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聖杯に神々の血を注ぐ仕事、十二年間わたくしが一人でやっておりました。――「誰でもできる雑用だろ」と仰るので、本日付で辞めさせていただきますね ~前世経理の聖杯管理官は、帳簿で神を黙らせる~

作者: uta
掲載日:2026/10/06

「エレノア・ヴァルトハイム。お前との婚約を破棄する」


建国祭の大広間。千本の蝋燭の下で、王太子セドリック・アルディス殿下がわたくしに杯を突きつけました。


「聖杯の管理など、祈りの才ある者なら誰でもできる雑用だろう。これからはミレーユが聖女として光を注ぐ」


楽団の音が止まりました。貴族たちのざわめきが、波のように広がっていきます。


殿下の隣で、男爵令嬢ミレーユ・ドルトン様がぱっと顔を輝かせました。


「大丈夫です、わたし、お祈り得意なので!」


――ああ、そうですか。


わたくしは裾を摘まみ、膝を折りました。十九年間で染みついた、完璧な角度の礼。


「かしこまりました。本日付で、聖杯管理官を辞任いたします」


「……は?」


「引き継ぎ書は三十七冊ございますが、お読みになりますか?」


セドリック殿下は、虫でも払うように手を振りました。


「……そんなもの、必要ない」


(出ました)


わたくしの心の中で、前世の鷹野詠子(三十四歳・中堅商社経理内部監査・残業中に過労死)が、静かに手帳を閉じました。


(引き継ぎ書を読まずに業務を受ける神経。前世の後任にもいませんでしたよ、さすがに)


「承知いたしました」


わたくしはもう一度頭を下げ、背を向けました。


誰も止めませんでした。父も、兄も。


父は隣席で、苦々しげに囁いたのです。


「まったく、女の雑用ひとつで婚約を失うとは」


――雑用。


十二年間。


毎晩、深夜二時に起床しました。


寝間着の上に外套を羽織り、冷えた回廊を歩いて聖杯の間へ向かいました。


七柱の神の血を、規定の順序で、規定の比率で、規定の時刻に注ぐ。


〇・三ドラムの誤差で結界は緩みます。順序を一つ違えれば豊穣の加護は死にます。


年に一度、七柱それぞれと契約更新書を交わし、署名します。


在庫が不足すれば、ヴァルトハイム家の金庫から自費で補填しました。


誰にも言いませんでした。言っても「女の雑用」と呼ばれるだけでしたから。


大広間の扉が、背後で重く閉まりました。


顔色が悪い、陰気な令嬢だと言われ続けた十二年。


(違います。ただの、慢性的な睡眠不足です)


