第5章:招聘
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## 1
十日が過ぎた。
毎朝、日が昇る前に林へ向かう。霧が立ち込める中、サヤはいつも先に来ていた。無言で弓を渡され、的に向かって矢を放つ。それが日課になっていた。
最初の頃は、矢は的のはるか下に突き刺さった。二メートルも外れることがあった。腕が震え、指が弦を離すタイミングがつかめなかった。
だが、十日が経つと、変化が現れ始めた。
矢が的の端に当たるようになった。時折、中心に近いところに刺さることもあった。
「……マシになった」
サヤがぽつりと言った。彼女にしては珍しい言葉だった。
訓練中、サヤは時折、ヒロの腕や肩に触れて姿勢を直してくれた。その指先は冷たく、触れるとすぐに離れていく。だが、その一瞬の接触が、妙に意識に残った。
彼女がなぜ、ここまで世話を焼いてくれるのか。その理由はまだよくわからなかった。第四章の夜、互いの過去を語り合ってから——何かが変わったような気がする。だが、それが何なのかは、言葉にできなかった。
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## 2
その朝、訓練を終えて村に戻ると、様子が違っていた。
広場に人だかりができている。村人たちが何かを遠巻きに見つめていた。警戒と好奇心が入り混じった空気が漂っている。
人垣の向こうに、見慣れないものがあった。
馬だ。三頭の馬が、広場の中央に繋がれていた。立派な鞍を乗せた、毛並みの良い馬。この村では見たことのない光景だった。
その傍らに、鎧を着た兵士が五人立っていた。手には槍を持ち、腰には剣を佩いている。装備は統一されており、どこかの国の正規兵であることは明らかだった。
そして——中央に、一人の男が立っていた。
二十代後半だろうか。整った顔立ちに、落ち着いた物腰。紺色の衣には銀糸で精緻な刺繍が施されており、腰には細身の剣を帯びている。貴族か、それに近い身分の者だと見て取れた。
男がこちらに気づき、深々と頭を下げた。
「お初にお目にかかる。私は東嶺国の使者、タカミチと申す」
東嶺国。
その名前には聞き覚えがあった。老婆が話していた国だ。東の山々を越えた先にある小国。周辺の大国に挟まれながらも、独自の技術力で生き延びてきた国。
「神代から目覚めた方がこの村におられると聞き、参上した」
タカミチの視線がこちらに向いた。村人たちの視線も、一斉にこちらを見た。
ヒロは一歩前に出た。
「……俺のことか」
「おお、あなたが」
タカミチの目が輝いた。彼はゆっくりと近づいてきた。その足取りには敬意が込められていた。
「覚醒者殿。お会いできて光栄だ」
覚醒者。
初めて聞く呼び名だった。この時代では、コールドスリープから目覚めた者をそう呼ぶのだろうか。
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## 3
交渉は、老婆の家で行われた。
囲炉裏を囲んで座る。火が爆ぜる音が、沈黙を埋めていた。タカミチは姿勢を正して座り、ヒロはその向かいに腰を下ろしていた。サヤは壁際に立ち、腕を組んで二人のやり取りを見守っていた。
タカミチが口を開いた。
「単刀直入に申し上げます。我が国は、あなたの力を必要としています」
「力とは」
「神代の技術です」
タカミチの目が真剣だった。囲炉裏の炎が、彼の顔に揺れる影を落としている。
「我が東嶺国は小国です。兵も少なく、資源も乏しい。周囲を大国に囲まれ、常に併合の脅威にさらされてきた」
彼は一度言葉を切り、深く息を吸った。
「だが、神器——旧文明の遺物を扱える者がいれば、状況は変わります。あなたのような方がいれば」
ヒロは黙って聞いていた。
「技術顧問として、我が国に来ていただきたい。報酬は惜しみません。身分も、住居も、望むものは何でも用意します」
囲炉裏の火が爆ぜた。小さな火の粉が舞い上がり、消えていく。
「……俺は、戦うために目覚めたわけじゃない」
ヒロは静かに言った。
「技術は提供できるかもしれない。だが、戦争の道具になるつもりはない」
「承知しております」
タカミチが頷いた。その表情は真摯だった。
