第九話・神殿の書庫
驚いて振り返った私のすぐ目の前には、私の叫び声にギョッとしている見覚えのある顔があった。
上着を脱ぎ、シャツの袖を捲ったラフな格好に銀縁の眼鏡。平民の多いここでは特に珍しくない装い。
でも、これまでの彼の印象とはかけ離れた姿に、一瞬だけ人違いかと思ってしまったが間違いない。王族特有の深く青い瞳がレンズでは隠し通せていない。
「パ、パトリック様っ⁉」
「すまない、そこまで驚かせることになるとは思わなくて……」
この人は相手にダメージを与えずに現れるということはできないんだろうか?
困惑の表情で頭を掻きながら、パトリック様は私の前に数冊の本を差し出してくる。かなり古めかしい書籍の表紙には掠れた文字で世界樹や聖獣という単語が見えた。
「聖女について調べるのなら、国史ではなく宗教史だ」
「これ、殿下はもうお読みになられたんですか?」
私の問いかけに頷いて返した後、パトリック様は神殿や世界樹にまつわる書物が並ぶ棚へと案内してくれた。
歴史書と同じくらい棚を埋め尽くしている本の中から、お目当ての情報を探し出すのは大変だ。とりあえず先に殿下が読んだという本を借りることを決めた後、私はあと数冊と別の本に手を伸ばす。
本の内容を確かめようとページを捲る私のことを、パトリック様はなぜかとても珍しいものでも見るような目で眺めていた。
「何でしょうか?」
「いや、何でもない」
口の端を少し上げた薄ら笑いを浮かべながらジロジロ見られるのは良い気分がしない。私はパトリック様へ背を向けるように棚に向かい、書物を吟味し続けた。
書庫にある机に私が着けば、パトリック様も向かいの椅子に座ってくる。書物を手に取るでもなくただ私のことを眺めているだけだ。
最初はチラつく視線を意識していた私も途中からは目の前に居座る彼のことは、あまり気にしないことにした。
ここでの退屈な生活の中で、彼にとって私は単にいい時間潰しになっているのだろう。
自分で選んだ本を全て目を通し終えた後、私は殿下からお勧めされた物だけを抱えて部屋へと戻る。
読んだばかりの本はどれも同じようなことしか書かれておらず、神官から聞いたのと似たようなものだった。
ソファーの上に我が物顔でくつろいでいる黒猫は私の顔を見ると、「にゃーん」と甘えるような声を出して出迎えてくれた。ゴロゴロと喉を鳴らしながら擦り寄ってくる姿には敵意なんて微塵も感じない。
でも、頭上から降ってきた世界樹の実は、あれだって打ちどころが悪ければどうなっていたかは分からない。奇跡的にタンコブが出来るだけで済んだけれど……
「あ、そうよね。名前を付けてあげないと」
猫の丸い顔を見て思い出したように言うと、黒猫は金色の瞳で私のことをじっと見てくる。
まるで私の話していることが分かっているかのようなその仕草に、つい人にするのと同じように話しかけてしまう。
「ヴァルツ、なんてどうかしら? 黒という意味のシュヴァルツから取ってみたんだけど」
「にゃーん」
「あら、気に入った? じゃあ、あなたは今日からヴァルツね」
私が猫を相手に話し込んでいるのをナナがぽかんと口を開けて見ていた。
聖獣を相手に会話しているのを小馬鹿にされるのかと、私は顔を赤くして目を逸らす。
と、ナナは呆れた声で訴えてくる。
「その子、私がどんなに呼んでもガン無視だったんですよ! なのに、アイラ様との態度の差!」
私にではなく、ヴァルツのことを呆れていたらしい。
ナナ曰く、私が不在の時に猫と遊んであげようとしたけれど丸っきり相手にされなかったのだという。
さらに撫でようとした際には爪を立てて引っ掻かれたと、ブラウスの袖を捲ってミミズ腫れした腕を見せてくる。白い肌に真っ赤に腫れた長い傷跡が痛々しい。
「こんなに穏やかな子なのに……」
私がソファーに座ると、黒猫は喉を鳴らしながら膝の上に乗ってくる。ゴロゴロという小気味良い振動を感じながら、毛流れに沿って撫でてやるとうっとりと目を細めていた。
「どこがですか……もうっ、エコ贔屓にもほどがありますってばっ!」
「まだ生まれたばかりだから、しょうがないのよ」
「まあ、そうかもしれないですけど。でも、生まれたばかりってことは、これから大きくなるんでしょうか?」
今はまだ両手の平に乗るくらいの大きさだけれど、聖獣ともなるととてつもなく巨大に育っていくのだろうか?
私達はビクビクしながらヴァルツのことを見る。今は愛らしいモフモフっぷりだけれど、この先どう成長するのかは未知の世界だ。
私は慌てて横に積み重ねていた書物の一冊を手に取り、聖獣についてのページを探した。
「だ、大丈夫よ、猫は小型の獣サイズって書かれているわ」
「小型ですか? 兎とか鼠とか?」
「んー……そこまで詳しくは……でも、少なくとも馬よりは小さいってことよね?」
あまりにも分からないことばかりで、私達は借りてきた本を回し見して情報をかき集める。
結局のところ、神官から聞いたこと以上には何も分からないことだけは十分過ぎるほど理解できた。
「つまり、司教様がいらっしゃらないと、何も分からないってことよね……」




