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頭が良すぎて嫌いだった医者

作者: さとるん
掲載日:2026/02/19

 私は、頭の良い人が嫌いだった。

 正確に言えば、頭が良すぎる人が嫌いだった。

 支援学校の高等部に通っている私は、昔から「ちょっと理解が遅い子」だった。小学校のころ、クラスの男子にこう言われたことがある。

「なんでそんな簡単なこともわからないの?」

 悪気はなかったのかもしれない。でも、私はその一言をずっと覚えている。

 わからないことは、怖い。

 わからない顔をされるのは、もっと怖い。

 だから私は思うことにしていた。

 ――頭が良すぎる人は、どこかネジが飛んでいる。

 そう思えば、少し安心できた。


 ある日の昼休み。

「お医者さんってさ、頭良すぎてネジ飛んでるよね?」

 友達の美咲が笑いながら言った。

「わかる。勉強しすぎでさ、普通の感覚なくなってそう」

 私は強くうなずいた。

「先生らってもともと次元が違うんだよ。私たちとは違う世界の人」

 そう言いながら、私は少しだけ胸が軽くなった。

 そのとき、教室の前のほうで、またあいつが先生に話していた。

 天才と噂の男子。拓海。

 授業中でも、急に自分の考えを語り出す。宇宙の話とか、数学の話とか、先生より詳しいこともあるらしい。でも、みんなからは嫌われていた。

「また自分語りしてるよ」

「ほんと無理」

 美咲が小声で言う。

 私は、拓海の横顔を見た。

 真剣で、楽しそうで、少しだけ孤独そうだった。

 でも私は、目をそらした。

「ああいう頭いいやつってさ、どっか違うよね」

 そう言った自分の声が、少し強すぎたことに気づかなかった。


 その週末、私は母と病院へ行くことになった。

 昔から通っている内科だ。体調を崩しやすい私は、何度も通っている。

「えー、またあの先生?」

 私は玄関で言った。

「あの先生おかしいから嫌いなんだよ」

 母は苦笑した。

「そんなこと言わないの。先生は一生懸命よ」

「だってさ、前だっていきなり図とか書き出して、意味わかんないこと言ってたじゃん」

 あの先生は、診察室のホワイトボードに突然図を書き出す。

 矢印とか、丸とか、数式みたいなものまで。

 私はついていけなかった。

 ついていけない自分が、惨めだった。


 病院に着くと、受付で言われた。

「本日から担当医が変わります」

 私は少しほっとした。

 でも同時に思った。

 また変な先生だったらどうしよう。


 診察室に入ると、白衣の若い医者がいた。

 目が静かで、落ち着いている人だった。

「こんにちは。今日はどうしましたか?」

 声は穏やかだった。

 私は小さな声で症状を説明した。

 先生はうなずきながら、途中で言葉を足してくれた。

「つまり、朝になると特にだるくなる、ということですね?」

 私は驚いた。

 言いたかったことを、きちんと整理してくれた。

 先生はホワイトボードを使わなかった。

 かわりに、紙に小さな図を書いた。

「体の中には、いくつかのバランスがあります。たとえば、ベクトルみたいなものです」

 私はベクトルがわからなかった。

 でも、先生は母のほうを見た。

「お母さん、数学の先生でしたよね?」

 母がうなずく。

「今の状態は、力の向きが少しずれているようなものです。同じ大きさでも、方向が違うと打ち消し合ったり、変な動きをします」

 母は真剣に聞いている。

 私は半分しか理解できなかった。

 でも、不思議と嫌な気持ちはしなかった。

 先生は、私のほうに向き直った。

「難しく言いましたが、簡単に言うと、少し休ませて、整えてあげればいいんです」

 その言い方が、やわらかかった。

 押し付ける感じがなかった。

 私は初めて思った。

 頭が良いのに、怖くない人もいるんだ。


 診察が終わるとき、先生は言った。

「あなたは、自分の状態をちゃんと説明できました。それは立派なことですよ」

 その言葉が、胸に残った。

 私は病院を出てから、何度もその言葉を思い出した。


 それから数か月後。

 私は別の問題で、心療内科に通うことになった。

 学校での人間関係がうまくいかなくなったのだ。

 自分はダメなんじゃないか。

 どうせ何もできないんじゃないか。

 そんな考えが止まらなくなっていた。