「我々が求めているのは、破壊ではなく防衛です。この国を守るための力です」
彼は身を乗り出した。
「ですが——放っておけば、あなたもこの村も、すべてが飲み込まれるでしょう」
「どういう意味だ」
「西海帝国です」
その名前を聞いた瞬間、空気が変わった気がした。
老婆が話していた。西の海を越えた先にある大国。神器を多く持ち、周辺の国々を次々と従えている強大な勢力。
「帝国は、神代の者——あなたの噂を聞きつけています。彼らは必ず、この村に来る。あなたを手に入れるために」
タカミチの声が低くなった。
「その時、この村はどうなると思いますか」
答えは明白だった。
小さな村が、大国の軍勢に抵抗できるはずがない。ヒロを渡さなければ、村は焼かれるだろう。渡したとしても、口封じのために村人は殺されるかもしれない。
「三日、お時間をいただけますか」
タカミチが言った。
「それまでに、お答えをいただければ」
ヒロは黙っていた。
「……考えさせてくれ」
「ありがとうございます」
タカミチは深く頭を下げ、立ち上がった。
「村の外れに野営します。何かあれば、いつでもお声がけください」
そう言い残して、彼は外へ出ていった。
囲炉裏の火だけが、静かに燃え続けていた。
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## 4
その夜。
囲炉裏の火を見つめながら、ヒロは考え続けていた。
東嶺国に行くべきか。このまま村に留まるべきか。どちらを選んでも、危険は避けられない。
ふと、気配を感じて顔を上げた。
サヤがいた。囲炉裏の向こう側に、静かに座っている。いつからそこにいたのか。彼女は無言で炎を見つめていた。
「……行くのか」
サヤが言った。視線は炎に向けたまま。
「まだ決めていない」
「そうか」
沈黙が流れた。火が爆ぜる音だけが響く。
「お前は——どう思う」
「私の意見など、関係ない」
「聞きたいんだ」
サヤがようやくこちらを見た。炎の光が、彼女の顔を照らしている。
長い沈黙。
「……行くなら」
彼女は視線を逸らした。声が小さくなる。
「私も行く」
「え?」
「弓の訓練が、まだ終わっていない」
サヤは立ち上がった。背を向けたまま、言葉を続ける。
「途中で投げ出すわけにはいかない。それだけだ」
理由としては、不十分だった。訓練なら村でもできる。わざわざ危険な旅に同行する理由にはならない。
だが——彼女の声には、別の何かがあった。言葉にできない、何か。
「……ありがとう」
「礼は後でいい。明日も訓練だ。早く寝ろ」
サヤはそう言い残して、外へ出ていった。
ヒロは再び炎を見つめた。
胸の奥が、温かくなっていた。
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## 5
三日目の夜。
答えを出さなければならない。だが、まだ決められずにいた。
囲炉裏の火が消えかけていた。新しい薪を取ろうと腰を浮かせた、その瞬間——
殺気。
全身の毛が逆立った。
体が反射的に動いていた。横に転がる。頭があった場所を、何かが通り過ぎた。
短剣だ。床板に深々と突き刺さっている。
「ピピッ……!」
ハチが警告音を発した。低く、鋭い電子音。
天井を見上げた。
影がいた。人の形をした影。黒い衣を纏い、顔を布で覆っている。手には、もう一本の短剣が光っていた。
影が飛び降りてきた。
「くっ——!」
後ろに跳び、壁際まで下がる。弓は——手の届かない場所にある。
影が迫ってくる。速い。人間とは思えない速さ。
「ガウッ!」
ハチが飛びかかった。影の足首に噛みつく。
「小癪な——!」
女の声だった。影は足を振り、ハチを蹴り飛ばした。ハチが壁にぶつかり、床に転がる。動きが止まった。
「ハチ……!」
その一瞬の隙。
女の短剣が振り下ろされる——
終わりか。
その瞬間、戸口が蹴破られた。
サムだった。
剣を抜き、女に斬りかかる。女は短剣で受け止め、後退した。
「チッ……」
女が舌打ちした。
「覚醒者殿!」
外から声が響いた。タカミチだ。兵士たちの足音が近づいてくる。
女が窓に向かって走った。
「待て!」
サムが追う。
その時——
「ガウッ!」
ハチが立ち上がった。女の足に再び噛みついた。
