第二十七話・帰領
屋敷に入ると先に荷物を運び入れていたナナから、家族はみんな食堂で待っているようだと伝えられる。てっきり帰宅したら父の執務室へ呼ばれると思っていたから、少しばかり緊張していたのに拍子抜けだ。
「朝から奥様がアイラ様の為にお菓子を焼かれたそうですよ」
そう言われて、屋敷中に甘い香りが漂っていることに初めて気付いた。このバターたっぷりの甘酸っぱい匂いは私が大好きなベリーのパイだろうか? 幼い頃から特別な日には厨房に立って焼いてくれた母のパイ。両親が私達の帰領を待ちわびてくれていたことが分かり、胸がキュッと締め付けられる。
一階の厨房隣にある食堂は普段の家族の食事専用で、来賓がある際に食事会を催す時はホールにテーブルを設置して特別に場を作る。屋敷の中では家族が日常的に顔を合わすことが一番多い空間だ。
廊下を歩き、扉の前で一呼吸してから私はヴァルツを抱えていない方の手で小さくノックする。すぐに執事のトーマスが内側から扉を開き、私を中へと促してくれた。
「おかえりなさいませ、アイラお嬢様」
私が生まれる前からこの家で従事している彼に、「ただいま、トーマス。腰のご加減はその後どう?」と声を掛けると、白髪だらけの頭を下げながら目を細めて「ええもうすっかり治っておりますよ」と答えてくれる。森へと旅立つ私達の荷物を馬車へ積み込む際、彼が腰を痛めてしまったのがずっと気掛かりだった。年老いた従者に無理をさせたのではと心配していたから、私は心底ホッとする。
食堂にはすでに兄のジェシーが席へ着いていて、私に向かって片手を振っていた。兄もパトリック殿下と同じ三歳上の十九だが、それ以外には全く共通点がないように思う。鍛錬は一応しているけれど剣術はそこまで得意とは思えないし、かなりのんびりした性格だ。パトリック様のように行動的ならこんな田舎では不満も多いだろうがジェシー兄様には合っているのだと思う。
「あら、お父様は?」
厨房の方からは母が料理人達とお茶の準備をしてくれている声が微かに漏れ聞こえているが、食堂に父の姿は見当たらない。すでにみんな揃っていると聞いていたのだけれど……
私が聞くと、兄様は呆れ顔で苦笑いしてみせる。
「手が足りないって、向こうで母様にこき使われてるよ」
「まあ、お父様まで厨房にいらっしゃるの⁉」
私はヴァルツを床に降ろしてから、兄の隣の椅子へと座る。黒猫はいつものように匂いを嗅いで部屋中を確認して回っている。途中、兄が下ろしている脚に近付いて行った時、ジェシー兄様はビクッと顔を強張らせていた。
「おとなしい子だから大丈夫よ。でも無闇に触ろうとすると引っ掻かれてしまうこともあるみたいだから注意して」
「う、うん……」
家族に宛てた手紙で聖獣のことにも触れていたから、兄様はヴァルツの動きをずっと目で追っていた。黒猫の小さくてモフモフの身体に触れたくてウズウズしているのが分かったが、他の人達が鋭い爪でガッツリやられているのを何度も目撃しているから気軽にどうぞと言うわけにはいかない。
兄と一緒に子猫のことを見守っていると、厨房との間の扉が開いて、甘く香ばしい匂いが食堂いっぱいに広がった。私の乳母でナナの母親でもあるハンナが押すワゴンの上にはティーセットが乗せられていて、その後ろから母と父が皿に乗った焼き菓子を運んでくる。三人は私を見て露骨にホッとした表情になっていた。どれだけ心配をかけてしまったのか、その顔を見ただけでよく分かった。
「おかえりなさい、アイラ」
「ただいま、お父様、お母様。——ハンナ、ナナは荷物を運び終えたら一旦家に帰るって言ってたわ」
「まあ、あの子ったら、旦那様と奥様にご挨拶もせず……」
娘の無事を聞いて、小言を口にしつつもハンナは嬉しそうに笑っている。そう、心配されていたのは私だけじゃない。ナナだって本来ならとっくに帰宅して日常生活に戻っていたはずだったのだ。
「あら、じゃあハンナも今日はこれで上がるといいわ。ナナの分は篭に取ってあるから、温かい内に持って帰ってあげなさい」
母からの助言に、「では、遠慮なくそうさせていただきます」と給仕を別の侍女と交代して、ハンナはそそくさと厨房へ戻って行った。
テーブルの上に並べられたお茶菓子は私とナナの大好物ばかりだった。帰って来る日に合わせて準備してくれていたのが丸分かりで、私は胸がじわっと熱くなる。父が席に着き、母がベリーのパイを切り分けているのを眺めて、ようやく家に戻ってきた実感が湧いてくる。
「神殿の食事は甘味が少ないって聞いたから、ハンナと一緒に張り切ったのよ」
母の言う通り、神殿では甘い物が出てくることはほとんどない。毎回の食事はちゃんと専属料理人が作った物で味はとても良いが、お茶菓子やデザートは出てこない。森の神殿では持ち込んだ物を食べ切ってしまった後は禁断症状が出る一歩手前だったけれど、王都に移動してからはナナが街歩きに出る度に何かしら買って来てくれるし、パトリック様のお茶会でも食べ切れないほどの茶菓子を出して貰えた。
でも、そのことは頑張って用意してくれた母達には内緒だ。私はうれし泣き寸前という風に喜びを体現しながら、母お手製のベリーパイを口いっぱいに頬張った。




