をかけ……と、余裕を持って始めたつもりがいつの間にかぎりぎりになってしまった。最後はあわただしく家を後にした。
電車を乗り継いで、降りた駅から約束の公園に向かった。急いでいるつもりが、まるで雲を踏んでいるように足元がおぼつかなかった。吾郎が言うには目印はサングラスだという。
公園の入口でいったん立ち止まった。緑が豊かで、向こうには噴水が見えた。家族連れの散歩客が大勢散策している。
ちえりは木々の間を抜ける東側への小径を歩いた。動悸はおさまるどころか、どんどん高まっていく。
芝生の上にいくつかベンチが並んでいた。幾人もの人が、ベンチで休んでいたが、ちえりの視線はその中の一人に向けられた。サングラスをかけているのは一人だけだった。
ゆっくりと近づいていった。けれども、ちえりは立ち止まってしまった。サングラスのその人は、松葉杖をベンチに立てかけていた。そして……右手には白い杖。さらにズボンの左裾が力なくベンチから垂れ下がっている。左脚がないのだ。
再び、ちえりは近づいた。恐る恐る声をかけてみた。「吾郎さん?」
彼は声の方に顔を向けた。濃い色の丸いサングラスをかけている。「ちえりさん?」
「うん」ちえりは答えた。
吾郎はどこか卑屈な笑いを見せた。「驚いただろ。俺は目が見えないんだ。ついでに左脚もない」
驚きのあまり、ちえりは何と言っていいか分からなかった。
しかし、すぐに胸が熱くなるような、喜びとも感動ともつかないものがこみ上げてきた。これが吾郎さん。会いたくて、会いたくて仕方がなかった吾郎さん。ちえりは涙が出てきた。化粧が乱れるのも構わずに、ハンカチで目を拭い鼻をすすった。
「吾郎さん」
吾郎はちえりの声の調子から、泣いているのを感じ取ったようだ。
「ごめん。ショックだろう。これが俺なんだ。生まれつき視力がなくて障害者年金で食べてる。できるだけヘルパーさんを頼みたくないから、色々工夫してひとりで暮らしてるよ。こんな俺だから会うのが怖かったんだよ。会ってみてこれじゃあ、引くよね」
ちえりは吾郎の隣に座り、白い杖を握る手に自分の手を重ねた。「違うよ、ショックで泣いてるわけじゃないの。驚きはしたけど、吾郎さんへの気持ちは少しも変わらないよ。私、やっと会えて嬉しいの」
「そう言ってくれて嬉しいよ」
「でも、見えないのに、どうやってメッセをしてたの」
「施設から中古のパソコンを譲ってもらってメッセをしていたんだ。それには、文字読み上げソフトがついていたので、それを使ってちえりさんのメッセージを耳で聴き、返事を書いてたんだよ」
ちえりの数々の疑問は氷解していった。吾郎が平仮名しか使わないのはそのせいだったんだ。漢字変換しても、それが正しいのか吾郎にはわからない。返事がゆっくりなのも、ちえりが書いた文章を、一度音声ソフトに発音させてから返事を書いていたんだ……。
カップ麺ばかり食べているのも、火が使えないからだろう。
仕事のことを聞いてはぐらかされたわけも分かった。
また、写真をいらないと言ったのは、もらっても見ることが出来ないからだ。
「脚のことも話さなくちゃね。俺は重度の糖尿病なんだ。左脚は血行障害で二年前に切断したんだ」
吾郎の口調は淡々としていた。ちえりは吾郎の言葉から、何だか開き直りのようなものを感じた。
「今まで会いたくなかったのは、こんな俺を見たら、きっと引くだろうと思ったからだよ。でも、もういいんだ。きょうはさよならを言いに来たんだ。最後に一度だけ会いたかった」
ちえりは涙を拭いながら尋ねた。「どうして。私は今の吾郎さんが好きだよ。またこうやって会えるじゃない」
吾郎は首を振った。唇の端に笑みを浮かべていた。「だめなんだ。二週間連絡が途絶えたのはね、病院に入院していたからなんだ。それで、右脚も切らなくちゃならないことが分かったんだよ。そうなると、もうひとりでは暮らせない」
ちえりは目を見張った。両脚を失ってしまうなんて。
吾郎は続けた。「ちえりさんと知り合って、退屈だった毎日が、ぱっと明るくなったよ。楽しかった。それで充分なんだ。別々の道を歩く時が来たんだよ」
ちえりは語気を強めた。「いやだ。私、もう吾郎さん抜きで暮らしていくことなんてできないよ。二人で協力すれば何とでもなるじゃない」
「ちえりさんはそう言うけどさ、これは俺の業なんだよ。ちえりさんを巻き込むことはしたくないんだ」