回廊を歩きながら、わたくしは指先のインクの染みを見ました。


消えないのです、もう。何度洗っても。


――ようやく、眠れますね。


その夜、深夜二時。


わたくしは十二年ぶりに、目を覚ましませんでした。



*



翌朝、わたくしは自室の帳面を整理しておりました。


十二年分の記録。神血の入出庫簿、配合記録、契約更新控え、鑑定石メンテナンス報告書。


すべて複写を取り、正本を王城の聖杯倉庫へ運び込ませました。きっちり三十七冊。背表紙には番号を振り、冒頭には索引をつけてあります。


前世で学んだのです。引き継ぎ書は、読まれない前提で作る、と。


「お嬢様」


老侍従が声を震わせました。


「本当に……よろしいのですか」


「よろしいも何も、解任されましたので」


わたくしは羽根ペンを置きました。


「それに、もう、肩代わりはいたしません」


「肩代わり、とは」


「神々との契約は、祈りではなく帳簿で回っているのです」


老侍従はぽかんとしておりました。無理もありません。この国の誰も、そんなことは知らないのですから。


「――それをご存じない方に、わたくしが説明して差し上げる義理は、ございませんので」


荷物は旅行鞄ひとつでした。


宝石も、ドレスも置いていきました。持って出たのは、祖母から受け継いだ角張った筆跡の帳面と、使い込んだ羽根ペンと、算盤に似た計算板。


門を出る間際、父が廊下の向こうに立っておりました。


「エレノア。どこへ行く」


「辺境でございます、お父様」


「戻れ。王太子殿下もいずれ気が変わる」


「お父様」


わたくしは立ち止まり、振り返りました。


「この十二年、わたくしが毎晩何時に起きていたか、ご存じですか」


父は答えませんでした。


「金庫の金貨が、毎年いくら減っていたかは」


「……何の話だ」


「いいえ。何でもございません」


わたくしは礼をしました。十九年間で染みついた、完璧な角度の礼を。


(答えは、査問会でお伝えしますね。――そういう場が、必ず来ますので)


馬車は東へ。辺境の交易都市ヴェルンまで、十一日。


車窓に流れる麦畑を眺めながら、わたくしは一冊だけ持ち出した帳面を開きました。


王国法典第四巻・神事章。


第九条に、祖母の筆跡で赤い線が引いてあります。


『神との契約更新権は、署名者個人に帰属する』


祖母は言っていました。


『神様はね、見栄えじゃなく、手続きを見ているのよ』


――おばあさま。


わたくし、しばらくお休みをいただきます。


十二年、無遅刻無欠勤でしたから。



*



交易都市ヴェルンは、埃っぽくて、騒がしくて、麦と馬糞と香辛料の匂いがしました。


わたくしは『神血商会』という小さな商会の帳簿係として雇われました。


面接で、店主が五年分の未整理の帳面を見せてきたのです。


「これ、整理できるかね」


「三日いただけますか」


二日で終わらせました。ついでに、仕入先に四年間過払いしていた銀貨百八十枚を発見して取り返しました。


店主は泣きながらわたくしを雇いました。


「う、うぅ……あんた、神様か……」


(前世でもこんな感じでしたね。……あの、泣かないでいただけますか)


市場で見かけたのは、痩せた男の子でした。


大きすぎる上着、泥のついた裸足。果物屋に銅貨を渡し、釣り銭を受け取って、何も言わずに立ち去ろうとしています。


「少し、よろしいですか」


わたくしは彼の手の中を覗きました。


「三枚、足りません」


「え?」


「銅貨七枚のお買い物に、十五枚お渡しになりましたね。お釣りは八枚のはずですが、五枚しかありません」


果物屋の主人が真っ赤になって逃げました。


少年――ティムは、呆然と手のひらを見ていました。


「……おれ、いつも、こうだったのかな」


「おそらく」


わたくしは屋台で黒パンを買い、蜂蜜を垂らして、温かい山羊乳と一緒に差し出しました。


ティムは警戒しながら、ものすごい勢いで食べました。


「……んぐ、……うまい……」


「数が数えられると、騙されません」


「……先生になってくれるの?」


「今日は在庫の数え方を教えますね」


その日から、ティムは毎朝商会に来るようになりました。


覚えが異常に早い子でした。三日で加算、十日で桁上がり、三週間で在庫表の読み方を。


「先生、この桁おかしいです」


「あら。……本当ですね。よく気づきました」


「えへへ」


(才能ですね、これは。……前世の新人にも、こういう子がいたら良かったのに)


そして、ある夕方のことです。


商会の扉が、蹴破られるような勢いで開きました。


身長六尺半。肩幅が扉を塞いでいます。銀灰の短髪、左頬から首筋に走る古傷、額の生え際に黒い突起。


竜人の血を引く辺境伯、レオンハルト・グラン=ヴェルン。戦場で『氷の鉄槌』と呼ばれる男。


その男が、両腕いっぱいに書類の束を抱え、顔面蒼白で震えていました。


「……頼む」


「は」


「この補給簿を……読んでくれ……」


書類が机にどさりと落ちます。


「俺は、数字を見ると、寒気がする」


(……え?)


