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第6章:旅路

---


## 1


山道は険しかった。


村を出てから三日。道らしい道はなく、獣道のような細い筋を辿って進むしかなかった。足元には苔むした岩が転がり、一歩踏み外せば谷底へ転げ落ちそうだった。


空は相変わらず灰色だった。太陽の位置すらはっきりしない。時折、冷たい風が吹き抜け、汗ばんだ肌を冷やしていく。


ヒロは胸にハチを抱えて歩いていた。ハチはバッテリーを節約するために低出力モードに入っており、時折「ピピ」と小さく鳴くだけだった。その機械の体は冷たいはずなのに、抱えているとどこか安心した。


タカミチが先頭を歩き、五人の兵士が後に続く。東嶺国の者たちは慣れた足取りで岩場を越えていくが、ヒロの足はもつれがちだった。靴底が薄くなり、石を踏むたびに足の裏が痛んだ。


ふと視線を感じて振り返ると、サヤがいた。


彼女はヒロから五歩ほど離れた場所を歩いていた。目が合った瞬間、彼女は顔を背けた。無言のまま、岩場を登っていく。


二日前の夜から、サヤはこうだった。口を開かず、目も合わせず、ただ黙々と歩くだけ。


胸が重くなる。


さらに後方を見ると、レンがいた。両手を縄で縛られたまま、二人の兵士に挟まれて歩いている。彼女の足取りはひどく重く、何度も躓きそうになっていた。顔色は悪い。ろくに食事を取っていないのだろう。


レンと目が合った。


一瞬、何かが彼女の目の奥で揺れた。だがすぐに、冷たい壁が下りてくる。彼女は視線を地面に落とし、前を向いて歩き出した。


ヒロは前を向いた。


灰色の山肌が、どこまでも続いていた。


---


## 2


あの夜のことを、何度も思い返していた。


野営地の焚き火を囲んでいた時だった。一日の疲れで体は重く、目を閉じれば眠れそうだった。だがサヤが近づいてきて、弓を差し出した。


「持て」


彼女の声は平坦だったが、どこか切迫したものがあった。


「今から訓練する」


「今からか」


疲れていた。体の節々が痛んでいた。明日でもいいだろうと思った。


「夜襲があるかもしれない。お前は弓しか使えない。剣も振れない。だから——」


「守られなくていい」


言葉が口をついて出た。


サヤの表情が固まった。彼女の目の奥で、何かが揺れるのが見えた。


「なんだと」


「俺は自分で——」


「お前は弱い」


サヤの声が低くなった。焚き火の明かりが彼女の顔に揺れる影を落としていた。


「弓もまともに撃てない。刀も握れない。神代の技術があっても、戦場では何もできない。そんな奴を——私が守らなければ、誰が守る」


胸の奥で、何かが熱くなった。


彼女の言葉は正しかった。五百年前の技術者が、刀と弓の時代で戦えるはずがない。守られるのは当然だった。


だが——


「勝手に決めるな」


声が大きくなった。


周囲の兵士たちが振り返る。タカミチが困惑した顔でこちらを見ていた。


サヤの目が見開かれた。そこに浮かんでいたのは怒りだけではなかった。傷ついた色が、一瞬だけ見えた。


「……そうか」


彼女の声から、熱が消えていた。


「勝手にしろ」


そう言い残して、サヤは焚き火から離れていった。暗闘の中に消えていく背中を、ヒロはただ見つめていた。


あれから、彼女とまともに話していない。


---


## 3


四日目の夜。


岩陰に野営を張り、焚き火を囲んでいた。兵士たちは交代で見張りに立ち、残りの者は毛布にくるまって眠っていた。サヤは岩場の上で見張りをすると言って、一人で登っていった。


