頭が良すぎて嫌いだった医者
私は、頭の良い人が嫌いだった。
正確に言えば、頭が良すぎる人が嫌いだった。
支援学校の高等部に通っている私は、昔から「ちょっと理解が遅い子」だった。小学校のころ、クラスの男子にこう言われたことがある。
「なんでそんな簡単なこともわからないの?」
悪気はなかったのかもしれない。でも、私はその一言をずっと覚えている。
わからないことは、怖い。
わからない顔をされるのは、もっと怖い。
だから私は思うことにしていた。
――頭が良すぎる人は、どこかネジが飛んでいる。
そう思えば、少し安心できた。
ある日の昼休み。
「お医者さんってさ、頭良すぎてネジ飛んでるよね?」
友達の美咲が笑いながら言った。
「わかる。勉強しすぎでさ、普通の感覚なくなってそう」
私は強くうなずいた。
「先生らってもともと次元が違うんだよ。私たちとは違う世界の人」
そう言いながら、私は少しだけ胸が軽くなった。
そのとき、教室の前のほうで、またあいつが先生に話していた。
天才と噂の男子。拓海。
授業中でも、急に自分の考えを語り出す。宇宙の話とか、数学の話とか、先生より詳しいこともあるらしい。でも、みんなからは嫌われていた。
「また自分語りしてるよ」
「ほんと無理」
美咲が小声で言う。
私は、拓海の横顔を見た。
真剣で、楽しそうで、少しだけ孤独そうだった。
でも私は、目をそらした。
「ああいう頭いいやつってさ、どっか違うよね」
そう言った自分の声が、少し強すぎたことに気づかなかった。
その週末、私は母と病院へ行くことになった。
昔から通っている内科だ。体調を崩しやすい私は、何度も通っている。
「えー、またあの先生?」
私は玄関で言った。
「あの先生おかしいから嫌いなんだよ」
母は苦笑した。
「そんなこと言わないの。先生は一生懸命よ」
「だってさ、前だっていきなり図とか書き出して、意味わかんないこと言ってたじゃん」
あの先生は、診察室のホワイトボードに突然図を書き出す。
矢印とか、丸とか、数式みたいなものまで。
私はついていけなかった。
ついていけない自分が、惨めだった。
病院に着くと、受付で言われた。
「本日から担当医が変わります」
私は少しほっとした。
でも同時に思った。
また変な先生だったらどうしよう。
診察室に入ると、白衣の若い医者がいた。
目が静かで、落ち着いている人だった。
「こんにちは。今日はどうしましたか?」
声は穏やかだった。
私は小さな声で症状を説明した。
先生はうなずきながら、途中で言葉を足してくれた。
「つまり、朝になると特にだるくなる、ということですね?」
私は驚いた。
言いたかったことを、きちんと整理してくれた。
先生はホワイトボードを使わなかった。
かわりに、紙に小さな図を書いた。
「体の中には、いくつかのバランスがあります。たとえば、ベクトルみたいなものです」
私はベクトルがわからなかった。
でも、先生は母のほうを見た。
「お母さん、数学の先生でしたよね?」
母がうなずく。
「今の状態は、力の向きが少しずれているようなものです。同じ大きさでも、方向が違うと打ち消し合ったり、変な動きをします」
母は真剣に聞いている。
私は半分しか理解できなかった。
でも、不思議と嫌な気持ちはしなかった。
先生は、私のほうに向き直った。
「難しく言いましたが、簡単に言うと、少し休ませて、整えてあげればいいんです」
その言い方が、やわらかかった。
押し付ける感じがなかった。
私は初めて思った。
頭が良いのに、怖くない人もいるんだ。
診察が終わるとき、先生は言った。
「あなたは、自分の状態をちゃんと説明できました。それは立派なことですよ」
その言葉が、胸に残った。
私は病院を出てから、何度もその言葉を思い出した。
それから数か月後。
私は別の問題で、心療内科に通うことになった。
学校での人間関係がうまくいかなくなったのだ。
自分はダメなんじゃないか。
どうせ何もできないんじゃないか。
そんな考えが止まらなくなっていた。
紹介されたのは、高齢の医師だった。
