VRMMOそのものを否定してみる
ステータスが見れるとか、そういう魔法があるってだけでいいんじゃないですかね?
先に「VRMMOネタに、人が集まりすぎ」というようなネタを書きました:
* VRMMOにたかるハエ (http://ncode.syosetu.com/n4224cq/)
* VRMMOにたかるハエ2 ――Science Fiction原理主義者の私見―― (http://ncode.syosetu.com/n4516cq/)
それと、先にこういうのも書いていました:
* SFってなんなんだろう? ――感動とSF―― (http://ncode.syosetu.com/n4170co/)
こちらを読んでもらえればわかると思うのですが、上の二編でもVRMMOものそのものは否定していません。上の二編で否定的とらえているのは、VRMMOものそのものではなく、そこに集まっている人たちについてです。SFなら、誰かがあたらしい土地を開拓したなら、その先を作者には開拓してほしいのです。
VRMMOものについてちょっとだけ書くとしたら、CyberPunk 2013あるいは Cyberpunk 2020、それとShadowRunという米国産のTRPGに触れないわけにはいきません。それらでは電脳空間はいわばダンジョンであり、セキュリティーはモンスターとなっていたと言っていいと思います。
現在のVRMMOものはダンジョンではなくオープン・フィールドだと言われるかもしれません。ですが、そう言われるのでしたら、ダンジョンとオープン・フィールドの質的な差を教えてほしいと思います。とくに小説の場合、TRPGのシナリオでもそうですが、私は話そのものが質的にダンジョンだと考えています。
そしてVRMMOで行なわれている行動はなにかといえば、ファンタジーが多いように思います。ジャンルをファンタジーにしているものも実際多いようです。
初期のVRMMOものではキャラクターが死ぬとプレイヤーも死ぬという点が云々という話も聞いたように思います。
いやいやニューロマンサーもそうじゃなかっけ?
Cyberpunk2013、Cyberpunk2020、ShadowRunでもそうでした。
どれも神経が焼かれるというような表現があったように思います。
ニューロマンサー(ミラーシェードでもいいですが)やCyberpunk2013、Cyberpunk2020、ShadowRunが築いたのは、サイバー・パンクであり、サイバー・スペースでもありました。ですが、同時にサイバー・スペースのみで、何でも解決できるわけではないというところにも到達していました。ShadowRunだと、ゲーム内でのリアルに魔法だったか超能力だったかがあったり、モンスターが出てきたりもしていました。
サイバー・パンクは”ON THE EDGE"という表現をされることもあります。「綱渡り」という日本語を当ててもかまわないでしょう。これは生存そのものについても言えることであると同時に、生き方あるいは時代そのものについても言えます。時代を突き抜ける的な感じでしょうか。
そこで思うのは見かけるVRMMOものは、サイバー・スペースのみであり、サイバー・スペース内だけでのことであり、生き方でもなく、時代を突き抜けてもいないということです。そこに到達していないために、VRMMOのその先さえ現れていないのかもしれません。
例えば、次のようなエッセイを書いていました:
* SFってなんなんだろう? ――想像力とSF―― (http://ncode.syosetu.com/n5925co/)
これでは、「想像力は制御するもの」と書いていました。「サイバー・スペースのみであり、サイバー・スペース内だけでのことであり、生き方でもなく、時代を突き抜けてもいない」というのは、結局想像力を制御できていないのではないかと思えるのです。「想像力豊かに」というのは、簡単に「よくわからない魔法のようなもの」に落ち着いてしまいます。
ファンタジーであるのなら、VRMMOである必要はないでしょう。SFであるのなら、現状のVRMMOものはその始まりからSF要素は極めて弱かったと言えます。「弱かった」というのは、Cyberpunk2013、Cyberpunk2020、そしてShadowRunが存在したからです。その先に行っていないからです。
VRMMOものがSFになりうるというのは甘いし生ぬるいと言えるでしょう。
さて、SFの潮流として、サイバー・パンク以降シビアな世界が好まれるようになったように思います。「SFであるなら”ON THE EDGE"であれ」という感じでしょうか。『存在の耐えられない軽さ』という小説があったり(SFじゃないですけど)。そのタイトルそのものの「言葉」はSFの根っこから相容れないと思います。また村上春樹の作品はまさにそうだと言われたりしますが(と思いますが)、それはSFとは根っこからして相容れないものという認識を持ってほしいなぁと思います。
SF読みが求めているのはどこまでも異質であり、かつシビアな世界です。SFはメアリー・シェリーの「フランケンシュタイン; あるいは現代のプロメテウス」からしてずっと、実はそうであり続けました。暗黒時代そのものである作品群を除いてですが。
後世において(まぁVRMMOものの最初から数えて20年か30年かは知りませんが)、「第二の暗黒時代」と称される事態になることは避けてほしいと一人のSF読みとして、作家の皆さんにお願いしたいと思います。シビアなSFを書くプロがいますから「第二の暗黒時代」とはならなかったとしても、「時代の暗部」と称されることも避けてほしいと思います。
ではVRMMOものの現実との地続き感について考えてみます。ファンタジーの視点から言えることでもあり、VRMMOものの存在意義の基礎そのものを、これこそ完全にすっこ抜くでしょう。VRMMOに取り込まれる前の現実の知識、内省などがその特徴の1つか2つに挙げられると思います。そういうの、ナルニア国物語で描かれているんですよね。ある意味、ナルニア国物語には転生的な要素もありますし。指輪とはまったく違う形のファンタジーとしての巨頭の一つですから、それがやっていることをやそれに近いことをやっても、二番煎じ感はどうやっても拭えません。よって、現実との地続き感においても、VRMMOものは、その存在位意義を持たないと言えるでしょう。もうナルニアとかがあるがゆえにです。(この段落は「追記:2015-May-03: その2をベースに、2015-May-14に本文に追記しました。)
んー。まぁPCへのファイルのコピーがまだ終わらず、暇だったので書いてみました。コピーが終わらないから環境構築もできないし。暇。
追記:2015-May-03:
そうそう「アルジャーノンに花束を」のドラマをやっています。先を予想してもあまり良いことはないのですが。原作ではチャーリーは様々な知的レベルを「通り過ぎる」人であり、「常に孤独」なのです。学習センターだったかの先生の知的レベルを通り過ぎる2回だけを除いて。知的レベルが上になっても一人きり。下の時も、周りを理解できないゆえに一人きり。その孤独。そのシビアさ。SF読みとして私がしびれる箇所の一つは、まさにそこです。