「勝手に決めないで。私が誰を選んで好きになるかは私が決めることよ」ちえりは少し腹を立てていた。いくつもの夜を費やして、二人にはメッセを通じて積み重ねてきたものがあるはず。吾郎は相談も無しにそれを捨ててしまおうとしている。
「毎晩『すきだよ』って言い合ってきたのは何だったの。もう私のことは好きじゃなくなったの?」
吾郎は黙り込んだ。ちえりは繰り返した。
「答えて。いまの気持ち。私のことは好き?」
吾郎も思わず感情をさらけ出した。「ああ、好きだよ。分からない?好きだから巻き込みたくないんじゃないか。こんな俺と一緒にいるということは、ちえりさんが考えているよりずっと大変なことなんだよ。ちえりさんが好きだから、苦労させたくないんだよ」
ちえりは吾郎の気持ちが温かかった。けれど、大きな思い違いをしていることに気づかせてあげたかった。
「吾郎さん。私は吾郎さんが大好き。いい?好きな人のためにする苦労は、楽しくて幸せなことなんだよ。ちっとも辛い事じゃないの。それが吾郎さんには分かってない」
ちえりは吾郎に添えた手に力を入れた。
「ね。やってみよう。私、介護の勉強もするよ。どこへでも車椅子を押して、吾郎さんの脚になる。きょう、私は吾郎さんのすべてを知ったわ。きょうが終わりじゃいよ、始まりにしようよ。大事なことは、お互いが好きだってことだよ。それさえあればどんなことも乗り越えていけるよ」
いつの間にか吾郎は頬を紅潮させていた。サングラスの下から、つーっと一滴、涙が流れた。
ちえりにはそれが吾郎の答えだと分かった。
「ちょっとごめん」ちえりはそう言うと、吾郎に顔を寄せ、唇に唇を重ねた。
驚いた吾郎は、「人が見てるよ」
ちえりは笑った。「どうせ見えないんでしょ」
8
「ふぅ〜。ちえり、あんたさあ、友だちなのを良いことに、随分こき使ってくれるわね」歌子が愚痴った。
歌子はちえりの荷造りを手伝っていた。アパートの部屋中、ものが散乱していた。友情というのは時に便利なものだ。
ちえりと歌子は、いるもの、捨てるもの、不要で歌子にあげるものなどを分けて、段ボール箱に詰め込んでいた。
歌子が軍手をはめた手で額の汗を拭いながら尋ねた。「それにしても、これでいいの?」
「うん、いいんだ。もう決めたんだ」ちえりは時々鼻歌を歌うくらい上機嫌だった。
「目が不自由で脚もない人と同棲なんて、あんたほんとに男では苦労するように出来てるんだね」
ちえりは微笑んだ。「好きな人と一緒にいれるのは素敵なことだって、歌子もいつか言ってたじゃない」
「そりゃそうだけどさ……」
荷造りに没頭していたちえりが、ふと時計を見た。
「あ、こんな時間。吾郎さんのところに行かなくちゃ。向こうも片づけて受け入れ体勢を整えないとね。引っ越し屋さんが来るのは明日だから。
歌子、あとのことよろしくね」
ちえりは、コートを羽織ると、玄関に出た。
「ちょっと、ちえり。あんたね……」歌子は文句の二つ、三つも言いたかったが、ちえりはあっという間に外に出てしまっていた。
ちえりは電車の駅から歩いて吾郎の部屋に着くと、先日作った合い鍵でドアを開けた。
吾郎が松葉杖を突きながら、笑顔で出迎えた。
「ちえりさん。手術の日が決まったよ。来月の十五日」
「そう。良かった。痛そうで、見てる方も辛かったよ」
吾郎の残った右脚は、血行障害で壊死が始まっていて、鎮痛剤で痛みを抑えていた。来月には、その右脚も切断してしまう。
部屋に入ってちえりはちょっとした驚きを覚えた。「すごい。ずいぶん片付いてるじゃないの」
ちえりが持ち込む家財道具を置けるように、場所を作り、きれいに掃除してある。
「無理しちゃだめだよって言ったじゃない」ちえりは頬をふくらませた。
「久しぶりに良い運動になったよ」
吾郎は、右手で宙を探って、ちえりの手を探した。ちえりは、それを掴んだ。
「ちえりさん、後悔はしない?迷いはない?俺はまだ迷ってるよ」
ちえりは笑った。「迷い?私はわくわくしているくらいよ。吾郎さんが大好き。それがあれば充分じゃない」
ちえりは吾郎に抱きついて、胸に顔を埋めた。くぐもった声でそっとつぶやいた。
「私を選んでくれてありがとう」
吾郎は右手をちえりの背中に回して、力強く抱き寄せた。「ちえりさんも、俺を選んでくれてありがとう」
今のちえりは、何も怖くなかった。
(了)