ヒロは眠れなかった。


焚き火を見つめながら、あの夜のことを考えていた。言い過ぎた。わかっている。サヤは心配してくれていただけだ。自分を守ろうとしてくれていただけだ。


だが——


五百年前、自分は何も守れなかった。


妻を。娘を。


眠りについて、目を覚ました時には、みんないなくなっていた。世界ごと、消えていた。


今度こそ、自分の力で誰かを守りたかった。守られるだけの存在でいたくなかった。それは——ただの意地かもしれない。我儘かもしれない。


だが、譲れなかった。


「何を考えている」


声がして、顔を上げた。


焚き火の反対側に、レンがいた。両手は縛られたまま、地面に座り込んでいる。見張りの兵士は少し離れた岩陰で、姿勢を崩して眠りかけていた。


「……眠れないのか」


レンは答えなかった。彼女の目は焚き火の炎を見つめていた。揺れる炎が、彼女の顔に複雑な影を落としている。


長い沈黙が流れた。


「なぜ」


レンがぽつりと言った。


「なぜ、私を殺さない」


ヒロは黙っていた。


「私はお前を殺そうとした。任務に失敗した密偵だ。帝国にとっては裏切り者。お前たちにとっては敵。生かしておく価値など、どこにもない」


彼女の声は平坦だった。感情を押し殺しているような、乾いた声。


「なのにお前は傷を治した。食事を与えた。連れて歩いている」


レンがこちらを見た。


「なぜだ」


答えを探した。だが、見つからなかった。


「……わからない」


「わからない?」


「ただ——殺したくなかっただけだ」


レンの表情が揺れた。困惑と、理解できないものを見るような目。


「私が逆の立場なら、迷わず殺していた。帝国では、そう教わった。任務に失敗した者は切り捨てる。弱い者は見捨てる。それが——生き延びる方法だと」


焚き火が爆ぜた。小さな火の粉が舞い上がり、闇に消えていく。


「だから——お前のことが、わからない」


レンの声が、少しだけ震えていた。


「なぜ、私のような者に——」


言葉が途切れた。彼女は顔を背け、再び炎を見つめた。


ヒロもまた、炎を見つめた。


帝国では、そう教わった。その言葉が、胸に残っていた。


彼女もまた、何かを失ったのかもしれない。誰かに守られることを、知らないまま育ったのかもしれない。


焚き火の炎が、静かに揺れていた。


---


## 4


五日目の朝、世界は霧に包まれていた。


目を覚ました時、最初に感じたのは冷気だった。いつもより空気が重く、湿っている。体の上に置いた毛布が、微かに濡れていた。


起き上がると、視界が白く霞んでいた。


霧だ。濃い霧が山全体を覆い、十歩先すら見通せない。岩も木も、白い靄の中に溶け込んでいる。


「全員、固まれ」


タカミチの声が霧の中に響いた。兵士たちが慌ただしく動き、陣形を組み始める。


「覚醒者殿、こちらへ」


タカミチがこちらに手を差し伸べた。立ち上がり、彼のそばに歩み寄る。


その時——


ハチが鳴いた。


「ピピッ……!」


いつもの電子音とは違う、鋭い警告音。抱えているハチの体が、微かに震えているのがわかった。


「ハチ?」


「ピピ……ピピ……」


ハチがこちらに体を押し付けてきた。まるで、何かから隠れようとするように。


背筋が冷たくなった。


この機械の犬は、五百年前の技術で作られた警備用ドローンだ。センサーは人間よりもはるかに鋭い。そのハチが、怯えている。


——何かが、いる。


本能が警告を発していた。


ゆっくりと振り返った。


霧の中に——


影があった。


人の形をした影。輪郭がぼやけて、はっきりとは見えない。だが、その頭部に——銀色の光が揺れているのが見えた。


髪だ。銀色の、長い髪。


「誰だ」


声が震えた。


影は動かなかった。ただ、こちらを見ている。霧の向こうから、じっと。


「そこにいるのは誰だ——!」


声を張り上げた。


影が——


消えた。


霧が揺らめき、銀色の光が薄れ、何もなくなった。ただ白い霧が、静かに漂っているだけ。


「どうした」


サヤが駆け寄ってきた。弓を構え、周囲を警戒している。二日ぶりに聞く彼女の声だった。


「今……誰かいた」


「誰か?」


「銀色の髪が——」


サヤの表情が険しくなった。


「村でも見たと言っていたな」


「ああ。あれと同じだ」


サヤが霧の中を睨んだ。弓を構えたまま、ゆっくりと周囲を見回す。


「気配は感じない。だが——何かがいるのは確かだ」


答えは出なかった。


ただ、視線だけが残っていた。どこからか、誰かに見られているような感覚。霧が晴れても、その視線は消えなかった。


---


## 5


六日目の夕刻、山を越えた。


最後の峠を登り切った時、眼下に広がる光景に息を呑んだ。


平野だった。灰色の大地が、遠くまで広がっている。その中に、ぽつりと城壁が見えた。石造りの壁に囲まれた小さな町。いくつかの塔が空に向かって伸びている。


「あれが東嶺国の都、嶺城だ」


タカミチが言った。彼の声には、故郷に戻る者特有の安堵が滲んでいた。


ヒロはその景色を見つめた。


村を出てから六日。長い旅だった。足は痛み、体は疲れ切っていた。だが——着いた。


「……」


隣に気配を感じて、視線を向けた。


サヤがいた。彼女もまた、眼下の景色を見つめていた。その横顔は、夕日に照らされて柔らかく見えた。


「サヤ」


声をかけると、彼女はこちらを見た。


「……なんだ」


「あの時は、悪かった」


サヤは黙っていた。彼女の目が、こちらを見つめている。


「勝手に決めるなと言った。だが——お前が心配してくれていたのは、わかっていた。俺を守ろうとしてくれていたことも」


風が吹いた。サヤの黒髪が揺れる。


「ただ——守られるだけは嫌だった」


言葉を探しながら、続けた。


「五百年前、俺は何も守れなかった。妻も娘も、失った。だから今度こそ——自分の力で誰かを守りたかった。守られるだけの存在でいたくなかった」


サヤは何も言わなかった。ただ、こちらを見つめていた。


「我儘かもしれない。だが——」


「馬鹿だな」


サヤが言った。


だが、その声には怒りがなかった。呆れたような、だがどこか温かい響きがあった。


「守られるのが嫌なら、一緒に戦え」


「え?」


「お前が私を守り、私がお前を守る。それでいいだろう」


ヒロは——


思わず、笑った。


「ああ。そうだな」


サヤの表情が、わずかに緩んだ。彼女はすぐに顔を背けたが、その口元には小さな笑みが浮かんでいた。


「……行くぞ。日が暮れる前に着きたい」


「ああ」


二人で山を下り始めた。


ヒロは知らなかった。


山の上、霧の名残が漂う岩場の陰から——銀色の髪を持つ者が、静かに見つめていたことを。


その瞳には、何の感情も浮かんでいなかった。ただ、見守るように。


ずっと、そうしてきたように。


---


**【第6章 完】**


---


*次章予告:*

*崖の縁に立つレン。*

*帝国で奪われた過去。*

*そして——ヒロが差し伸べる手——。*


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