第三十三話・早朝の客人2
パトリック様がどういった任務で遠征されていたかを伺うこともなく、私達は短い歓談の後に執務室を出る。戻り時間に間に合わなければ宿で待つ者に迷惑が掛かってしまうと、護衛騎士に急かされて殿下は渋々という風に席を立っていた。本当に僅かな時間を縫って訪ねて来たらしい。
廊下の途中でパトリック様が欠伸を漏らしたのに気付く。
「もしかして、あまり寝ていらっしゃらないのでは?」
ミラーベル領からの移動を考えると、夜半には向こうを出ているはずだ。もう帰るだけとは聞いているけれど、心配になって私が訊ねるとパトリック様は問題ないと首を振ってから笑って見せる。
「荷物運搬用の馬車もある。行きと違って積み荷はそこまで多くはないから隅っこででも寝れるだろう」
王族の発言とは到底思えないようなことを口にして、パトリック様は平然としていた。どうやら遠征の際に夜通し馬を走らせることも、積み荷に交じって眠ることも珍しくはないらしい。実力主義の騎士団の中では王子だからと特別扱いされるわけでもなく、他の騎士達と一緒に野宿だってすると笑って見せる。
馬が待つ馬場へと案内しながら、私は隣を歩く第三王子殿下の横顔をチラチラと覗き見る。この屋敷の中でパトリック様と並んでいることにあまり現実味がない。もしやまだ目を覚ましていないのではと疑ってしまう。
屋敷の馬達は厩舎にいるようで、馬場をのんびり走り回っているのはパトリック様達が乗ってきた軍馬だけだった。四頭いるということはもう一人護衛騎士がいるのではと見回すと、厩舎から水を汲んだ桶を運んでいるところ。彼は馬の世話を押し付けられる為だけにこんな朝早くから駆り出されたのだろうか。ちょっと気の毒になってくる。
「アイラ嬢——いや、アイラも今日の午後には発つと聞いたが?」
急に名前を呼び捨てで呼ばれて、私は驚いて顔を上げる。パトリック様は話を振ってきた癖に前を向いたまま私とは視線を合わせてはこない。急にどうしたんだろうと顔を見ていると、私は彼の耳がほんのりと赤く染まっていることに気付いた。
——呼び捨てするだけで照れているのかしら?
殿下のその意外過ぎる反応には気付かぬフリをして、私は平静を装って答える。
「はい。残りの荷造りを終えたら出る予定です。王都へは五日後には着くかと」
「そうか。普通の馬ならそれくらいかかってしまうか……」
訓練された軍馬とは一日に走れる距離も早さも異なるのだろう。パトリック様達は三日ほどで王都へ戻る予定なのだという。そんな長時間の乗馬なんて想像するだけでお尻が痛くなってくる。しみじみと騎士というお仕事の過酷さを実感した。
私が騎士様達のお尻事情をこっそり危惧していると、殿下が指笛を鳴らして一頭の馬を呼び寄せる。嬉しそうに走り寄って来た黒毛の馬は馬場の中へ差し出されたパトリック様の腕に甘えるよう擦り寄っていた。
「殿下の馬ですか?」
「ああ、バーニーだ。入隊して騎馬が認められるようになってから、ずっと一緒だ」
「とっても賢そうな子ですね」
私が殿下の愛馬を褒めると、パトリック様は頬をふっと緩める。そのとても優しい表情に彼がバーニーのことをとても大事にしているのが伝わってきた。
「馬がお好きなんですか?」
「そうかもしれないが、こいつだからというのはある。アイラは?」
「私も馬によりますね。全てが好きと言えるような広い懐は持ち合わせていないので」
「それは聖女にあるまじき発言だな」
「聖女らしさなんて、元からどこにもありませんよ」
殿下も普通だっておっしゃってたじゃないですかと過去の発言を蒸し返せば、パトリック様は目の前のバーニーがビックリして耳をビクっとさせてしまうほど大きな声を出して笑っていた。
「それじゃあ、王都に戻る頃にまた城へ招待させてもらうよ。こないだは兄上の邪魔が入ってしまったからね」
「楽しみにお待ちしております」
私のあまりにも社交辞令な返事に、パトリック様は一瞬だけ寂しそうな顔になったが、すぐにいつもの王子スマイルに戻っていた。こういう場合、何て答えた方が良かったんだろうか? 少し考えてみたが全然分からなかったから、私は柵の向こうのバーニーの鼻筋へ手を伸ばし、殿下の愛馬に話し掛ける。
「バーニー、あなたにもまた会えるのを楽しみにしているわね」
黒馬は返事するかのように大きく鼻でブフンと鳴いてから、もっと撫でて欲しそうに顔を近付けてくる。その仕草がとても愛らしくて、私は「ふふふ」と笑いながら目を細めた。
そんな私のことをパトリック様は意外そうな表情で見た後、私のサイドにまとめただけの髪に手を伸ばして触れてきた。そして、その束を少し持ち上げ自分の顔へと近付ける。あまりの咄嗟のことで驚いて身動きが取れなかった私は、殿下が私の髪に口付けているのをただ茫然と横目で眺めているしかできない。
驚きと動揺で目を丸くしてアワアワしている私へ、パトリック様は悪戯っぽい笑みを浮かべて見せた後、「それじゃあ、また」と言い残してから他の馬の世話をしている護衛騎士達のところへ駆けていってしまう。
愛馬の準備が終わり、宿で待つ仲間のところへと走り去る黒馬に跨る第三王子殿下。その黒色の騎士服が屋敷の門を駆けて出て行く後ろ姿を私は何も言わずに見送った。激しく打つ胸の鼓動がうるさくて、馬の足音さえもあまりよく聞こえない。




