第7章:崖の縁
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## 1
東嶺国の城壁が見えてから、レンの様子がおかしくなった。
もともと口数の少ない女だった。捕らえられてからずっと、必要最低限のことしか話さなかった。だが今は、それすらない。完全な沈黙。目は虚ろで、どこも見ていない。
食事も取らなくなっていた。
野営の夜、兵士が差し出した干し肉を、レンは見向きもしなかった。水すら口にしない。その顔には、何の表情も浮かんでいなかった。
ヒロはそれを見ていた。
彼女の中で何かが壊れかけている。それはわかった。だが、どうすればいいのかがわからなかった。
「食べないのか」
声をかけてみた。
レンは答えなかった。ただ、縛られた両手を見つめていた。その目には、何も映っていなかった。
夜が更けていく。焚き火の炎が揺れる。見張りの兵士が交代で立ち、残りの者たちは眠りについた。
ヒロも眠ろうとした。だが、どこか胸がざわついて、なかなか寝付けなかった。
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## 2
夜明け前。
ふと目を覚ました。
何かがおかしかった。空気が——違う。
体を起こし、周囲を見回した。
レンがいなかった。
縛っていた縄が、地面に落ちている。切り口が鋭い。どこかに隠し持っていた刃物で切ったのだろう。
「レンが——!」
声を上げた。見張りの兵士が慌てて駆け寄ってくる。
「何があった」
サヤが飛び起きた。弓を手に取り、周囲を警戒する。
「逃げた。レンが逃げた」
サヤの表情が険しくなった。
「どっちへ行った」
わからない。だが——
霧の中に、かすかな足跡が残っていた。露に濡れた草が踏み荒らされている。その跡は、山の方へ続いていた。
「追う」
ヒロが言った。
「待て。私も——」
「俺一人でいい」
サヤの言葉を遮った。
「お前は残れ。もし帝国の追手が来たら——」
サヤが何か言おうとした。だが、ヒロは振り返らずに走り出していた。
霧の中を走る。足跡を追う。息が上がる。
なぜ追うのか。自分でもわからなかった。彼女は敵だ。逃げたなら、放っておけばいい。
だが——
あの目が、脳裏から離れなかった。
何も映していない、死んだ目。
あれは、逃げようとする目じゃなかった。
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## 3
霧が晴れ始めた頃、足跡は崖に続いていた。
山の斜面を登り切った先に、断崖があった。切り立った岩肌が、はるか下の谷底へと落ちている。朝日が昇り始め、霧が光に溶けていく。
その縁に——
レンが立っていた。
背中を向けて、谷底を見下ろしている。黒い髪が風に揺れていた。
「レン」
声をかけた。
レンは振り向かなかった。
「一歩も動くな」
彼女の声は平坦だった。感情のない、乾いた声。
「近づいたら、飛ぶ」
ヒロは足を止めた。
二人の間には、十歩ほどの距離があった。レンの足元は崖の縁ぎりぎりで、一歩踏み出せば落ちる。助けに行く時間はない。
「……なぜ」
「なぜ?」
レンが小さく笑った。嘲るような、だが泣きそうな笑い。
「わからないか。任務に失敗した。帝国には戻れない。お前たちの国でも、私は敵。どこにも居場所がない」
風が吹いた。レンの髪が舞う。崖の下から吹き上げる風は冷たく、谷底の深さを思い知らせた。
「生きていても、意味がない」
「……本当にそう思うか」
「思う」
レンの声には、迷いがなかった。
「私は——道具だ。帝国に作られた道具。使い捨ての駒。それ以外の生き方を、知らない」
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## 4
ヒロは動けなかった。
彼女の言葉が、胸に刺さっていた。
道具。使い捨て。
それは——彼女だけの言葉ではなかった。五百年前の自分も、そうだったのかもしれない。会社の歯車。家族のために働くだけの存在。自分自身の価値など、考えたこともなかった。
「……お前の過去を、聞かせてくれ」
レンが振り向いた。
「何を言っている」
「お前が何者で、どこから来て、なぜここにいるのか。それを聞かせてくれ」
「聞いてどうする」
「わからない。だが——聞きたい」
長い沈黙が流れた。
風だけが吹いている。朝日が徐々に強くなり、霧が晴れていく。
レンが——
ゆっくりと、振り返った。
崖を背にして、こちらを見ている。その目には、まだ何も映っていなかった。
「……六歳の時だった」
彼女が口を開いた。
「村が焼かれた。帝国の軍が来て——全部、燃やした」
ヒロは黙って聞いていた。
「父は抵抗した。母は私を抱えて逃げた。だが——追いつかれた」
レンの声が、わずかに震えた。
「目の前で、殺された。二人とも」
「……」
「泣いた。叫んだ。だが、殺されなかった。私は——連れて行かれた」
彼女の目が、遠くを見ていた。ここではない、どこか別の場所を。
「帝国には、施設がある。戦災孤児を集めて、密偵や暗殺者に育てる施設。私は——そこへ送られた」
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## 5
レンの声は淡々としていた。だが、その言葉の一つ一つが、重かった。
「訓練は過酷だった。毎日、死ぬほど走らされた。殴られた。蹴られた。剣を持たされて、互いに斬り合わされた」
彼女は崖の縁に立ったまま、話し続けた。