穏やかな目をした人だった。
最初の診察で、私はうまく話せなかった。
先生は静かに聞いていた。
そして言った。
「あなたは、頭の良い人が嫌いなんですね」
私はびくっとした。
図星だった。
「だって……わからないから」
小さな声で言うと、先生はうなずいた。
「わからないというのは、怖いですからね」
その一言で、涙が出そうになった。
先生は、机の上のメモ帳を閉じた。
「最初はね、私も専門的な話をたくさんしていました。でも、それはあなたのためになっていなかったかもしれません」
私は顔を上げた。
「一番になれなくても、自分らしくいればいいんです」
先生はゆっくりと言った。
「あなた、『世界に一つだけの花』って知っていますか?」
私はうなずいた。名前くらいは知っている。
「ナンバーワンになれなくても、オンリーワンになればいい。昔、そういう歌詞がありましたね」
先生は少し笑った。
「でもね、オンリーワンというのは、特別になることではありません。自分を否定しないことです」
私は黙って聞いた。
「あなたは、自分より理解が速い人を見ると、自分を小さく感じてしまう。でも、それは比較しているからです。比較は、ときに自分に対する侮辱になります」
「侮辱……」
「ええ。自分の価値を、自分で下げてしまうからです」
先生の声は静かだったが、まっすぐだった。
「あなたは頭の良い人を嫌っているようですが、例えばアルベルト・アインシュタインのような人も、人のために考え続けました。知性は、人を見下すためのものではなく、支えるために使うこともできるのです」
私は、あの内科の先生を思い出した。
ベクトルの話をした先生。
難しかったけれど、押し付けなかった。
私の言葉を、きちんと整理してくれた。
「あなたには、まだ自分が知らない強さがあります」
先生は続けた。
「可能性というのは、大きな才能のことではありません。昨日より少しだけ前に進める力のことです。それを自分でつぶしてはいけません」
私は、目をこすった。
「私はあなたの味方でいます。ちゃんと先生がついています。未来を、今すべて心配しなくていい」
その言葉は、不思議と重たくなかった。
励まされているのに、押し付けられていない。
あのときの内科の先生と、どこか似ていると思った。
頭が良いのに、やわらかい。
高いところから見下ろしていない。
隣に立っている。
「……ありがとうございました」
私は言った。
「先生の言葉、ちゃんと届きました」
先生はうなずいた。
「それはあなたが受け取ったからですよ」
翌日、学校の昼休み。
「昨日のお医者さん、マジでかっこよかった」
私は弁当を食べながら言った。
「え、どうしたの急に」
美咲が笑う。
「頭よさそうなのに、優しくてさ。なんか……タイプかも」
「出たよ」
私は少し笑った。
「でもね、頭いい人って、みんなネジ飛んでるわけじゃないんだよ」
自分で言って、少し驚いた。
教室の前では、また拓海が先生に何かを説明していた。
相変わらず熱心だ。
みんなは少しうんざりした顔をしている。
私は、前ほどむかむかしなかった。
わからない話をしている。
でも、もしかしたら、ただ一生懸命なだけかもしれない。
それだけのことかもしれない。
「まるで藤子・F・不二雄みたいな先生だったな」
私はぽつりと言った。
「え、ドラえもんの人?」
「うん。なんか、やさしそうじゃん」
美咲は首をかしげたが、私は少しだけ笑った。
頭が良い人は怖い、と思っていた。
でも本当は、わからないことが怖かっただけだ。
そして、わからない自分を認めるのが怖かっただけだ。
世の中には、いろんな人がいる。
頭が良くて、冷たい人もいるかもしれない。
頭が良くて、やさしい人もいる。
そして、頭が良くなくても、やさしくなれる人もいる。
私はまだ、自分が何者なのかよくわからない。
でも、わからないままでも、いいのかもしれない。
ベクトルの向きが少しずれただけなら、
きっとまた、整えられる。
私は前を向いた。
拓海の声が、少しだけ遠くに聞こえた。
今日は、目をそらさなかった。