「魔物の群れには単騎で突っ込めるのですよね?」


「突っ込める」


「では、なぜ」


「羊皮紙の匂いで吐き気がする」


わたくしは束を手に取り、十数えるほど目を通しました。


「辺境伯閣下」


「う」


「この三月の矢の入庫、同じ数量が二回計上されております。おそらく納品書と請求書を両方起票なさった」


「……は?」


「つまり、閣下は矢を千二百本買ったつもりで、六百本しかお持ちでありません」


沈黙。


巨体の将軍が、ゆっくりと膝をつきました。


「戦だ」


「は」


「来月、魔物の群れが来る。……矢が、半分……」


「落ち着いてください。倉庫の実数を数えれば済みます。ティム、棚卸しの表を」


「はい先生! 閣下、こっちです。背ぇ高いから上の棚お願いします」


「……承知した」


巨大な将軍が、十歳の子どもに従って、おずおずと倉庫へ向かいました。


(ギャップが、すごいですね)


その夜、全数を数え終えたレオンハルト様は、机に突っ伏したまま呟きました。


「お前、何者だ」


「ただの帳簿係でございます」


「……いや。才能だ、それは」


わたくしは、羽根ペンを取り落としました。


十二年で、初めて言われた言葉でした。



*



――王国査問会 聴取記録(抄)



◆第一証言者:冒険者ギルド長 ガレス(四十五歳・元A級)


「最初に気づいたのは、うちだ。


鑑定石が、死んだ。全部だ。王都支部も、十二ある地方支部も、一斉に。


新人のランクが決められねえ。ランクが決まらねえと依頼が受けられねえ。依頼が受けられねえと、誰も魔物を狩らねえ。


三日で街道の警備が崩れた。五日で東門に角狼が出た。


俺は言ったぜ。『聖杯の管理官が替わったからだ』ってな。神官長殿は何て言ったと思う? 『祈祷の回数を増やしましょう』だ。


――あんたら、聖杯ってのが祈りで光ると本気で思ってたのか?


言っとくが、俺は十二年間、毎月あの令嬢から鑑定石のメンテナンス報告書を受け取ってた。石の共鳴率、劣化係数、次回調整予定日。全部数字で書いてあった。


俺は読んでた。読んでたから、わかる。


あれは、仕事だ」



◆第二証言者:神官長 ベルトラム(六十八歳)


「……私は、四十年、祈ってまいりました。


朝の祈祷、正午の祈祷、日没の祈祷。一度も欠かしたことはございません。


聖杯は、私の祈りに応えて光るのだと……そう、信じておりました。いえ、説いてまいりました。民にも、王家にも。


三週間前、聖杯が濁り始めました。


私は祈祷を倍にいたしました。三倍にいたしました。夜通し祈りました。


……光りませんでした。


神殿の書庫を、生まれて初めて隅まで探しました。そして、見つけたのです。


『神血供給契約書・第七柱分・年次更新控』


……契約書、という単語を、私はあの日初めて目にいたしました。


四十年、聖杯を司ってまいりました。


――一度も、計量したことは、ございません」



◆第三証言者:下級侍女 ハンナ(十六歳)


「あの、わたし、ただの夜番で、


こんなところでお話しすることなんて、何も……


でも、知ってます。わたしだけ、知ってます。


エレノア様は、毎晩いらっしゃいました。


深夜二時です。寝間着の上に外套を羽織って、蝋燭を一本だけ持って、聖杯の間へ。


十二年。一日も、お休みになりませんでした。


雪の日も、お熱のある日も。いちど、血の気の引いたお顔で壁に手をついていらっしゃって、わたし、『お休みになっては』と申し上げたんです。そうしたら、


『今夜注がないと、明日の結界が三刻分足りなくなりますから』と。


……すれ違うたびに、仰いました。


『おやすみなさい、ハンナ』って。


わたし、下級侍女です。名前なんて、誰も覚えません。


……覚えていて、くださいました」



◆第四証言者:ヴァルトハイム伯爵 グスタフ(五十二歳)