女がバランスを崩す。その隙に、サムの剣の柄が女の後頭部を打った。
女が崩れ落ちた。
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## 6
「大丈夫ですか!」
タカミチが駆け込んできた。兵士たちが後に続く。
ヒロは床に座り込んだまま、荒い息をしていた。心臓がまだ激しく鳴っている。
「帝国の密偵です」
タカミチが倒れた女を見下ろした。その顔は険しい。
「やはり、帝国はあなたの存在を嗅ぎつけていた」
兵士たちが女を縛り上げる。
ヒロはハチに駆け寄った。
「ハチ、大丈夫か」
「ピピ……」
ハチが弱々しく光った。バッテリーが減っている。壁にぶつかった衝撃で、どこか損傷したかもしれない。
「よくやった」
ハチの頭を撫でた。冷たい金属の体が、かすかに震えていた。
女が目を覚ました。
見れば、若い女だった。二十代前半だろうか。黒髪を高く結い上げ、鋭い目つきをしている。美しい顔立ちだが、その目には冷たい光が宿っていた。
「……殺せ」
女が言った。声には感情がなかった。
「任務に失敗した。帝国には戻れない。殺せ」
「殺さない」
ヒロは静かに言った。
女の目が見開かれた。
「なぜだ」
「……わからない」
女が嗤った。泣きそうな笑顔だった。
「馬鹿か」
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## 7
女の頭から血が流れていた。サムの一撃が深く入ったのだろう。
「手当てしないと」
ヒロが言うと、タカミチが眉をひそめた。
「覚醒者殿、この女は——」
「わかっている」
ヒロは医療キットを取り出した。旧文明の遺物。消毒液と包帯がいくつか残っている。
「放っておけ」
女が顔を背けた。
「死なれると困る」
「なぜだ」
「……わからない」
ヒロは女の頭の傷を洗った。女が顔をしかめる。
「痛いか」
「……うるさい」
縫合する。女は声を出さなかった。ただ唇を噛みしめ、痛みに耐えていた。
「終わった」
包帯を巻き終えた。
女はこちらを見つめていた。その目には——何かがあった。困惑。理解できないものを見るような目。
「覚醒者殿」
タカミチが言った。
「この女をどうしますか。処刑するなら、我々が——」
「連れていく」
「……は?」
「東嶺国へ。連れていく」
タカミチが目を見開いた。
「危険です。また、あなたを殺そうとするかもしれません」
「かもしれない」
ヒロは女を見た。
「でも、ここに置いてはいけない。帝国に見つかれば、今度こそ殺される」
女が——
小さく、震えた。
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## 8
翌朝。
村の入り口で、サムが待っていた。
「行くのか」
「ああ」
サムが頷いた。その顔には、寂しさと決意が入り混じっていた。
「村は俺が守る。だから——」
彼は拳をこちらに向けた。
「——無事に帰ってこい」
ヒロは拳を合わせた。
「任せた」
サヤは無言で弓を背負っていた。彼女は何も言わず、ただ先を歩き始めた。
ヒロはハチを抱え、後を追った。縛られた女——レンも、兵士に連れられて歩いている。
村の入り口で、振り返った。
灰色の空の下、小さな村。老婆が手を振っていた。村人たちが遠くから見送っていた。
——また、戻ってこられるだろうか。
わからなかった。
だが——
「行くぞ、ハチ」
「ピピッ」
前を向いた。
その時——
林の奥で、何かが光った。
銀色の髪が、一瞬だけ見えた。
振り返る。だが、もう何もない。木々が風に揺れているだけ。
「どうした」
サヤが聞いた。
「……いや、何でもない」
歩き出す。
だが——
背中に、視線を感じていた。
誰かが、見ている。
ずっと、見守っている。
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**【第5章 完】**
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*次章予告:*
*東嶺国への旅路。*
*サヤとの衝突。レンの葛藤。*
*そして——霧の中の銀色の影——。*




