嘘殺し ~嘘をつくと他人が死ぬ世界で、俺は一つだけ嘘をついた~
俺が初めて人を殺したのは、十二歳の誕生日だった。
しかも相手は、母さんだった。
この世界では、嘘をつくと誰かが死ぬ。
一対一とは限らない。嘘の「重さ」によって、死ぬ人数も死に方も変わる。小さな嘘なら遠くの誰かが軽く体調を崩す程度で済む。でも大きな嘘は——たとえば愛していない相手に「愛している」と言ったとき——そばにいる人間の心臓が止まる。
これは真実だ。俺の名前はカイ。二十三歳。職業は〝嘘屋〟。
嘘屋というのは、お金をもらって他人の代わりに嘘をつく人間のことだ。
仕事内容は単純明快。「妻に浮気がバレそうなんだが」「親に彼女を紹介したくない」「上司に売上を誤魔化したい」——そういう依頼が来る。俺が代わりに嘘をつく。誰かが死ぬ。依頼人は助かる。俺は金をもらう。
割り切れる仕事だと思っていた。十年前までは。
「カイさーん、今日の依頼キャンセルになりましたよ」
事務所に入るなり、アシスタントのミラが書類を投げてよこした。赤髪を高く結った小柄な女で、入社三ヶ月なのに俺より態度がでかい。
「理由は?」
「依頼人が死にました」
「……嘘じゃないよな」
「嘘つけない体質なんで」ミラはにやっと笑った。「心臓発作だそうです。ご冥福を」
俺は椅子に座ってコーヒーを飲んだ。ぬるかった。
嘘屋というのは需要がある。なにせ誰も嘘をつきたがらない世界だから。嘘の重さは本人にしか事前に分からない。「これくらいなら大丈夫」と思ってついた嘘が、予想外の誰かを殺すことがある。だから金のある人間はプロに頼む。
俺たちはリスク計算のプロでもある。嘘の重さを事前にある程度見積もって、死ぬのが路上の見知らぬ誰かになるよう「方向」を調整する。完璧じゃないが、依頼人の身内に被害が行く確率をぐっと下げられる。
倫理的かどうかは知らない。でも合法だ。
「次の依頼は?」
「午後に一件。でも——」ミラが少し声を落とした。「ちょっと変な案件です」
依頼人は三十代の女性で、名前をソフィといった。
応接室で向かい合うと、彼女は開口一番こう言った。
「嘘をついてほしいんじゃないんです。嘘を、暴いてほしいんです」
俺は少し考えた。「うちはそういう商売じゃないですよ」
「分かってます。でも——」ソフィは机の上に封筒を置いた。分厚い。「調べてみたら、嘘屋さんには副産物として〝嘘を感知する〟能力があると聞いたので」
それは本当だった。嘘をつき続けると、人は嘘の「重み」を肌で感じるようになる。他人がついた嘘も、なんとなく分かる。完全じゃないが、致命的な嘘は——心臓に触れるくらいの嘘は——空気が変わる感じがする。
「夫が嘘をついていると思うんです」ソフィは言った。「でも夫に直接聞いたら、もしかして私が死ぬかもしれない。だから……」
俺は封筒を開けた。想定の三倍の金額だった。
「夫の名前は?」
「ダン。ダン・ウォーカー」
俺の手が、止まった。
ダン・ウォーカー。
俺の師匠の名前だ。
この業界に十年いるが、ダンに嘘屋のイロハを全部教わった。嘘の重さの見積もり方、被害の方向を操る技術、そして——「嘘は道具だ。道具を使う人間が悪いんじゃない」という考え方。
俺がこの仕事を続けられているのは、ダンがそう言ったからだと思っている。
師匠が浮気でもしてるのか、とまず思った。
でも——なぜかその瞬間、十二歳の誕生日の記憶が浮かんだ。
母さんは俺に「お前のことが大好きだよ」と言い続けた女だった。
でも俺には分かっていた。七歳のころから、なんとなく。母さんの「好き」は本当じゃない、と。
確信したのは十二歳の誕生日。ケーキを前にして、母さんが笑顔で言った。
「カイ、ママはあなたを愛しているよ」
その瞬間——母さんは、死んだ。
心臓発作だった。あまりにも重い嘘が、そのまま本人に返ってきた。自分への嘘は、自分を殺す。この世界のルールの、盲点だった。
俺はその日から「嘘」というものを憎んだ。だから嘘屋になった。嘘を制御するために。嘘と向き合うために。