「……私は、その、


娘の仕事は、王太子妃になるための箔付けだと、そう考えておりまして。


深夜に起きていた? ……そうでしたか。いや、そういえば、朝食の席で、よく顔色が……いや。


金庫のことは、


……毎年、春先に、金貨が減っていたのは、


気づいては、おりました。


使用人の不始末かと思い、調べさせようとして、まあ、忙しさにかまけて。


娘がそんな大金を、なぜ一度も相談せず……


……いや。


相談されても、私は、


……聞かなかったでしょうな」



◆王城記録官 註記


聖杯濁度、第二十一日目にて『不可逆領域』に到達。


穀倉地帯の豊穣加護、消失。収穫見込み四割減。


結界強度、基準値の三十一パーセント。


新管理官ミレーユ・ドルトンに事情聴取を行ったところ、以下の供述を得た。


『だって、赤いのがいちばん綺麗だったから、たくさん入れたんです。


黄色いのはちょっと濁ってたから、少しだけにしました。


……えっ、だって、


比率とか、誰も、教えてくれなかったんですぅ』



*



王都からの早馬が、ヴェルンに着いたのは第二十四日目の朝でした。


紋章入りの封蝋。開けるまでもなく中身は想像できます。


「召喚状だな」


レオンハルト様が、わたくしの肩越しに覗き込んできました。


「『査問会への出頭を命ず』……査問だと? 呼び戻すのに、査問か」


「体裁でございましょう」


わたくしは書状を畳みました。


「頭を下げる形にしたくないのです。『罪を問う』形で呼び出して、ついでに業務を戻させる。前世でもよくありました」


「前世?」


「……たとえ話です」


レオンハルト様は腕を組み、しばらく黙っていました。


「エレノア。ひとつ聞いていいか」


「どうぞ」


「お前が辞めて、三週間で国が傾いた。――お前は、十二年、何をしていた」


「毎晩深夜二時に起きて、七柱の神血を計量し、規定の順序で注いでおりました。年に一度、七柱との契約更新書に署名を。あとは、在庫が足りないときの補填を」


「補填。誰の金で」


「……実家の、わたくしの持参金から」


「いくらだ」


「総額、金貨四千二百十八枚でございます」


部屋の空気が、音を立てて凍りました。


竜人の血が騒ぐというのは、本当なのですね。


レオンハルト様の額の黒い突起が、わずかに伸びました。瞳孔が縦に裂けます。机の端が、握り込まれた指の形に砕けました。


「……十二年だと?」


「はい」


「金貨四千二百十八枚、自腹で」


「はい」


「毎晩、深夜二時」


「はい」


「それは」


彼は、絞り出すように言いました。


「それは、労働だ。祈りじゃない」


わたくしは、羽根ペンを持つ手を止めました。


「誰も礼を言わなかったのか」


「……」


「誰も、一度も、お前に」


答えられませんでした。


喉の奥が、おかしな具合に詰まったのです。


十二年。怒りも悲しみも全部、数字に落として処理してきました。


帳面の『補填額』の欄に書き込めば、それで片がつきました。


涙も残業時間も、数字にすれば管理できます。前世からの、わたくしの癖です。


――なのに、この方は。


「閣下」


「レオンでいい」


「……では、レオンハルト様」


「半分にもなってないが」


「わたくし、十二年で、怒ってくださった方は、あなたが初めてです」


彼は、ばつが悪そうに顔を背けました。


そして、黙って黒パンを差し出してきました。


「……食え。ティムが焼いた」


蜂蜜はついていません。この方は、好意の伝え方を本当に知らないのです。


「……行くのか、王都へ。行かなくてもいい。この国が滅びようが、お前の責任じゃない」


「ええ。わたくしの責任ではございません」


わたくしは黒パンを受け取り、一口齧りました。