「最初は、百人以上いた。一年後には、半分になっていた」
「死んだのか」
「殺されたり、死んだり、自分で命を絶ったり。様々だ」
風が吹いた。レンの髪が揺れる。
「私は——生き残った。強かったからじゃない。ただ、感情を殺すのが上手かっただけ」
「感情を殺す」
「泣くな。怒るな。悲しむな。そう教えられた。感情は弱さだ。弱い者は死ぬ。だから——」
彼女の声が途切れた。
「——だから、何も感じないようにした。誰かが死んでも、何も思わないようにした。自分が人を殺しても、何も感じないようにした」
ヒロは何も言えなかった。
「十年。十年間、そうやって生きてきた。任務を遂行し、命令に従い、殺すべき者を殺した。それが——私の全てだった」
レンがこちらを見た。
その目には——何かがあった。空虚だけではない。どこか、渇いたような光。
「だから——お前のことが、わからない」
「俺のこと」
「なぜ私を殺さない。なぜ傷を治した。なぜ——追いかけてきた」
答えは——見つからなかった。
だが、言葉が口をついて出た。
「お前が——死んでほしくなかったからだ」
レンの目が見開かれた。
「そんな理由が——」
「理由なんていらない」
ヒロは一歩、前に出た。
レンが後ずさる。足元の石が崩れ、崖下へ落ちていく。
「来るな」
「お前は道具じゃない」
「何を——」
「お前が何をしてきたか、俺にはわからない。だが——お前はここにいる。生きている。それだけで、十分じゃないか」
レンの顔が歪んだ。泣きそうな、だが泣き方を忘れたような表情。
「私に——生きる価値など——」
「死ぬのは、それからでも遅くない」
ヒロは手を差し伸べた。
「まず——俺たちの国を見てみろ。帝国とは違う世界を見てみろ。それでも死にたいと思ったら——その時は、止めない」
風が吹いた。
二人の間の沈黙が、永遠のように長く感じられた。
レンの目が——揺れた。
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## 6
長い沈黙の後。
レンが——手を伸ばした。
震える指が、ヒロの手に触れた。冷たい指先。だが、確かに生きている温度があった。
ヒロはその手を握った。強く、離さないように。
「来い」
レンを引き寄せた。彼女は崖の縁を離れ、安全な場所まで歩いてきた。
そして——
膝から崩れ落ちた。
「……っ」
声にならない声。彼女の体が震えていた。
泣いていた。
声を出さずに、ただ涙が流れていた。十年間、殺し続けてきた感情が、溢れ出しているようだった。
ヒロは何も言わなかった。ただ、そこに立っていた。
朝日が昇り、霧が完全に晴れた。崖の上に、温かな光が差し込んでいた。
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## 7
城門は、想像していたよりも大きかった。
石造りの壁が高くそびえ、その上には見張りの兵士が立っている。門の前には行列ができていた。商人や農民が、荷車を引いて入城の順番を待っている。
「覚醒者殿、こちらへ」
タカミチが先導した。行列を避け、別の門へ向かう。そこには衛兵が立っており、タカミチの顔を見ると敬礼をして道を開けた。
「ようこそ、東嶺国へ」
門をくぐると、街並みが広がっていた。
石畳の道。木造の家屋が立ち並ぶ。人々が行き交い、商店が軒を連ねている。灰色の空の下でも、そこには確かな活気があった。
ヒロは周囲を見回した。
五百年後の世界で、初めて見る「文明」だった。村よりもはるかに大きく、人も多い。技術は中世レベルかもしれないが——人々は生きていた。笑い、話し、働いていた。
「あれが王城です」
タカミチが指差した。
街の中心に、石造りの城がそびえていた。何層もの塔が空に向かって伸び、旗がはためいている。
「明日、国王陛下に謁見していただきます。今日はお休みください」
タカミチが言った。
ヒロは頷いた。だが、その視線はレンに向いていた。
レンは兵士たちに連れられて歩いていた。その足取りは、まだ重い。だが——
朝の崖で見せた、死んだ目ではなかった。
何かが、変わり始めているのかもしれない。
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## 8
その夜。
与えられた部屋で、ヒロは窓の外を見ていた。
東嶺国の夜景が広がっていた。家々の窓から灯りが漏れ、通りには松明が灯っている。灰色の空の下でも、そこには光があった。
隣の部屋から、気配がした。
サヤだった。彼女も眠れないのだろう。壁越しに、物音が聞こえる。
ヒロは目を閉じた。
レンの顔が浮かんだ。崖の上で、手を差し伸べた時の彼女の顔。泣きながら膝をつく姿。
彼女を救えたのだろうか。
まだわからない。彼女の心の傷は深い。十年間で刻まれた傷が、一日で癒えるはずがない。
だが——
あの時、手を取ってくれた。
それだけで、今は十分だった。
窓の外で、城の塔が夜空に向かってそびえていた。灰色の雲の向こうに、かすかに星が見えた。
明日から、新しい日々が始まる。
何が待っているかはわからない。だが——
一人ではない。
それだけは、確かだった。
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**【第7章 完】**
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*次章予告:*
*銀髪の存在、その正体。*
*五百年の真実。*
*PROTOCOL OMEGA——*