ダンはそんな俺を拾って、言った。
「嘘に怒ってる奴が嘘屋になるのが、一番強い」
あれは名言だと今でも思っている。
ダンに会いに行くのは翌日にした。
単純な理由で——俺はその夜ぐっすり眠れなかったから。師匠が何かを隠しているという仮定だけで、なぜか胸が痛かった。信頼とはそういうものだと知っていたはずなのに。
ダンの事務所は繁華街の外れにある。俺が独立するまで七年間いた場所だ。
「カイか。珍しい」ダンは窓際に立ってタバコを吸っていた。五十代で白髪交じりだが、背筋が真っ直ぐで若く見える。「どうした」
「相談があって」
「座れ」
俺は座った。コーヒーを出してもらった。ちゃんと熱かった。
「実はある依頼を断ろうと思ってるんだが」俺は言った。「依頼人の夫が知り合いで」
「断れ」ダンはすぐ言った。「感情が入ると判断が鈍る」
「そうだな」
「それだけか?」
俺はダンの顔を見た。空気を読もうとした。
何もなかった。
いつも通りのダンだった。嘘の匂いがしない。
俺は少し、拍子抜けした気分で「それだけです」と答えて立ち上がった。
依頼を断る、と決めていた。
でも事務所に戻ったら、ミラが変な顔をして立っていた。
「何があった」
「ソフィさんから追加情報が来ました」ミラはタブレットを差し出した。「これ、見てください」
画面には一枚の書類があった。
十一年前の日付。契約書。
俺の名前が書いてあった。
内容を理解するのに、三十秒かかった。
それは〝嘘の先払い契約書〟だった。
この業界には裏のサービスがある。「今後、自分が必要とする嘘を全部引き受けてくれ」という包括契約だ。依頼人は多額を払う。嘘屋は依頼が来るたびに対応する。
問題はその契約書の依頼人欄だった。
ダン・ウォーカー。
そして受注人欄に、俺の名前。カイ。
でも俺はそんな契約をした記憶がない。
十一年前——俺が十二歳だった年。
「ミラ」声が出なくて、もう一度言った。「ミラ、これ……本物か?」
「筆跡鑑定、依頼しました。本物だそうです」
手が震えた。
ダンが俺を拾ったのは十三歳のとき。母さんが死んで、俺が路上にいたとき。
でもこの契約書は——それより一年前だ。
もう一度、ダンの事務所に行った。
今度はノックしなかった。
ダンは同じ場所に立って、タバコを吸っていた。俺が書類を机に叩きつけると、彼はゆっくり振り返った。
「来ると思ってた」
「説明しろ」
「座れ」
「座らない」
ダンはタバコを消した。「お前の母親に頼まれた」
声が出なかった。
「お前の母さんは、お前が七歳のころ俺のところに来た。『息子に嘘をつき続けなきゃいけない。でも私じゃ限界がある。息子が大きくなったとき、あの子の嘘を全部引き受けてくれる人間を育ててほしい』——そう言った」
「意味が分からない」
「お前は嘘の匂いに敏感すぎた。子供のころから」ダンは静かに言った。「お前の母さんがお前に言う嘘——全部、お前に筒抜けだった。でもお前の母さんはどうしても、お前に嘘をつかなきゃいけない理由があった」
「……何の嘘だ」
ダンが初めて、目を逸らした。
「お前が本当の息子じゃないこと」
それからの話はあまり覚えていない。
ダンが言ったことは断片的に記憶にある。
母さんは不妊だった。子供を諦めかけたとき、ある男から「子供を引き取ってくれないか」と頼まれた。父親は分からない。母親は死んでいた。
母さんはその子供を——俺を——引き取って、本当の子供として育てた。
「愛していたと思うぞ」ダンは言った。「ただお前が嘘に敏感すぎて、真実を言えなかった。お前が傷つくと思って」
「傷つくって」俺は笑おうとして、笑えなかった。「あの人は俺のせいで死んだんだぞ」
「違う」
ダンの声が、初めて強くなった。
「あの人は——お前を愛してなかったんじゃない。愛してたから、嘘になったんだ。愛してるという気持ちはあった。でも心のどこかに『本当の子供じゃない』という事実があった。その矛盾が、嘘を生んだ」