「ですから、申し上げに行くのです」


「……何を」


「『わたくしの責任ではない』ということを」


窓の外では、ティムが倉庫の矢を数えていました。


百七十四、百七十五、と、はっきりした声で。


「レオンハルト様。帳面を三冊、お借りします」


「使え。全部やる」


「一冊で結構です。――残り二冊は、お読みください」


「読めると思うか」


「思いません」


「正直だな……」


馬車は、西へ。


十一日かけて逃げた道を、六日で戻ります。


膝の上には、帳面が三冊。


一冊目は、契約書の控え。


二冊目は、金貨四千二百十八枚の補填記録。


三冊目は、王国法典第四巻・神事章。


(では、参りましょうか)


(――三点、ございますので)



*



王城・大審問の間。


三週間前まで婚約者だった男が、玉座の下段で、すでに顔色を失っていました。


「エレノア・ヴァルトハイム。出頭、大儀である」


セドリック殿下の声は、かすかに震えています。


「聖杯が、その、不調でな。……管理官として、至急、原状回復を命じる」


「殿下」


わたくしは膝を折り、完璧な角度で礼をしました。


「わたくしは、二十四日前に辞任いたしました。現在の管理官はミレーユ・ドルトン様でございます」


「そ、それは一時的な措置であって」


「辞令は書面で交付されております。写しがこちらに」


わたくしは帳面を開きました。


広間がざわつきます。ギルド長ガレス殿が壁際で腕を組み、神官長ベルトラム殿が法衣の裾を握りしめていました。


ミレーユ様が、涙でぐしゃぐしゃの顔でわたくしを見ています。


「申し上げたいことが、三点ございます」


わたくしは帳面の頁を繰りました。


(ゆっくり。前世の監査報告と同じです。相手に逃げ道を考える時間を与えないこと)


「一点目」


「聖杯は、祈りで光るのではございません。七柱の神との年次契約によって神血が下賜され、それを規定の配合比率・順序・時刻で注ぐことで機能いたします」


「な……何を言って」


「契約書は三十七冊。すべて引き継ぎ書に記載済みでございます。目録は第一冊の三頁目、各契約の更新期日は第二冊の巻末一覧に」


「そ、そんな書類は」


「聖杯倉庫、北側の棚に、番号順に収めてございます」


わたくしは顔を上げました。


「お読みにならなかったのは、殿下でございます」


セドリック殿下が、立ち上がりかけて、よろめきました。


「な……ではあの書類は……!」


「ええ。『そんなもの、必要ない』と仰いました。あの場には百名を超える証人がおります」


沈黙。


貴族たちが、一斉に殿下から目を逸らしました。


「二点目」


わたくしは二冊目の帳面を開き、一枚の紙片を抜き出しました。


「わたくしは十二年間、神血の在庫不足分を、自費で補填しておりました」


「……自費?」


「神殿への供給予算は、年間金貨三百枚。実際の必要額は年間平均六百五十枚。差額は、管理官個人が埋めるのが慣例でございました」


「慣例、など」


「祖母の代からでございます。祖母は三十年、埋め続けました」


わたくしは紙片を掲げました。


「総額、金貨四千二百十八枚。請求書はこちらでございます」


傍聴席で、音がしました。


父が――ヴァルトハイム伯爵グスタフが、椅子から崩れ落ちた音です。


「……四千……? 待て、では金庫の、あの、毎年の……あれは、お前が……」


「はい、お父様」


わたくしは父を見ませんでした。


「わたくしの持参金でございました。伯爵家の帳簿にも、出納記録が残っております。第四巻、春季支出の項。毎年三月、使途不明として処理されておりました」


父が、両手で顔を覆いました。


(怒鳴りません。泣きません。数字で申し上げるだけです)


(――そのほうが、効きますので)


