第三十二話・早朝の客人
朝のとても早い時間に忙しなく叩かれる扉の音。私は枕を共有して眠っている黒猫の頭をそっと撫でてから、ベッドを出て寝巻の上にストールを羽織る。
「アイラお嬢様。もう起きておられますでしょうか?」
廊下から聞こえてくる執事のトーマスの声に、私はドアノブに手を掛けた。日は昇っているもののまだ早朝とも言うべき時間帯。いつも通りの隙のないスーツの着こなしだったが、彼もまだ眠気の残る眼をしている。どう考えても只事ではない雰囲気に、私は一度大きく息を飲んでから確認する。
「こんな時間からどうしたの?」
「大変申し訳ございませんが、つい先程に第三王子殿下が訪ねていらっしゃいまして……」
「えっ、パトリック様がっ⁉」
王都にいるはずの王子殿下の名が出てきて、私は思わず驚きの声を上げる。ベッドでは何事かとでも言うように、ヴァルツが顔だけを布団からむくりと出していた。
「はい。遠征帰りに立ち寄られたそうで、今は旦那様が執務室でお話を聞いておられるところでございます」
「そうなのね。急いで支度して向かうから、丁重におもてなしして差し上げて」
「かしこまりました。では、お嬢様は用意が出来次第とお伝えいたします」
侍女の誰かを呼ぶことも提案されたが、私はそれは断って自力で身支度を整える。髪を結い直す時間は無さそうで、太目のリボンでサイドにまとめるだけに留める。こんな早い時間の訪問客などは当然滅多にないことで、屋敷中がバタバタと大慌てしているのが部屋の前の廊下を行き来している家人や使用人達の足音で分かった。そうでなくても王族がこんな田舎の領へ立ち寄るなんて、おそらく初めてのはずだ。
早朝の突然の訪問。まるで森の神殿の時のようだと、私はクスクスと一人で思い出し笑いする。医務室へ突撃された時も同じくらいの時間だったから、パトリック様はどちらかいうと朝型人間なのかもしれない。
これまでの数々を思い起こせば彼の急な登場には驚くことはないけれど、さすがにここは王都から遠く離れたロックウェル領。思い立ったとふらり訪ねて来れる距離じゃない。何か急を要することがあるのか、それとも人目を忍ばなければならないようなことが……?
緊張の面持ちを隠し切れず、心臓の鼓動を宥めながら私は一階へと続く階段を下りていく。パトリック様が何か重大な要件で訪ねて来たのかもしれないという焦りと共に、ひと月近く会っていなかった彼と久しぶりに顔を合わせることへの複雑な照れ。いろんな感情が入り混じったせいで、どんな顔で対面すれば良いのか分からず、私はぎこちない表情で父の執務室の扉を開いた。
応接用のソファーで父と向かい合って腰掛けていたパトリック様は私の入室に半身ごと振り返る。黒色の騎士服姿は以前に城でお会いした時と同じだったが、今日の殿下は腰に剣を携えている。どうやら遠征帰りだというのは事実らしい。部屋の隅で待機している護衛騎士は二人もいて、彼らの装備の重厚さにパトリック様が危険な任務を受けていたことを察する。
「ご無沙汰しております、殿下」
部屋に入りスカートを摘み上げながら私が挨拶を口にすると、パトリック様は安堵したような柔らかな笑みを浮かべた。
「おはよう、アイラ嬢。朝早くから訪ねて、すまない。隊列を抜け出そうと思うと、この時間帯しか都合が付かなくてね」
「任務帰りで昨晩はミラ―ベルで停泊されていたそうだ」
パトリック様の言葉に父が説明を補足してくれる。父は早朝にも関わらず上着を羽織ってタイまで付けた余所行きの恰好をしていた。王族が相手ということで慌ててクローゼットから引っ張り出したのだろう。
隣のミラーベル領はセドリックの父親である男爵が治めている領地だ。そこでパトリック様の隊は昨夕から宿を取っているのだという。朝の出立時刻までに戻って合流しようと考えれば、どうしてもこちらへの訪問が極端に早くなってしまったとの説明に、私は納得せざるを得ない。隣とは言え、領境に大きな森があって意外と時間がかかることくらいは知っている。
私が父の隣に腰掛けると、パトリック様は私と父へ向けて城でよく見かけた王子スマイルを浮かべて見せた。でも、いつもの上辺だけとは違い半分くらいは本心から笑っているようにも感じたので、社交と本音が入り混じった笑みなのかもしれない。
「アイラ嬢が生まれ育った場所には興味があったのですが、本当に良いところですね」
「いえいえ、王都などに比べたら、華やかさも何もございませんが……」
「ここまで馬を走らせながら、彼女の真っ直ぐな性格はこの地だからこそ培われたのだなと思うと、なかなか感慨深いものがありました」
「なんと、殿下からそう言っていただけると、領民達も喜ぶことでしょう」
明らかなお世辞に機嫌を良くしている父親を横目に、私はこの急なパトリック様の訪問の真意を測り兼ねていた。求婚の返事はとっくに送り返して王城側でも受理されている。改めて両親へ挨拶をと言うのなら、こちらから城へ出向くよう要求できる立場なはずだ。殿下がわざわざ私の実家へ訪ねて来る理由が分からず、私は困惑し続けていた。
すると、私の胸元のブローチに気付いたパトリック様が、クシャっと表情を崩した。その目尻のシワはいつもの作り笑顔では絶対に出ないものだ。
「それ、今日も付けてくれているのか」
殿下から贈られたアヴェン石のブローチ。お茶会の時は前もって指示されたから当然だったけれど、今朝のような不意打ちでの対面でも付けているとは思わなかったらしい。露骨に嬉しそうに笑う殿下の顔を、私は照れくさくてまともに見れず、俯きながら小声で告げる。
「どこかに仕舞っておくと無くしてしまいそうで……なので、普段から付けさせていただいております」
「そ、そうか……」
そっと顔を上げてパトリック様の顔を盗み見ると、殿下が耳元まで朱色に染めて照れたように小鼻を指先で掻いているのに気付き、一瞬でその熱は私にまで伝染してしまった。