 紹介されたのは、高齢の医師だった。

 穏やかな目をした人だった。

 最初の診察で、私はうまく話せなかった。

 先生は静かに聞いていた。

 そして言った。

「あなたは、頭の良い人が嫌いなんですね」

 私はびくっとした。

 図星だった。

「だって……わからないから」

 小さな声で言うと、先生はうなずいた。

「わからないというのは、怖いですからね」

 その一言で、涙が出そうになった。

 先生は、机の上のメモ帳を閉じた。

「最初はね、私も専門的な話をたくさんしていました。でも、それはあなたのためになっていなかったかもしれません」

 私は顔を上げた。

「一番になれなくても、自分らしくいればいいんです」

 先生はゆっくりと言った。

「あなた、『世界に一つだけの花』って知っていますか?」

 私はうなずいた。名前くらいは知っている。

「ナンバーワンになれなくても、オンリーワンになればいい。昔、そういう歌詞がありましたね」

 先生は少し笑った。

「でもね、オンリーワンというのは、特別になることではありません。自分を否定しないことです」

 私は黙って聞いた。

「あなたは、自分より理解が速い人を見ると、自分を小さく感じてしまう。でも、それは比較しているからです。比較は、ときに自分に対する侮辱になります」

「侮辱……」

「ええ。自分の価値を、自分で下げてしまうからです」

 先生の声は静かだったが、まっすぐだった。

「あなたは頭の良い人を嫌っているようですが、例えばアルベルト・アインシュタインのような人も、人のために考え続けました。知性は、人を見下すためのものではなく、支えるために使うこともできるのです」

 私は、あの内科の先生を思い出した。

 ベクトルの話をした先生。

 難しかったけれど、押し付けなかった。

 私の言葉を、きちんと整理してくれた。

「あなたには、まだ自分が知らない強さがあります」

 先生は続けた。

「可能性というのは、大きな才能のことではありません。昨日より少しだけ前に進める力のことです。それを自分でつぶしてはいけません」

 私は、目をこすった。

「私はあなたの味方でいます。ちゃんと先生がついています。未来を、今すべて心配しなくていい」

 その言葉は、不思議と重たくなかった。

 励まされているのに、押し付けられていない。

 あのときの内科の先生と、どこか似ていると思った。

 頭が良いのに、やわらかい。

 高いところから見下ろしていない。

 隣に立っている。

「……ありがとうございました」

 私は言った。

「先生の言葉、ちゃんと届きました」

 先生はうなずいた。

「それはあなたが受け取ったからですよ」


 翌日、学校の昼休み。

「昨日のお医者さん、マジでかっこよかった」

 私は弁当を食べながら言った。

「え、どうしたの急に」

 美咲が笑う。

「頭よさそうなのに、優しくてさ。なんか……タイプかも」

「出たよ」

 私は少し笑った。

「でもね、頭いい人って、みんなネジ飛んでるわけじゃないんだよ」

 自分で言って、少し驚いた。

 教室の前では、また拓海が先生に何かを説明していた。

 相変わらず熱心だ。

 みんなは少しうんざりした顔をしている。

 私は、前ほどむかむかしなかった。

 わからない話をしている。

 でも、もしかしたら、ただ一生懸命なだけかもしれない。

 それだけのことかもしれない。

「まるで藤子・F・不二雄みたいな先生だったな」

 私はぽつりと言った。

「え、ドラえもんの人?」

「うん。なんか、やさしそうじゃん」

 美咲は首をかしげたが、私は少しだけ笑った。

 頭が良い人は怖い、と思っていた。

 でも本当は、わからないことが怖かっただけだ。

 そして、わからない自分を認めるのが怖かっただけだ。

 世の中には、いろんな人がいる。

 頭が良くて、冷たい人もいるかもしれない。

 頭が良くて、やさしい人もいる。

 そして、頭が良くなくても、やさしくなれる人もいる。

 私はまだ、自分が何者なのかよくわからない。

 でも、わからないままでも、いいのかもしれない。

 ベクトルの向きが少しずれただけなら、

 きっとまた、整えられる。

 私は前を向いた。

 拓海の声が、少しだけ遠くに聞こえた。

 今日は、目をそらさなかった。

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