「三点目」


わたくしは三冊目を開きました。祖母が赤い線を引いた、あの頁です。


「王国法典第四巻・神事章・第九条」


広間が静まり返りました。


「『神との契約更新権は、署名者個人に帰属する』」


「……それが、何だ」


「七柱との契約更新日は、三日後でございます」


わたくしは顔を上げ、静かに申し上げました。


「そして、三十七冊すべての契約書の署名欄にある名は――『エレノア・ヴァルトハイム』のみ」


「っ」


「神は、人の身分を見ません。署名を見ます」


一歩、前に出ました。


「わたくしが管理官でない以上、更新はできません。更新されなければ、神血の供給は永久に止まります。結界も、豊穣も、鑑定石も、二度と戻りません」


「待て、待てエレノア、では――」


「つまり」


わたくしは、言いました。


「殿下がわたくしを解任なさった、あの瞬間に」


「……」


「この国は、聖杯を失っておりました」


誰かが、悲鳴を上げました。


「わたくしではなく、殿下が」


王太子は、床に座り込んでいました。


「お捨てに、なったのです」


静寂。


蝋燭の芯が爆ぜる音まで聞こえました。


「……そんな話は聞いていない!」


殿下が叫びました。


「誰も教えなかった! 誰も、そんなことは――」


「三十七冊」


わたくしは言いました。


「お渡ししました」


そのとき、小さな嗚咽が聞こえました。


ミレーユ様が、床に膝をついて泣いていました。


「だって……」


「はい」


「だって、誰も、教えてくれなかった……! わたし、お祈りしたんです、毎日、三週間も、ずっと……!」


わたくしは彼女の前へ歩み寄りました。


そして、静かに申し上げました。


「引き継ぎ書は、あなたの部屋の前に」


「え」


「三十七冊、積んでございました」


ミレーユ様の口が、ぽかんと開きました。


「……あの、箱……?」


「はい」


「……邪魔だったから、物置に……」


わたくしは、何も言いませんでした。


壁際で、ガレス殿が吐き捨てました。


「……おい。誰か今、この国の滅亡理由を記録しとけ。『邪魔だったから』だとよ」


広間の誰かが、長い長いため息をつきました。


憎しみが、呆れに変わる音でした。



*



「では、どうすればいい」


国王陛下が、玉座から初めて口を開きました。


「エレノア・ヴァルトハイム。そなたに、再び管理官を」


「お断り申し上げます」


「なっ」


「理由を三点、申し上げてもよろしいでしょうか」


「……もう三点はよい!」


(あら)


「では、一点だけ。――わたくしは、十二年間、一日も休んでおりません」


わたくしは帳面を閉じました。


「有給休暇という制度は、この国にはございませんね。残業代も、出ませんでした」


(前世でも出ませんでしたけれど)