俺はしばらく黙っていた。
窓の外で、街がうるさかった。
「じゃあ」俺はゆっくり言った。「あなたが俺を拾ったのも、母さんとの契約のためか」
ダンは答えなかった。
それが答えだった。
事務所に戻った。
ミラが黙って水を差し出してきた。
「知ってたか」と聞いたら「三日前に知りました」と言った。「言えなくてすみません」
「いや」俺は水を飲んだ。「お前は悪くない」
しばらく何も言えなかった。
ダンが俺に教えてくれたことは全部、本当のことだった。嘘の見積もり。方向の操作。「嘘は道具だ」という考え方。
でもその教えの根っこには、死んだ母さんとの契約があった。
俺はそれを憎めばいいのか。
感謝すればいいのか。
「カイさん」ミラが言った。「ソフィさんの依頼、やりますか?」
俺は少し考えた。
「やる」
「え? でもダンさんが——」
「ソフィさんに会いに行く」俺は立ち上がった。「あの人は夫に嘘をつかれてると思ってる。でも俺が今日ダンに会ったとき、嘘の匂いはしなかった」
ミラが黙って聞いている。
「つまり——ダンが隠してるのは嘘じゃない。真実だ。ソフィさんが知りたいのは、真実の方かもしれない」
それはさっき俺が直面したことと、同じだった。
ソフィに会うと、彼女はすぐ「やっぱり夫は何か隠してますか」と聞いた。
「隠してます」俺は言った。「でも嘘じゃない」
「どういうこと?」
「旦那さんに、直接聞いてみてください。俺が横にいます」
ソフィは怯えた顔をした。「私が……死ぬかもしれない」
「死にません」俺は断言した。「嘘じゃないから」
その夜、三人でテーブルを囲んだ。
ダンはしばらく黙っていたが、最終的に口を開いた。
ソフィには子供ができない体だった。ダンはそれを知っていて、それでも一緒にいたかった。でもソフィが「子供を産めなくてごめん」と泣くたびに、ダンは「気にするな」と言い続けた。
それが——限界まで重くなっていた。
「気にするな、じゃなくて」ダンはソフィの手を握った。「本当は——お前がいれば十分だって、ずっと思ってた。でも言えなかった。お前が傷つくと思って」
ソフィは泣いた。
誰も死ななかった。
真実は、人を殺さない。
帰り道、俺はひとりで夜の街を歩いた。
母さんのことを考えた。
あの人が死んだのは、俺を傷つけたくなかったからだ。本当のことを言えば俺が傷つくと思って、嘘をついた。嘘が重くなって、死んだ。
馬鹿だと思った。
でも——少しだけ、分かる気もした。
愛していたから、嘘になった。
それはたぶん、この世界で一番重い嘘だ。
ポケットの中に、母さんの古い写真がある。もう十年以上、ずっと持ち歩いている。
俺はそれを取り出して、夜空に透かした。
「嘘に怒ってる奴が嘘屋になるのが、一番強い」
師匠の言葉を思い出した。
それは——俺を育てるための嘘だったのか。本当のことだったのか。
もう確かめる方法がない。
でもたぶん——どっちでもよかった。
俺は明日もこの仕事を続ける。誰かの代わりに嘘をつく。誰かが死ぬ。俺は金をもらう。
ただ一つだけ、変わったことがある。
俺は今日初めて——母さんに「愛されていた」と信じることにした。
嘘だとしても。
事務所に戻ると、ミラがまだいた。
「遅かったですね」
「ああ」
「ダンさんから伝言です」ミラはメモを差し出した。
俺はそれを読んだ。
『契約はお前が十三歳になった日に終わった。それ以降は俺の意思だ。間違えるな。——ダン』
俺はそのメモを、しばらく見ていた。
それから、ゆっくり折りたたんで、ポケットに入れた。母さんの写真の、隣に。
「カイさん、泣いてます?」
「泣いてない」
「目、赤いですよ」
「煙が入った」
「煙草吸ってないじゃないですか」
「うるさい」
俺は椅子に座って、目を閉じた。
——そういえば、俺はまだ一度も、誰かに「好きだ」と言ったことがない。
言ったら、誰かが死ぬかもしれないから。
でもひょっとしたら——言わないまま、俺の方が死ぬかもしれない。
母さんみたいに。




