第2章:灰谷村
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## 1
どれくらい歩いただろう。
足が重い。体が重い。五百年ぶりに動く筋肉は、すぐに悲鳴を上げた。
瓦礫の道を進む。ハチが横を歩いている。バッテリーは残り少ない。長くは持たないだろう。
煙を目指して歩いた。人がいるかもしれない。あるいは、敵かもしれない。だが、一人で生き延びられないことは明らかだった。
「ピピッ」
ハチが鳴いた。何かを感知したらしい。
前方に——光が見えた。
松明だ。複数の松明が、闇の中で揺れている。
「人だ」
声に出した。自分でも驚くほど、その声は嬉しそうだった。
だが——
松明が、こちらに向かってきた。
速い。走っている。
「待て——」
声を上げる暇もなかった。
何かが横から飛んできた。網だ。重い網がヒロの体に絡みつき、地面に倒れ込んだ。
「動くな!」
怒鳴り声。複数の足音。
気づけば、槍を持った男たちに囲まれていた。
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## 2
言葉が通じなかった。
男たちが何かを叫んでいる。だが、その言葉は——日本語のようで、日本語ではなかった。文法は似ている。単語もいくつか聞き取れる。だが、発音が違う。五百年という時間が、言語そのものを変えてしまったのだろう。
「……俺は、敵じゃない」
ゆっくりと、はっきりと発音した。
男たちがざわめいた。こちらの言葉も、彼らには異様に聞こえるのだろう。
「何者だ」
一人の男が、槍を突きつけながら言った。この言葉は聞き取れた。
「遠くから来た。道に迷った」
嘘ではない。五百年前から来たとは言えないが。
男たちが顔を見合わせた。何かを話し合っている。
やがて、一人が縄を持ってきた。
「縛る。抵抗するな」
抵抗する気力もなかった。両手を差し出すと、男たちは荒々しく縄を巻きつけた。
「ガウッ!」
ハチが警告音を発した。ヒロを守ろうとして、男たちに向かって吠える。
「待て、ハチ」
ヒロは急いで言った。
「攻撃するな。大丈夫だ」
ハチが戸惑ったように首を傾げた。だが、命令に従って後退した。
男たちはハチを警戒しながらも、手を出さなかった。金属の獣が何なのか、理解できないのだろう。
ヒロは縛られたまま、村へと連れて行かれた。
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## 3
灰谷村は、小さな集落だった。
木造の家が二十軒ほど。中央に井戸があり、周囲を柵が囲んでいる。五百年前の田舎の風景に似ていたが、どこか違った。技術が後退している。電気はない。ガラス窓もない。まるで中世に戻ったかのようだった。
村人たちがヒロを取り囲んだ。老人、女性、子供。みな、異様な目でこちらを見ている。恐怖と好奇心が入り混じった視線。
「村長を呼べ」
男の一人が言った。
しばらくして、老婆が現れた。腰が曲がり、杖をついている。だが、その目は鋭かった。
「これが、お前たちが捕らえた者か」
老婆がヒロを見つめた。値踏みするような、だがどこか慈悲深い目。
「どこから来た」
「……遠くから」
「何者だ」
「技術者だ。機械を直せる」
老婆の目が光った。
「機械?」
「そうだ。壊れたものを直す。それが俺の仕事だった」
沈黙。
老婆が村人たちを見回した。
「井戸を見せろ」
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## 4
井戸は壊れていた。
正確に言えば、井戸に取り付けられたポンプが壊れていた。旧文明の遺物だろう。手動式のポンプで、レバーを上下させると水が汲み上げられる仕組みだった。
「三日前から動かない」
老婆が言った。
「水は桶で汲んでいるが、重労働だ。女子供には厳しい」
ヒロはポンプを調べた。縛られた手では難しかったが、構造は単純だった。
「中を見てもいいか」
老婆が頷いた。縄が少し緩められた。
ポンプのカバーを外す。中には——予想通り、パッキングがあった。ゴム製のパーツが劣化して、ひび割れている。そのせいで気密が保てず、水を吸い上げられなくなっていた。
「これだ」
ヒロが言った。
「パッキングが劣化している。これを交換すれば動く」
「交換? そんな部品はない」
「作れる」
村人たちがざわめいた。
「何か——柔らかくて弾力のある素材はあるか。動物の皮でもいい」
老婆が指示を出すと、村人が走っていった。しばらくして、なめし革の端切れが持ってこられた。
ヒロはそれを受け取り、作業を始めた。
工具箱から道具を取り出す。革を切り、形を整え、元のパッキングと同じサイズに加工する。慣れた手つきだった。何百回とやってきた作業。五百年経っても、手は覚えていた。
作業が終わり、新しいパッキングを取り付ける。
「試してみろ」
老婆が若い男に合図した。男がレバーを握り、上下に動かす。
最初は何も起きなかった。だが——
ゴボゴボ、という音。
水が噴き出した。
冷たい、透明な水。
村人たちから歓声が上がった。子供たちが駆け寄り、水を浴びて笑っている。
老婆がヒロを見つめた。その目には、驚きと——敬意があった。
「……お前、名は何という」
「ヒロだ」
「ヒロ」
老婆が頷いた。
「お前は——しばらく、ここにいろ」
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## 5
その夜。
老婆の家で、囲炉裏を囲んでいた。火が爆ぜる音が心地よい。
「食え」
老婆が椀を差し出した。中には粥が入っていた。温かい。五百年ぶりの温かい食事だった。
「……ありがとう」
むさぼるように食べた。涙が出そうになった。
「お前、本当にどこから来た」
老婆が聞いた。
ヒロは箸を止めた。嘘をつくべきか、正直に言うべきか。
「……信じてもらえないかもしれない」
「言ってみろ」
「俺は——五百年前から来た」
沈黙。
老婆は表情を変えなかった。
「コールドスリープ。知らないだろうが……長い眠りについて、目が覚めたら——この世界になっていた」
「……そうか」
老婆が言った。あっさりとした反応だった。
「神代からの目覚め人、か」
「え?」
「伝承がある。大崩壊の前、長い眠りについた者たちがいる。彼らはいつか目覚めて、世界に知恵をもたらすと」
ヒロは絶句した。自分のような存在が、伝承として残っていたのか。
「お前——本当に、その一人なのか」
「……そうだ」
老婆は長い間、ヒロを見つめていた。
「ならば——お前の助けが、必要になるかもしれん」
何の助けか。聞こうとした時——
外から声が聞こえた。
「村長! 外に——」
老婆が立ち上がった。ヒロも後に続く。
外に出ると、一人の若い女が立っていた。
黒髪を短く切り揃え、頬に古い傷跡がある。肩には弓を背負い、腰には短剣を帯びていた。獣の皮で作られた服を着ている。
「サヤ」
老婆が言った。
「戻ったか」
「ああ」
女——サヤが答えた。その目がヒロを見た。
鋭い目つき。警戒と疑いが込められている。
「誰だ、そいつは」
「客人だ。井戸を直してくれた」
サヤの目が細まった。
「神器を直せる、ということか」
「そうだ」
サヤはしばらくヒロを見つめていた。やがて、視線を外した。
「……気をつけることだ」
それだけ言って、彼女は闇の中へ消えていった。
老婆が溜息をついた。
「あの子は——警戒心が強い。気にするな」
ヒロは、サヤが消えていった方向を見つめていた。
あの目。あの鋭い目。
どこか——懐かしいような気がした。
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**【第2章 完】**
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*次章予告:*
*夜襲。*
*壊れたライフル。*
*そして——謎の狙撃手——。*