「ですので、辞職いたします。改めて、本日付で」


「待て、ならば国はどうなる!」


「わたくしの責任ではございません」


そのときでした。


広間の中央に据えられた、濁った聖杯。


どす黒く淀んでいたその縁に、ふわり、と。


――素足が、腰かけました。


十二、三歳ほどの少年でした。


硝子細工のように透ける銀髪。注がれた血の色に応じて虹色に揺れる瞳。


神官長ベルトラム殿が、よろめいて膝をつきました。


「き……器の神、ヴィル様……! 四十年、祈り続けて、一度も顕現なさらなかった――」


「うるさいな」


少年神は、面倒くさそうに言いました。


「祈られても、別に嬉しくないんだよ。誰も僕を見てないし」


彼は聖杯の縁に腰かけたまま、足をぶらぶらさせています。


「ねえ、君たち」


虹色の瞳が、セドリック殿下を捉えました。


「僕のこと、『器番』って呼んでるんだってね。七柱で一番格下だって」


「い、いえ、そのような」


「いいよ、別に。本当だし」


ヴィルは、ふっと視線を動かしました。


わたくしのほうへ。


「でもさ」


「……」


「十二年。毎晩、深夜二時」


少年神は、言いました。


「僕、ずっとそこにいたんだ。この子の隣に」


広間が、どよめきました。


「誰にも見えないし、誰にも気づかれない。だからただ、座って見てた。


この子が眠そうな目をこすって、量りを拭いて、七つの瓶を順番に並べて、〇・三ドラム単位で計量するのを。


指先が冷えて震えるから、息を吹きかけて温めてから注ぐんだ。


毎回だよ。十二年、毎回」


ヴィルは、わたくしを見ました。


「そして、注ぎ終わるたびに、頭を下げるんだ」


「……」


「『今夜もありがとうございます』って」


喉の奥が、また詰まりました。


「僕に言ってるのか、空気に言ってるのか、わからなかったけど。


でも、四千三百八十回、聞いた」


少年神は、ひらりと聖杯から降りました。


素足が、大理石を踏みます。


「契約はね」


彼は、泣き崩れた王太子を見下ろして言いました。


「人の格じゃなく、礼を言った者と結ばれる」


「そ、そんな決まりは――」


「決まりじゃない。僕の気持ちだよ」


ヴィルは、はっきりと告げました。


「――僕は、彼女としか血を分けない」


広間の空気が、ひび割れました。


神官長が祈りの姿勢のまま固まり、貴族たちが顔を見合わせ、ガレス殿が「ざまあみろ」と小さく吐き捨てました。


ヴィルは、とことことわたくしの前まで歩いてきて、袖を引きました。


「ねえ」


「……はい」


「お腹すいた。黒パン、持ってない?」


わたくしは、旅鞄から包みを取り出しました。ティムが焼いたものです。


少年神は嬉しそうに齧りつきました。頬が膨らみます。神格もへったくれもありません。


「んむ。……おいしい」


「……ヴィル様。あなたは、なぜ、十二年も」


「ヴィルでいいよ」


少年は、パンを飲み込んでから、ぽつりと言いました。


「……十二年、君だけだったよ」


「え」


「僕に、ありがとうって言った人間」


わたくしは、立ち尽くしました。


十二年分の深夜二時が、一気に胸の奥に流れ込んできて。


生まれて初めて、数字に落とせない感情というものを、処理し損ねました。


「……そうですか」


声が、少し震えました。


「……では、ヴィル」


「ん」


「今夜も、ありがとうございます」


少年神は、ぱっと笑いました。


「うん。――ほら、光った」


十二年ぶりに、聖杯の底に、一滴の光が灯りました。



*



それから、半年。


『第二聖杯』は、王都ではなく辺境ヴェルンに据えられました。


ヴィルが「あっちは埃っぽいから嫌だ」と言い張ったからです。神の意向とあれば、王家も従うほかありません。


結果として、この国の中心は、権威の都から実務の都へ移りました。


冒険者ギルドの本部機能はヴェルンへ。鑑定石の調整拠点もヴェルンへ。穀倉の豊穣加護の管理台帳も、ヴェルンへ。


「国の中心ってのは、玉座じゃなく帳簿のあるところだったんだな」


ガレス殿はそう言って、豪快に笑いました。


――王都では。


セドリック殿下は廃嫡されました。


現在の職は、神血在庫の棚卸し係。三十七冊の引き継ぎ書を、一冊目の一頁目から読まされる日々です。


先月、インク壺を倒して記録を三頁分だめにし、神官長ベルトラム殿(実務研修第一期生・六十九歳)に叱られたと聞きました。


「殿下、ここの桁が違います」


「う、うるさい! では神官長殿は合っているのか!」


「……私も、間違えております。一から数え直しましょう」


二人で数え直しているそうです。


ミレーユ様は、ヴェルンの孤児院の炊事係になりました。


毎朝、芋と豆の数を数えています。


「えっと……十、十一、十二……あれ、さっき十三って……」


「ミレーユ先輩、指を使っちゃだめって先生が言ってました」


「ティムくん厳しいぃ……」


彼女は救われました。けれど、二度と聖女とは呼ばれません。


それでいいのだと思います。


呼ばれなくても、芋は数えられるようになるのですから。


――そして、わたくしは。


朝。


窓から麦畑の光が差し込む、ヴェルンの執務室。


わたくしは辺境伯領の補給簿を広げ、赤いインクで直しを入れていました。


「レオンハルト様。三月の飼葉、また二重計上です」


「……また、か」


「納品書を見たら、必ず裏に『起票済』と書いてください。何度目でしょうか」


「七度目だ」


「よく覚えていらっしゃいますね」


「数えられるようになった」


「進歩でございます」


机の向かい側では、ティムが焼きたての黒パンを切り分けていました。


その隣では、十二、三歳の少年神が、素足を椅子にのせて蜂蜜の壺に手を突っ込んでいます。


「ヴィル。行儀が悪うございます」


「神だから」


「神でも、手は洗ってください」


「……はい」


ティムが笑って、わたくしの前に皿を置きました。


黒パンと、温かい山羊乳。あの日と同じです。


「先生、在庫表できました。差異ゼロです」


「お見事です」


(教えた子が、わたくしより早く数えるようになりました。――ええ、これが、いちばん嬉しいものですね)


パンを齧りながら、わたくしは帳面に数字を落としていきます。


「数字は裏切りませんから」


口癖です。十二年間、ずっと。


向かいで、レオンハルト様が咳払いをしました。


一度。二度。三度。


「……あの」


「はい」


「エレノア」


「はい」


竜人の将軍は、机の上の補給簿をじっと見つめたまま、耳まで真っ赤にして言いました。


「……お前が、俺の帳簿を一生見てくれると助かるんだが」


羽根ペンが、止まりました。


ティムが「わあ」と声を上げ、ヴィルが「うわ、下手くそ」と呟きました。


(……一生、ですか)


(ええ。――これは、雇用契約ではございませんね)


わたくしは羽根ペンを置き、顔を上げました。


「レオンハルト様」


「は、はい」


「それは、契約の申し込みと理解してよろしいですか」


「……そ、そうだ」


「期間は」


「一生だ」


「報酬は」


彼は、しばらく唸って、それから、低く言いました。


「……毎晩、礼を言う」


わたくしは、笑ってしまいました。


十二年ぶりに、声を出して。


「かしこまりました」


裾を摘まみ、膝を折ります。完璧な角度の礼を。


「謹んで、お受けいたします」


――その日の夜。


深夜二時。


久しぶりに目を覚ましたわたくしは、第二聖杯の間へ向かいました。


習慣とは恐ろしいものです。


聖杯は静かに光っていました。七つの瓶も、量りも、すべて定位置に。


異常なし。差異ゼロ。


帰ろうとして――ふと、聖杯の底に、何か刻まれているのに気づきました。


蝋燭を近づけます。


角張った、見覚えのある筆跡。


三年前に亡くなった、祖母のものでした。


『八柱目の契約書あり』


「……え」


背後で、素足が大理石を踏む音がしました。


「あ」


振り返ると、ヴィルが寝ぼけ眼で立っていました。


そして、底の文字を見て――


さっと、顔色を変えました。


「……ねえ、エレノア」


「はい」


「それ、読んだ?」


「読みました」


少年神は、唇を噛みました。


「……まずいな」


「ヴィル」


「うん」


「八柱目というのは」


彼は、長い沈黙のあとで、言いました。


「――僕たちが、七柱で封じたやつだよ」


蝋燭の火が、ゆらりと揺れました。


(……ええと)


(引き継ぎ、まだ終わっていなかったようですね、おばあさま)



***



お読みいただきありがとうございました。


エレノアの『第八の契約』編は、続章にて。


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